12話
台湾の夏は、朝から湿った風が吹く。
日の出とともに、浜の砂はじわじわと温度を上げ、風に乗って遠くの市場のざわめきが運ばれてくる。
俊道は、その音の混じり具合で、一日の始まりを知るようになっていた。
桜花に乗り、空から落ち、海を渡ってようやく辿り着いた土地。
そのはずなのに、今では、胸の奥に溜まった緊張がこの土地に触れるたび、
少しずつほどけていくのを感じる。
浜の小屋から外へ出ると、
庭先──いや、いまはまだ庭先“わか”と呼ぶべきか──が洗濯物を干していた。
布の白さが朝日に透け、柔らかく揺れる。俊道は無意識のうちに、その光景をしばらく眺めてしまう。
「もう起きてたんですか?」
振り返ったわかが微笑む。その表情に、俊道ははっとする。
戦場での時間が長く、誰かの表情を“やわらかい”と感じたことが久しくなかったのだ。
「いや……なんか、目が覚めてしまってな」
俊道の声は、少しぎこちない。彼は戦場を離れて久しいが、言葉の選び方だけは戻り切らない。
それでも、わかは気にする様子を見せず、干した布の端を軽く押さえた。
「今日も、畑ですか?」
「そうだな。あの芋の列は、そろそろ間引きしないと」
台湾の畑は、日本本土のものより土が軽い。
雨が降ればすぐに流れ、陽が続けばあっという間に乾く。
俊道は、海よりも空よりも、いまはこの畑の気まぐれさと向き合う時間のほうが長かった。
わかは、俊道がそう答えるたびに、少しほっとしたような顔をする。
生きて働いている姿を見ると安心するのだ、と後に言っていた。
彼女の中で俊道は、あの日浜で倒れ込むように現れた“生き残りの兵”のままではなく、
“共に暮らす人”として輪郭を持ち始めていた。
午前の畑仕事を終え、ふたりで簡単な昼食を取る。
蒸した芋に少し塩を振っただけのものだが、汗をかいた後はこれで十分だ。
わかが湯を沸かす間、俊道は縁側に腰を下ろし、海を見た。
風が、わかの干した布を揺らし、海の気配を運んでくる。
それを眺めながら、俊道はぽつりとつぶやいた。
「……生きて、ここにいるなんて、なぁ」
わかは湯飲みを置き、俊道の横に腰を下ろした。
「生きていて、よかったですよ」
その言葉は、慰めでも励ましでもなかった。わかの声は、不思議なほど落ち着いていた。
俊道は、その静かな響きに胸が締めつけられるのを感じた。死ぬはずだった自分。
名簿の上では、すでにいないかもしれない自分。だが、ここには、自分の名を呼ぶ人がいる。
午後、畑から戻ると、わかが古い帳面を広げていた。
俊道の作業量や畑の具合、魚の保存状態まで、細かに記録してある。
彼女は几帳面なほうではなかったらしいが、俊道と暮らすようになってから、
自然と書き残す癖がついたという。
「俊道さん、これ……」
わかがためらうように差し出したのは、彼女が使っていた身分証だった。
庭先わか、と書かれている。
「これ、変えようと思うんです。
俊道さんが、ここにいるって決めたなら……私も、ちゃんと名前を並べたい」
俊道は一瞬、言葉を失った。戦場では、名を残すことに意味はなかった。
だが、ここでは違う。名を並べることは、未来を並べることだ。
「……俺でいいのか?」
その問いに、わかは笑う。迷いのない笑顔だった。
「はい。私は、あの日の浜で“助けた人”じゃなくて……“一緒に生きたい人”を見つけたんです」
俊道の胸に、熱いものがこみ上げる。桜花で散るはずだった命。
漂流して偶然に繋がった日々。だが、ここで結ばれる未来だけは、偶然ではなかった。
ふたりの間に、長い沈黙が落ちた。だが、気まずさはなく、ただ穏やかだった。
では風が吹き、干した布が揺れる。小さな家と畑と海。
そのどれもが、これからのふたりの暮らしを包むものになる。
夕方、わかが近所の世話役にお願いして、入籍の手続きを進めた。
紙は薄く、文字は滲んでいたが、その一枚がふたりのこれからを確かに刻んでいた。
その夜、俊道は初めて、自分が“生きたまま帰りついた場所”を得たのだと実感した。
空から落ちて、海を渡り、偶然に拾われた命。
だが、その終着点は、偶然ではなく、選ばれたものだった。
外では、夏の虫が鳴いていた。新しい姓になったわかは、軒先で風を感じながらぽつりとつぶやいた。
「……明日も、一緒に畑をしましょうね」
俊道は、その言葉に静かに頷いた。
その頷きこそが、ふたりの暮らしの始まりだった。
◇
それからしばらくして、台湾南部の浜に、見慣れない軍服の男が現れた。
階級章は控えめで、態度も威圧的ではない。
だが、歩き方と周囲を見る目で、ただの巡察ではないことが分かる。
俊道は木枠を削る手を止め、軽く頭を下げた。
「……西野俊道、だな」
呼ばれた名に、俊道の背筋がわずかに張る。
忘れかけていた“呼び方”だった。
「はい」
少佐は周囲を一瞥した。干し棚、畑、修理途中の道具。
どれも即席ではなく、継続を前提とした配置だった。
「ここでの生活は、どうだ」
問いは簡単だが、答え方を間違えれば、帰還命令が飛ぶ可能性もある。
俊道は一拍置いてから、正直に答えた。
「忙しいですが……悪くありません」
少佐は鼻で笑うでもなく、ただ頷いた。
「そうか。噂通りだな」
噂、という言葉に、俊道は何も返さなかった。
自分の身の上が、誰かの話題になることには慣れている。だが、その行き先までは分からない。
少佐は腰を下ろし、持参した水筒の蓋を開けた。
「君は、名簿の上では扱いが難しい。
戻せば問題が起きる。だが、ここで消すには、もう目立ちすぎた」
それは叱責でも脅しでもなく、事実の説明だった。
「上はな、君を“帰すか”“使うか”で迷っている」
俊道の指先が、わずかに止まる。
「……使う、ですか」
少佐は頷く。
「正式な辞令はない。だが、企画院総裁の意向だ。
――台湾での取り組みを、続けろ」
その言葉は命令文の形をしていなかった。だが、俊道には十分だった。
戻らなくていい。ここで働いていい。それだけが、はっきりと伝わってきた。
「現地のことは、現地で回せ。軍は細かく口を出さない。
ただし、何をしているかは報告が要る」
少佐はそう言って立ち上がった。
「君は、もう“死ぬはずだった兵”じゃない。ここで生きている人間だ」
その一言が、俊道の胸に深く落ちた。
少佐が去った後、浜にはいつもの音が戻った。
波、風、干し棚のきしみ。だが、俊道の中では、何かが確かに変わっていた。
自分は選ばれたわけではない。ただ、捨てられなかったのだ。
生きて、働いていたら、役目が後から追いついてきた。それだけのことだった。
縁側に腰を下ろすと、知らぬ間に視線が遠くへ流れていた。
空の色。春の海。落ちて、泳いだ、あの感覚。
「……」
そこへ、わかの声が飛ぶ。
「ねぇ、あなた……あなたってば!」
俊道は、はっとして顔を上げた。
「あぁ、すまん……少し、思い出していた」
目の前には、夏の光の中に立つわかがいる。
1945年の夏は、確かにここに続いていた。
◇
台湾の夏は、もう完全に日常の側にあった。
朝、浜と畑をつなぐ道を歩く足音が増え、誰かが誰かを呼ぶ声が当たり前に交差する。
俊道は、その中心に立っている自覚はなかったが、
気づけば多くの動きが彼の周囲を経由するようになっていた。
その傍らで、わかもまた、静かに手を動かしていた。
彼女は前に出ない。指示もしない。
だが、干物の量が増えれば干し場の割り振りを書き留め、
畑の作業が重なれば鍋の火を早めに落とし、戻ってくる時間に合わせて湯を用意する。
誰かが困っていると、俊道より先に気づくことも多かった。
「今日は、あっちの畑が先に終わりそう」
「網、乾かす場所、少し空けてあるよ」
それは命令ではなく、生活の調整だった。
わかが動くことで、俊道は“決める”ことだけに集中できる。
ふたりの間には役割分担という言葉すらなく、ただ自然に噛み合っていた。
肩書きが付いたわけではない。
誰かに紹介される役目が増えたわけでもない。
だが、浜と畑のあいだで起きる小さな判断が、自然と俊道を経由するようになっていった。
「この干し棚、増やしたいんだが」
「船底の板が傷んでてな」
「芋の出来が悪い畝がある」
相談というほど改まったものではない。作業の合間に、ぽつりと投げられる言葉ばかりだ。
俊道は、すぐに答えを出さない。一度、現物を見る。触る。周囲の動きを確かめる。
それから、出来ることと出来ないことを短く伝える。
「増やすなら、ここまでです」
「船は直せますが、今週は無理です」
「その畝は、今年は諦めたほうがいい」
理由は長く説明しない。だが、不思議と反論は出なかった。
俊道が決めているのではない。無理をしない線を、生活の側が自然に選び取っているだけだった。
畑では、バナナの株が目に見えて増え始めていた。
派手な拡張ではない。一本ずつ、確実に根付いたものだけを残す。
間引きの判断も慎重で、欲張らない。
漁のほうでも同じだった。船は大きくしない。沖へは出ない。
だが、小型船の数が増え、浜に戻る時間が揃い始める。
干物棚には、いつの間にか「空き」が出来ていた。
余裕としての空きだ。不作や天候不良が来ても、すぐに詰まらないための間。
誰かが言った。
「最近、慌てなくなったな」
それは生産量が増えたからではない。止まらずに回る形が出来始めていたからだ。
俊道は、数字を集めなかった。記録は残すが、誇れる形には整えない。
増減は把握するが、報告用には削る。
派手な成果は、外から見れば魅力的だ。だが、目立てば必ず手が入る。
手が入れば、管理が始まる。
俊道は、その先を見ていた。
「増やすときは、減らす覚悟がいる」
ある夜、わかにそう漏らしたことがある。
「だから今は、減らさないで済む形を作ってるだけだ」
わかは黙って聞き、鍋の火を弱めた。その言葉の重さを、理屈ではなく生活の感覚で理解していた。
軍の駐在所から、細かな問い合わせが来ることはあった。
だが、命令は来ない。数字を出せ、とも言われない。
それ自体が、指示だった。
俊道は、自分が何かを任されていることを理解していた。だが、それを口にすることはなかった。
責任者だと名乗った瞬間、責任の形が変わる。ここで必要なのは、名ではなく、継続だった。
夕方、浜に立つと、作業の音が途切れずに聞こえる。
畑から戻る足音、船を引く声、干物を裏返す気配。
すべてが、少しずつ、だが確実に噛み合っている。
俊道は、それを眺めながら思う。
——これは成果じゃない。
——まだ、証明にすらなっていない。
ただ、続いている。それだけが、今は必要だった。
その夜、縁側で道具を拭いていると、わかが声をかけた。
「最近、顔つき変わったね」
俊道は苦笑した。
「そうか?」
「うん。決めてる顔」
俊道は少し考え、それから首を振った。
「決めてるんじゃない。……止めてないだけだ」
わかは、それ以上何も言わなかった。
台湾の夜は湿り気を含み、虫の声が途切れない。
その中で、生活は今日も途切れずに続いている。
俊道は、その連なりの中心に、静かに立っていた。
「台湾沿岸部の漁村に見られた、浅瀬を利用した作業棚」
◇
官邸から離れた施設の一角では、夜と昼の境が曖昧になっていた。
窓はあるが、開けることはない。外気を入れる理由がないからだ。
必要なのは静けさと、一定の条件だけだった。
机の上に並ぶ紙束は、以前よりも厚みを増している。
だが、書き足された行の多くは結論ではない。修正、差し替え、注記。
進んでいる。確かに進んではいる。だが、到達とは言えなかった。
装置の前に立つ研究員の肩は、目に見えて落ちていた。
背を伸ばす者は少ない。椅子に腰を下ろしたまま、視線だけを動かす。
集中は保たれているが、余裕はない。
「……立ち上がりは、前回より安定しています」
報告は簡潔だった。言葉を選ぶ余力が、もう残っていない。
生筋有喜は、机に置かれた記録を指でなぞる。上向きの線は確かにある。
だが、その先で必ず歪む。揃いかけて、崩れる。
「同じところで、また噛み合わないな」
誰かが息を飲む音がした。責めているわけではない。確認だった。
条件を変え、手順を詰め、素材の扱いを微調整する。積み上げは丁寧だ。雑さはない。
それでも、最後のところで、結果が逃げる。
成功、と呼ぶには足りない。失敗、と切り捨てるには惜しい。
研究員の一人が、唇を湿らせて言う。
「前回よりは……近いと思います」
希望ではない。実感に近い言い方だった。
生筋は頷いた。近づいているのは分かる。だが、近いだけでは意味がない。
彼の頭にあるのは、完成形ではなかった。理想でも、最大でもない。
最低ライン。
それが整えばいい。派手な成果である必要はない。
確実に、同じ状態を示せること。それだけで、外に向けて“話ができる”。
——交渉は、完成品で始まるとは限らない。
——揃っている、という事実があれば足りる。
だが現実は、その最低ラインに、まだ届かない。
机の脇には、簡素な食事の痕跡があった。薄い汁物。乾いた主食。
誰も文句を言わない。言う気力もない。
研究員たちは、空腹を計算に入れて動いていた。
集中力が落ちる時間帯を把握し、作業をずらす。休憩は短く、仮眠は交代で取る。
食べられないから、進まないのではない。進めるために、削っているだけだ。
「今日は、ここまでにします」
誰かがそう言うと、反対は出なかった。終わりを決めるのも、仕事のうちだった。
生筋は立ち上がり、最後に一度だけ振り返る。疲労の溜まった顔。
それでも、手を止めない目。
「……無理はするな。だが、雑にもなるな」
矛盾した言葉だが、彼らには通じる。
扉が閉じ、足音が遠ざかる。施設には、機械の低い音だけが残った。
進んでいる。しかし、また届かない。
生筋有喜は歩きながら、心の中で線を引き直す。
最低ラインは、まだ先だ。だが、見えなくなったわけではない。
外交の場に持ち出せる形になるには、もう一段の整理が要る。
使うためではない。使える、と示すために。
戦争は続いている。だが、ここで求められているのは、勝ちではなかった。
整うこと。ただ、それだけだった。
~おまけ~ 西野わか(旧姓:庭先)から自己紹介♪
庭先わかです。こうして改めて自己紹介をするのは、少し気恥ずかしいですね。
私が俊道を見つけた日のことは、今でもよく覚えています。
朝の浜で、潮が引いたあとに残る濡れた砂の匂い。
そこに、場違いなものが転がっていました。
最初は、流木だと思ったんです。
でも、近づいたら違った。人でした。しかも、よく焼けて、やたら軽そうな男。
「……あら」
生きているかどうかを確かめる前に、そんな声が出ました。
英雄でも、兵隊でもなく、ただの“行き倒れ”。
放っておいたら、後で自分が嫌な気分になる。
それだけで、私は彼を引きずって帰りました。
名前を聞くと、西野俊道。
軍人だと言われても、正直、あまり実感はありませんでした。
だって、威張らないし、命令しないし、何より静か。
でも、不思議なことに、回復すると同時に、彼は動き始めました。
頼んでいないのに、畑を手伝う。干し棚を直す。
壊れた木箱が、朝にはちゃんと使えるようになっている。
「何かしてないと、落ち着かなくて」
そう言って笑う顔が、どこか危うくて。
きっと、止まったら崩れる人なんだと思いました。
気づけば、周りも彼を放っておかなくなっていました。
漁師が声をかけ、農家が相談する。
本人は前に出ないのに、いつの間にか中心にいる。
私は、横でそれを見ていました。
助けたつもりが、助けられているのは、私のほうかもしれない。
そんなことを考える日が増えました。
惹かれていった、という言葉は簡単ですが、実際はもっと地味です。
湯を多めに沸かす。帰りが遅いと落ち着かない。無言の時間が、苦じゃなくなる。
それで、ある日、私は決めました。
待つのはやめよう、と。この人が選ぶ道に、先に立って一緒に立とうと。
名前を変える話をした時の、あの顔。驚いて、戸惑って、それでも逃げなかった。
あれで十分でした。
その後、よく分からない話が舞い込んできました。
難しいことは、私は知りません。
ただ、俊道が「戻らなくていい」「続けろ」と言われたことだけは分かる。
企画院? 仕事? 正直、よく分かりません。
でも、分かることもあります。
それは、彼がまた「止まれない場所」に立たされたということ。
だから私は、横に立つんです。
畑で。浜で。台所で。
英雄の隣じゃなくていい。
偉い人の奥さんじゃなくていい。
生き延びた人と、生きると決めた女。
それで、私は十分です。




