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14話

 昭和二十年夏。湿り気を帯びた風が官邸の障子をわずかに震わせていた。

 空襲の黒痕が乾ききらずに残る東京では、焦げた木材と古い紙の臭いが、

 市民の肺に日常のように染みついていた。

 政治家も官僚も軍も、いま何が国を崩すのかを知りながら、

 その答えを紙の山の中で探すしかなかった。


 内務省から届いた治安報告書の束を開いた途端、吉田の目は、数字の示す“低下”よりも、

 その背後にある“制度の擦り切れ”に釘付けになった。


 ——警察実働率:戦前比58%。

 ——夜間巡回:燃料不足により大幅制限。

 ——地方役場:偽徴用令状・偽配給証・偽身分証の相談が激増。


 数字は冷静だが、現実は冷静ではなかった。

 徴用、配給、身分証——これらは戦時下の「生活の根幹そのもの」だ。

 ひとつが壊れても国は揺れる。三つ同時に揺れれば、国は“国民の生活意識”の側から先に崩れ落ちる。


 吉田は、紙の端をそっと押さえた。紙が湿気を吸い、頼りなく波打っている。

 それがまるで、この国の姿を象っているようだった。


 「お待たせしました」


 麻生一郎が、厚い統計資料の束を抱えて官邸へ入ってきた。

 スーツは仕立てが良いはずなのに、肩のあたりがどこか沈んで見える。


 「今日は数字だらけですよ、総理」


 苦笑めいた声だが、その裏にある重みを吉田は理解している。


 「……見せてくれ」


 麻生は机に資料を広げた。


 「まず物価。指数が四倍化しています。闇市価格はさらに加速度的です。

  主要工場の稼働率は38%。燃料優先は軍で、民間はぎりぎりの薄氷です」


 「扇風機の件は?」


 吉田の声には、ほんの一滴の期待が滲んでいた。


 麻生は一呼吸置き、静かに語り始めた。


 「……はい。扇風機は、試作機が三台完成しました。

  町工場を三か所稼働させることに成功し、十数人規模ですが“雇用が戻る”という事実ができました」


 その瞬間、吉田の胸にわずかな温度が灯った。

 戦争が国を削り、数字が国民を追い詰める中で、

 雇用という単語は久しく聞かなかった“人の息遣い”に近い言葉だった。


 「作りはどうだ」


 「羽根は軽く、電力消費も最小。今の日本でも作れる“生活の機械”です。

  工員の表情も良かった。……皆、心のどこかで“働く理由”を探していたのでしょう」


 麻生の語り口は柔らかい。

 だがその優しさの下に、重たい現実が潜んでいることを吉田は察していた。


 「しかし……続かなかったのだな」


 「はい。燃料です。工場稼働に必要な最低分が確保できず、三日で停止しました。

  工員には“理由は言えない”と言いましたが……あの目は、なんとも言えませんでした」


 麻生は机に手を置き、呼吸を整えた。


 「総理、国民は“光が見えては奪われる”という状態を繰り返しています。

  希望よりも、喪失の記憶が積み重なってしまう」


 吉田の胸にじわりと重さが増していく。

 戦争は武力で進むものではない。国家の持久力とは、兵器ではなく、国民が“日々を続ける気力”だ。

 その基盤が砂のように崩れ始めている。


 「……国民は、あとどれほど持つのか」


 吉田の問いに、麻生は資料の一枚を静かに差し出した。


 「計算上は、残り一年。ただし——」


 「国民の心は一年持たぬ、か」


 麻生は深く頷いた。


 「はい。配給の遅れ、不正の増加、物価の急騰。

  政府への信頼より“日々を乗り切る不安”が勝っています。

  今の日本は、数字より先に心が折れ始めています」


 その沈黙の中、生筋有喜が官邸へ姿を現した。

 やつれた表情の奥に、研究室の白光の残り火が揺れているようだった。


 「……最低ラインには届かん。だが、進んでいる。昨日、一瞬だけ反応が安定した。

 ほんの刹那だが、“線”がつながった」


 それは、専門家にしか分からない希望の形だ。

 しかし、吉田にも麻生にも“可能性が残っている”ということだけは理解できた。


 「再現は?」


 「まだだ。条件を揃えても崩れる。……だが、兆しはあった」


 生筋の声はかすかに震えていた。

 それは疲労ではなく、未完成の“未来”に触れた人間が持つ震えだった。


 「外交カードに使えるか?」


 吉田の問いはまっすぐだった。


 「……最低ラインを越えれば、だ。現状は紙束にすぎん。見せれば“虚勢”と取られる危険がある」


 吉田は窓へ目を向けた。

 遠くで配給列が、ゆっくりと時間を削りながら伸びていく。

 列の遅さは国の遅さ。歩みの弱さは国家の体力そのものだった。


 吉田は静かに言った。


「国が崩れるのではない。国民が先に倒れる。……その前に手を打たねばならん」


 麻生は深く頷き、生筋も唇を引き結んだ。


 三者は違う場所に立ちながら、同じ一点を見ていた。

 ——時間がない。


 制度が揺れ、生活が擦り切れ、研究は“兆しのまま”足踏みしている。

 そして遠くアメリカは、日本の動きを誤解し始めている。


 国は確実に“分岐点”へ向かっていた。

 制度崩壊か、外交延命か、それとも——誰も望まぬ別の道か。


 吉田は胸の奥で、ひとつの言葉を飲み込んだ。


 ◇


 町工場の薄暗い窓から差し込む朝の光は、金属粉に反射して柔らかく揺れていた。

 空襲を逃れたとはいえ、壁には焦げ跡が残り、屋根の一部は修理途中のまま。

 だが、その荒れた空間の中央で、小さな“希望の音”が鳴っていた。


 ——カン、カン、カン。


 ベルトハンマーの規則正しい響きが、工場に久しぶりのリズムを運んでいた。


 「親方、穴、これでいけますか?」


 「待て。寸が違う。あと〇・五ミリ狭めろ。風を拾う角度が変わっちまう」


 職人たちの声は低いが明るい。

 この“風を作る機械”に、皆が本気で向き合っていた。


 扇風機——そんな当たり前の家電でさえ、いまの日本では貴重だ。

 軍需ばかりが優先され、町工場はほとんど休眠状態に追い込まれて久しい。

 機械の油は固まり、旋盤は埃をかぶり、作業台には落書きめいた切り屑が残っていた。


 だが今日だけは、違う。


 麻生一郎の“民需復活案”が通り、試験的に三つの工場へ“試作品製作”の許可が下りたのだ。


 「親方、試作羽根、これ三枚目っす」


 「よし、並べてみろ。……ほう、悪くねぇ。風を拾う線が見えてきたな」


 三枚の羽根が机の上に並べられる。

 同じ形に見えるが、職人の指先にはわずかな差がわかる。

 金属の重み、曲面の“ねじれ”、風を切る角度——それらが精密に噛み合うと、初めて“風”が生まれる。


 「この角度のほうが効率いいですよ。

  昨日の図面にあった“反り”を少し戻したほうが風量が出るはずです」


 「ほう……やるじゃねぇか。試してみるか」


 若い職人の提案に、親方は即座に手を動かした。こういう時の親方は嬉しそうだ。

 戦争のせいで多くの工場が“考える仕事”を失い、

 ただ軍需用部品を作るだけの単純作業に追い込まれていた。

 だが、この扇風機だけは違う。


 ——考えていい。工夫していい。未来に繋げていい。


 それが、職人たちの胸に火をつけていた。


「よし、モーター回してみるぞ。いくぞ!」


 電源スイッチを押す。

 機械がうめくように震え、ゆっくり回転が始まる。


 ぶうぅん……


 回転数は低いが、確かに“風”が返ってきた。


「おぉ……来た……!」


「風だ! ほんとに風が来るぞ!」


 誰かが笑った。誰かが泣きそうな顔をした。

 誰かが機械に手を当て、震える回転を確かめていた。


 工場の空気が、一瞬で明るくなった。

 薄い光しか入らない場所なのに、まるで窓が全部開いたような、そんな解放感が走った。


「まだだ」


 親方が低く言う。


 「もっと良くなる。風はこんなもんじゃねぇ」


 その言葉に、若い職人が力強く頷いた。


 「羽根を“二段構造”にできますよ。素材が薄いから、反りを調整すれば風量、倍は出せます!」


 「図面を引け。今日中にやるぞ」


 「はいっ!」


 彼らの表情は生きていた。機械に向かう掌が、再び“仕事人の掌”になっていた。


 風を作る。ただそれだけの作業。

 だが、戦争が奪い続けてきた“考えて作る仕事”を、この瞬間だけは取り戻していた。


 「親方、羽根の音、少し重い気がします」


 「モーターとの相性だな。軸をいじるぞ。おい、電線の皮膜どうなった?」


 「在庫、ギリギリですが……まだいけます!」


 職人たちの掛け声が重なり、工具の音が久しぶりに工場を満たした。

 音があることが、こんなにも嬉しいのかと、年配の職人がぽつりと言った。


 試作二号機が形になり始めた頃、工場の奥から誰かが叫んだ。


 「風、強くなってる! 親方、これ……かなりいいですよ!」


 「当たり前だ。日本の職人を舐めんじゃねぇ」


 誇りが、あった。誇りが、戻ってきていた。


 「……これが量産できりゃ、町に風が戻るな」


 誰かがそう呟いた一言は、工場の全員の胸に静かに響いた。


 だが、その希望が膨らみかけた午後。役所の職員が深刻な顔で工場へやって来た。


「親方。……燃料割当が止まりました」


 親方は、一瞬だけ言葉を失った。

 

 「……軍需優先だと?」


 「はい。申し訳ありません。命令です」


 工場の空気が、ふっと沈んだ。

 機械の回転も止まり、羽根が残心のようにゆっくり静止していく。


 「……あと一日、あと一日あれば……」


 若い職人が呟いた。


 「俺たち、もっと良くできたのに……」


 親方は、ゆっくりと目を閉じた。

 誰にも怒らず、誰も責めず、ただ静かに、机に置いた図面を撫でた。


 「いい仕事だった。……みんな、本当にいい仕事をした」


 涙をこらえる声だった。


 「だけど、国の都合ってやつは、ああだ。俺たちじゃどうにもなんねぇ」


 職人たちは誰も言葉を返さなかった。

 ただ、試作機の羽根に触れた。

 風を生んだ羽根を。

 希望を生みかけた“機械の心臓”を。


 「……また作れますよね」


 若い職人の声は小さくても強かった。


 親方は微笑んだ。


 「作るさ。燃料が戻れば、いや……戻させりゃいい。風は逃げねぇ。俺たちがまた追いつきゃいい」


 工場に再び静寂が落ちた。

 しかしそれは絶望の静寂ではなかった。

 “仕事をした後の静寂”だった。


 戦争が奪おうとしたものを、一瞬だけ取り戻した、誇りの余韻。


 挿絵(By みてみん)

 1945年代の町工場

~後書き~:1〜13話あらすじ


昭和二十年、日本本土は空襲と物資不足で静かに崩れつつあった。

配給は細り、治安は悪化し、制度そのものがきしむ中、

吉田政権は「国民生活が先に限界へ達する」という冷たい現実を突きつけられる。


大蔵副大臣・麻生は民需復活の糸口を探り、扇風機や小工場の再稼働に希望を見いだすが、

燃料と資材の壁に阻まれ、その光はすぐに揺らいだ。


一方、生筋有喜の密かな研究は、成功に手が触れそうで届かない状態が続き、焦燥だけが積み重なる。

だが未完成だからこそ“外交カード”になり得るという皮肉もあった。


その頃、遠く台湾では、桜花特攻で“死んだはず”の青年・西野俊道が静かな生活を再生させていく。

庭先わかとの出会いは、彼に失われた未来を取り戻し、

制度に属さぬ人材として再び国と結びついていく。


アメリカは日本の動きを誤読し、特攻精神を宗教的熱狂として恐れ、核開発の進展を過大評価し始めた。

合理と恐怖が絡み合い、両国の距離はゆっくりだが確実に歪んでいく。


——もし(if)、あの一手が違っていたなら。

日本とアメリカを待つ分岐は、まったく別の軌道へと流れていたのかもしれない。


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