今日も、名前を呼ばれ続ける
リホは、夕方の空を見上げてため息をひとつ吐いた。
沼袋の駅前はちょうどラッシュ前。
自転車のベルが何度も鳴り、コンビニの袋が風に揺れる。
「……もうすぐ、来るんだろうな」
言葉に出すと少しだけ笑ってしまう。
“来る”とは、ミシマ・黒川・ハルがそろって店に現れることだった。
店の開店準備をしていると、奥の席に腰掛けていたおっさんがぼそっと言う。
「今日もため息か。若いのにため息が似合うな」
「似合っても嬉しくないけど?」
「だが、似合う」
「褒めてるの?」
「褒めてるつもりだ」
まったく褒められている気がしない。
リホはカウンターのグラスを並べながら考えていた。
最近、ため息がクセになっている。
別に大きな悩みがあるわけじゃない。
けれど、たまに――自分の人生が“誰の視界にも入ってないような気”がする時がある。
そんな時に限って、あの3人は来る。
そして今日もやはり、扉の鈴が鳴った。
「りほちゃん、こんばんは〜」
トップバッターはハル。いつも通りの調子の軽さだ。
「一人だけ早く来て何してるの?」
「いや、なんか今日、部屋が“喋らない空気”だったんで……避難?」
「部屋が喋らないのは普通だよ」
「ですよね〜」
すぐにミシマと黒川も続いて入ってきた。
ミシマは少し疲れた顔で、黒川は反対に妙に元気だ。
「なんかあったの?」
りほが問うとミシマは首を振る。
「いや、ただ……今日歩いてて思ったんだよ。“俺、どこ目指してんだろ”って」
黒川が笑いながら肩を叩く。
「そういうの考え出したときは休んだほうがいいって。俺は毎日考えてるけど」
「毎日考えて毎日分からないのは、進んでない証拠じゃない?」
「りほちゃん辛辣〜! でも正論〜!」
りほは思わず吹き出した。
この3人の会話はときどき、無駄に心の隙間に入り込んでくる。
黒川がカウンターに身を乗り出した。
「りほちゃん、今日は機嫌いい?」
「別に。普通」
「普通が一番難しくない?」
「難しくないよ。みんな勝手に難しくしてるだけ」
「うわ……それ、刺さる……」
そこへ、ずっと静かにしていたおっさんがとつぜん言葉を放った。
「りほは、背負い方が上手いからな」
店が一瞬止まった。
「なにその勝手な分析」
「勝手だ。だが、当たってる」
おっさんは焼酎を揺らしながら続ける。
「誰かの疲れも、誰かの弱音も、りほが片方の耳で受けて、片方の耳から逃がしてやってる。
こいつらが毎日来る理由もそれだ」
ハルが驚いた顔で言う。
「急に名言コンテスト始まった……」
ミシマも小さくうなずいた。
「いや、でもほんと、りほちゃんが“ここにいる感じ”が落ち着くんだよな」
黒川も続く。
「うん。なんか、帰りたくなくなる」
りほは、その言葉を正面から受け止めるのが恥ずかしくて、グラスを拭いた。
「……別に、特別なことしてないよ」
「特別じゃないから、いいんだよ」
ミシマのその一言に、おっさんさえも無言になった。
しばらく沈黙が流れたあと、ハルが手を挙げた。
「じゃあ俺、今日だけ言わせてください。
“ここは俺のセーブポイントです”」
「RPGかよ」
「でも、分かる」
黒川も乗る。
「俺は“ここに来ると人生のロードが早い”感じする」
「比喩のセンスはないけど、気持ちは分かる」
ミシマも少し照れたように言う。
「りほちゃんがいると、なんかこの街で迷子にならずに済む感じ」
りほは、言葉が出なかった。
褒められるのが苦手だ。
期待されるのも苦手だ。
けれど――名前を呼ばれるのは、嫌じゃない。
「……はいはい。ありがと。うん、ありがと。もういい」
照れ隠しのようにそう言いながら、りほは梅サワーを3人分並べた。
「りほちゃん、今日は優しい!」
「たまにはね」
おっさんがぽつりと呟いた。
「優しい日は、覚えておくといいぞ。自分のために」
りほは、珍しく真正面から笑った。
「……そうする」
沼袋の夜はゆっくりと深くなり、
店内には、いつもの4人といつもの声と、
そして――りほの少しだけ軽くなった呼吸音が混ざっていった。




