13話
ワシントンの空はまだ薄い灰色を残していた。
夏の朝だというのに、どこか湿り気を帯びた重さが漂っている。
国防総省の会議室では、すでに十数名の将校と分析官が席に着き、
日本関連の定例報告が始まろうとしていた。
スクリーンに、細かな数字とグラフが表示される。
通信量、工業資材の移動、特定地域の電力消費量。
いずれも直接的な証拠ではないが、積み重ねれば確度が跳ね上がる種類のデータだ。
分析官の一人が口を開く。
"Japan is continuing the project quietly."(日本は“例の研究”を内々で継続しています)
会議室の空気がわずかに張りつめた。
"It is not complete yet… but the progress is unmistakable."
(まだ完成には至っていませんが、進捗は確実にあります)
分析官はスライドを切り替える。
"At the current pace, they may reach a functional stage within a year."
(このペースなら一年以内に“形になる”可能性があります)
ざわめきが広がる。
"A year? Japan won't survive that long."(一年? 日本がそこまで持つはずがない)
"Their industry is collapsing. Their people are exhausted."(工業も国民も限界だ)
別の将校が強く言い切る。
だが別の男が即座に反論した。
"Do not underestimate them. They carried out KAMIKAZE attacks."
(侮るな。奴らはカミカゼを実行した民族だ)
"Rational calculation doesn't fully apply to a nation like that."(合理性が通じない部分がある)
宗教観を口にする者もいた。
"Their belief system gives them a kind of fearlessness Americans can't fully grasp."
(彼らの宗教観はアメリカ人が理解しきれない“恐れなさ”を生む)
"And that fearlessness can disrupt negotiations."(その恐れなさは交渉を狂わせる)
日本という国は、アメリカから見ると“合理で読めない民族”だった。
特攻という宗教的献身に近い行為を行い、崩れない統制を保ち続ける。
将校がぽつりと言う。
"The issue isn't whether Japan can last a year… but what they might do to make that year."
(問題は日本が一年耐えるかでなく“一年耐えるために何をするか”だ)
静寂が落ちた。
"If they get close to completion… what then?"(もし成功寸前まで進んだら?)
司令官がゆっくりと口を開いた。
"Then we finish it before they do. We drop ours first."
(その前に我々が終わらせる。必要とあれば先に核を投下する)
どよめきは起こらない。全員がすでにその可能性を想定していたからだ。
司令官は続ける。
"We cannot allow a nation capable of KAMIKAZE ATTACK to gain such leverage."
(カミカゼアタックを実行する民族に、核という交渉材料を持たせるわけにはいかない)
分析官が控えめに補足した。
"Currently their research is below the minimum threshold… but approaching it."
(現時点では最低ラインには届いていません。しかし近づいています)
"Approaching alone is already a strategic threat."(“近い”というだけで、十分な脅威です)
未完成でも、恐怖は成立する。日本はそれを理解している。
アメリカもまた、それを理解していた。
司令官が結論を述べた。
"Continue surveillance. If progress accelerates, we reassess immediately.
And prepare—if necessary, we strike first."
(監視継続。進展があれば即座に再協議。必要ならば先に打つ。その準備を進めておけ)
全員が静かに頷いた。
会議は解散したが、誰もすぐには立ち上がらなかった。
窓の外では朝の光が強まり始めていたが、室内の空気は夜よりも重く沈んでいた。
日本はまだ完成させていない。だが——完成に近づいている。
その曖昧な距離こそが、最大の恐怖だった。
◇
内務省から送られてきた治安報告に、吉田は眉を寄せた。
近ごろ、国内の治安が静かに崩れ始めている。
だが、数字よりも、その裏で生活が壊れていく気配のほうが重かった。
とくに増えているのは二種類の事件だった。
①詐欺・詐称事件
②スリ・ひったくり
どちらも食糧難や物資不足が原因だが、吉田が最も警戒していたのは①だ。
詐称は、ただの金銭目的ではない。制度そのものを揺るがす。
——軍人の家族に偽の徴用通知を送り、米を奪う。
——役場職員を名乗り、配給証を偽装して持ち逃げする。
——配給袋を持った“偽物”が民家を回り、子どもから食料を引き抜く。
読み進めるほど、胸が冷えていく。
戦争は前線が決めると思われがちだが、実際は生活が耐えられなくなったときに崩れる。
兵力でも武器でもなく、“暮らしの崩壊”が国家寿命を縮めるのだ。
「……このままでは国民が持たない」
思わず口に出た言葉は、部屋の静けさに吸い込まれた。
戦争を終わらせる必要性——それは軍事でも外交でもない。
国民一人一人が毎日を生き抜くための道を、政府が示せていない現実。
詐欺が増えるということは、制度への信頼が壊れつつあるという警告 だった。
吉田は報告書を閉じ、深く息を吐いた。国を維持できる時間は、すでに限られている。
判断の猶予は、もう多く残されていなかった。
1945年戦時中の配給証。9月以降、GHQ管理下では英語併記、または英語主体になる。
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実験棟の奥では、今日も装置の低い振動音が響いていた。
生筋有喜は記録紙の束を広げ、結果を追うたびに胸の奥に重たい塊が沈むのを感じた。
反応は安定しない。条件を揃えても、決定的な線に届かない。
だが、一つ厄介なのは “成功しそうに見える瞬間がある” ことだった。
先日、一度だけ反応が滑らかに立ち上がり、誰もが息を呑んだ。
生筋自身も、数字の美しさに一瞬心が跳ねた。
しかし、その期待はすぐに折れた。反応は急落し、記録は静まり返った。
研究員たちは責められないほどよくやっている。
資材は乏しく、装置は旧式。それでも連日修正を重ね、夜をまたいで働く姿を、生筋は知っている。
だが——
近づくだけでは意味がない。政治は“最低ラインを越えたかどうか”しか見ない。
越えれば外交の武器になる。越えなければ、ただの紙束で終わる。
「……アメリカに察されたら終わりだ」
生筋は記録紙を握りしめた。
未完成でも、近づいていることを悟られれば、日本は中止を強制される。
その瞬間、日本は未来の選択肢を失う。
焦りだけが増していく。
しかし、焦れば結果が近づくわけではない。
研究とは積み上げだ。積み上げるには時間が必要で、だが日本にはその時間がない。
生筋は目を閉じた。今日も進んだ。しかし、今日も届かなかった。
この“届かない前進”が救いなのか、破滅への前兆なのか——
彼にはまだ判断できなかった。
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試作扇風機の羽根を回すと、かすかな風が指に触れた。
その瞬間、麻生一郎は胸の奥にひと筋の光を見る気がした。
大きな兵器でも、国家計画でもない。ただの家電だ。
だが、それこそが日本の未来を繋ぐ“生活の火種”になる。
この扇風機は、軍需に偏った産業を民需側へ少し戻す最初の橋となる。
必要資材は最小限、技術者の再配置も容易、休業中の町工場でも製造可能。
全国で百工場が動けば、直接雇用三千、関連を含めれば一万の生活が動く。
「……やれる。これは確かに希望だ」
だが、机の端に置かれた統計資料に目を落とした瞬間、希望は現実に飲まれた。
主要工場稼働率 38%。
中小工場休業率 52%。
燃料供給量は昨年の 43%。
家庭消費電力は戦前比 25%。
食糧配給は月平均 −18% 減。
米の闇市価格は公式の 5〜7倍 へ高騰。
数字は、息をしていない。ただ真実だけを突きつけてくる。
麻生は計算を重ねた。
工業生産指数の落ち方、燃料の枯渇速度、配給制度の維持限界、国民生活の消耗——
どれを積算しても結論は同じだった。
日本の現体制が維持できる猶予は、およそ一年。
それは悲観論ではなく、数字が導き出した統計的な推定だった。
配給線が一年後には破綻し、闇市価格はさらに高騰し、国民の耐久力が限界を迎える。
「……このままでは国民が持たない」
扇風機の羽根は、小さな風を返すだけだ。
だが、数字で見える“崩壊の速度”は、その小さな風では止められないほど速かった。
希望はある。
しかし、それを広げるための時間だけが圧倒的に足りなかった。
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食糧庫の棚が、また一段と軽くなっていた。
吉田めるは静かに戸を閉め、しばらくそこに手を置いたまま動けなかった。
総理官邸という立場上、最低限の配給は受けられているはずなのに、
——実際は食卓を満たすには遠く及ばない。
米は数日分。
芋は乾き、野菜はほぼ尽き、卵の姿はもう思い出せないほど昔になった。
やがてめるは使用人を呼び、ためらいながら言った。
「……お願い。あの市場へ。できるだけ目立たないように」
“あの市場”——それは闇市だった。
総理夫人が闇市で食料を買うなど許されるはずもない。
しかし、家庭が崩れれば夫の心労は倍増する。
彼が国のために削っている心を、せめて自分が守らなければ。
使用人は不安げに言った。
「奥様……危険もございます」
「わかっています。でも、今は……必要なことです」
めるは頭を下げた。
総理夫人という肩書きより、家庭を守る妻としての責務が先にあった。
闇市の価格は日に日に上がる。
米は正規の五倍、野菜は三倍、魚は十倍近く。
それでも、街の人々は並ぶ。家族を養うために、明日をつなぐために。
めるは窓辺から、その細い列を見つめた。
——この国は、どこまで耐えられるのだろう。
夫は国を守ろうとしている。
自分は、その夫の生活を支えなければならない。
「……負けないようにしなくては」
小さな声が部屋に落ち、めるは胸元に手を当てた。
~おまけ回~ :慰問袋詐欺師の回想録
あんた、慰問袋って知ってるかい。兵隊さんに送られる“励ましの袋”だよ。
中身はタオルだの石鹸だの乾物だの、ちょっとした品ばかりさ。
でも戦地じゃ、それがどんな贅沢か。兵隊さんには家族からの手紙も入ってる。
あれはね……心そのものなんだ。
で、心を扱うところには、いつだって隙がある。
——そう思ったのは、俺が悪党になって久しい頃だった。
Q:慰問袋って何か
慰問袋はね、ただの支援物資じゃない。
“元気で帰ってこい”っていう願掛けみたいなもんだ。
学校の子どもたち、町内のおばさんたち、工場の娘さんたち
……みんなが少しずつ持ち寄って袋を作る。
国が主導する時もあれば、自主的に作る時もあるし、どっちにせよ“崇高な行為”って扱いだった。
だからこそ、疑う人間は少ない。
“慰問袋を集めています”と名乗れば、誰だって耳を貸す。心の行為は無防備なんだよ。
Q:どのような詐欺か
俺らがやる詐欺は単純さ。
“慰問袋を作って戦地に送るから協力金を”そう言って回るだけ。
時には学校の先生の名前を勝手に出す。
時には婦人会の役員のふりをする。ひどい時は“軍の慰問係”なんて肩書きまで使った。
協力金と言って集めた金は、もちろん俺の懐へ。
袋? 送るわけないだろ。だけどね、それだけじゃ終わらない。
“袋を作るために品物を集めているんです”
そう言えば、家の奥から乾物や食糧が出てくる。戦時中の食べ物なんざ金塊より価値がある。
それを手に入れるためなら、俺ら詐欺師はどんな顔にもなるさ。
Q:どうして詐欺が可能になるのか
一番の理由はな、慰問袋が“善意でできてる”からなんだ。
善意には穴がある。疑いを向けると、自分が悪い奴になった気がするだろ?
だからみんな、疑わない。疑えない。
もう一つは、戦争ってのは“名前さえあれば信用される”仕組みになってることだ。
“軍”“役所”“学校”この三つを名乗れば、ほぼ突破できる。
しかも戦局が悪くなると、人々は“誰かの役に立ちたい”気持ちが強くなる。
その気持ちを利用すれば、詐欺なんて朝飯前さ。
それに、物資不足で役所も軍もてんやわんや。
誰が本物で誰が偽物か、いちいち確かめてる余裕なんてない。
混乱は詐欺師の親友みたいなもんだ。
Q:主に狙うのはどのような人か
一番の狙いは、家に物資がまだ残っている家庭だ。
兵隊さんの家族、特に母親なんてのは格好の獲物だよ。
「あなたの息子さんにも届きますよ」
そう言えば、どんなに辛くても協力しようとする。
戦地に子どもを出してる親は、心が弱い。弱さは悪党にとって“入口”そのものだ。
次に狙うのは“町内の世話焼きの女性”。
彼女らは顔が広いから、一軒に入り込めば芋づる式に周りが協力する。
善意の伝播ってのは、悪意も連れてくるんだ。
最後に狙うのは“警戒心が薄い老人”。役場職員を名乗れば、もうほぼ勝負は決まったようなものさ。
Q:バレたらどうやって誤魔化すのか)
誤魔化し方?ああ、それが一番腕の見せどころだ。
まずは “すれ違いを装う”。
「担当部署が変わりまして……」
「こちらに正式書類が届いていないようで」
戦時下の役所は混乱してるから、こう言えば大抵は納得する。
次に “上官の名前を出す”。
偽名でも通る。相手は上官なんか知らないからな。
軍の名前を出すだけで、相手は自分が疑ったことに恐縮して黙る。
それでも引き下がらなければ、
“自分も被害者だ” という芝居に切り替える。
「私もだまされていたようです」 「上からの通達が不明確で……」
弱いふりをすれば、案外人は追及をやめるものだ。
そして最終手段は——
逃げる。逃げてしまえば、それ以上は追えない。
どんな詐欺も最後は足の速さだ。
あんたはこう思うかもしれない。
“戦時中にそんな詐欺が通るのか?”って。
通るんだよ。
人々の心が疲れて、制度が揺らいで、善意だけが残っているときほど。
慰問袋詐欺なんて、たいした詐欺じゃない。
でも、あれは人間の“心の隙間”を使った、いちばん古くて、いちばん汚い手口さ。




