笑えたら、それで“今日”は合格
給料日前の財布は、もはや紙切れの残骸に近い。
ミシマはレシートを一枚ずつ取り出しては、なぜか丁寧に折って捨てていく。
折る意味なんてないのに、心のどこかで“整えておけばまだ大丈夫”と思いたかった。
夕方、沼袋の商店街を抜ける途中で黒川から電話が鳴った。
「ミシマ? 今日、店いる?」
「行くけど……金、ないぞ」
「こっちもない。だから来い」
意味がわからない誘い文句だった。
店に入ると、ハルがすでに座っていた。
テーブルの上には、妙に安っぽいポテトフライが一皿だけ置かれている。
「今日はこれで粘る日です」
「粘り方が貧乏プロの発想だな……」
黒川は水を二杯目まで飲み干しながら言う。
「給料日前って、逆にテンション変に上がらない?」
「わかる。“もうどうでもいいわ”ってなるやつ」
「そうそう。お金なくても、妙な解放感あるよな」
その“妙な解放感”の裏側には、明らかな不安がへばりついているのに。
ミシマは席に着き、ポテトを一つつまんだ。
味はしているような、していないような、曖昧な塩気だった。
「で、今日はなんで呼んだの?」
黒川はスマホの画面を見せてきた。
「ほら、見ろよ。昔の劇団仲間の佐伯。ドラマ出るんだってさ」
画面には、スーツ姿の佐伯が爽やかに微笑んでいた。
ハルが言う。
「すげえな。めちゃ売れてるじゃないっすか」
「だろ?」
黒川は笑っているのに、目だけが疲れていた。
「“努力って報われるんだな”って思いました?」
「いや……“報われるのは佐伯で、俺じゃねえ”って思った」
ミシマも、胸の奥で似たような刺さり方をした。
「成功ってさ、同年代だと余計に距離感出るよな」
「そう。“自分だけ停滞してる感”が急に濃くなる」
ハルはポテトを一本折りながら、ぼそっと言う。
「でもまあ、佐伯さんが頑張ってたのは事実っすよね。黒川さん、そこは素直に──」
「わかってるよ! 努力してんのは俺もだよ!」
黒川がちょっと声を荒げた。
しかしその直後、気まずさをごまかすみたいに笑った。
「……あー、やっぱ給料日前はメンタル弱えわ」
ミシマは静かに言う。
「わかる。やる気ない日ほど、罪悪感だけ働いてくるからな」
「そう! “何もやってないくせに疲れた顔”してる自分、腹立つよな」
ハルが相槌を打つ。
「罪悪感ってカロリー消費するんすかね」
「してくれたらいいのにな……痩せるし……」
三人は同時にため息をついた。
店内は、ほとんど客がいない静かな夜だった。
リホが黙って水を足しながら、ひと言だけ置いていく。
「成功の話で落ち込む日は、大体もう疲れてる日よ」
その言葉は慰めのつもりなのだろうが、なぜか刺さる。
黒川は苦笑した。
「“疲れてる日”って便利な言葉だな……なんでもそこに押しこめられる」
「押しこめとけばいいんすよ。片づけって大事っす」
ハルが言った瞬間──
ミシマの胸の奥に、どうでもいい笑いが突然湧きあがった。
「……あのさ。俺、今日さ」
「ん?」
「昼休みに、財布の硬貨全部数えたんだよ。“あと何回電車乗れるか”って」
ハルが笑いだす。
「何そのサバイバル」
黒川も腹を抱えた。
「だっせえ……! でも俺も昨日やった……!」
三人の笑いは、しばらく止まらなかった。
“情けない同盟”の笑いほど強いものはない。
笑いが落ち着いたころ、ミシマがぽつりと言う。
「……なんか、こういう夜ってさ。“一ミリも進んでない自分”を受け入れるための時間なんじゃないか」
黒川が天井を見上げながら、
「“受け入れたくない日”ほど、笑えるとちょっとだけ進んだ気分になるよな」
ハルがうなずく。
「人間って、笑える限りは倒れないらしいっすから」
リホが伝票を置きながら言う。
「笑った分だけ、今日は合格にしときな」
三人はそれぞれ、小さく息を吐いた。
給料日前でも、成功者のニュースが刺さっても、
何も進んでない気がしても──
今ここで笑えたなら、今日くらいは“合格”でいい。
そんなふうに思える夜だった。




