幸せって、順番待ちじゃないらしい
沼袋の夜は、湿度だけがやる気を出していた。
商店街の黒いアスファルトがじんわりと汗をかき、路地からはじっとりした風が流れてくる。
ミシマが居酒屋の引き戸を開けると、カウンターにはすでに黒川がいた。
今日は珍しく、なにかを考え込むように眉を寄せている。
「よう、ミシマ」
「どうした、その“ロダンポーズ”」
「いやさ……幸せって、いつ来るんだろうなって」
「急に人生総括入ったな」
そこへ、ハルがのれんをくぐってくる。
「お疲れっす。なんか今日、街の空気が“失敗しやすい日”なんすよね。信号が全部赤で」
「今日は青のやる気がなかったのかもしれない」
「交通事情にも気遣いを求めるタイプの男……」
三人が席につくと、リホが無表情のまま水を置いた。
「今日は珍しく早いじゃん。給料日?」
ハルは即座に首を振った。
「いや、財布の中身が“今にも逃げ出しそう”なんで、早く来て捕まえとこうかなと」
「意味わからないけど、苦しいのは伝わった」
ミシマがメニューを手に取りかけたところで、奥の席のおっさんが声を出した。
「幸せがどうしたって?」
黒川が振り返る。
「あ、聞こえてました?」
「聞こえるように話してただろうが」
おっさんは焼酎を少し揺らしながら言う。
「幸せってのはな、“昔の知り合いに会ったとき、恥ずかしくない自分でいること”だ」
三人が同時に苦笑した。
黒川が言う。
「じゃあ俺、今日ダメだわ。昔のバイト仲間に会って、“お前またここら辺いんの?”って言われたし」
リホが冷たくうなずいた。
「それは普通にダメなやつだね」
「救いナシ!?」
ミシマが横でメニューを開きながらつぶやく。
「でもさ……幸せが“誰かに見せられる自分”だとしたら、生きるのしんどくね?」
ハルがすかさず言う。
「見せられる日なんて、年に3日くらいしかないっすよ。残り362日は“調整中”」
黒川が水を飲みながらつぶやく。
「いや……俺、今日ちょっとだけ幸せかも」
三人とリホ、そしておっさんまでがそろって黒川を見る。
「なに、どした?」
「さっきさ、道で見知らぬ赤ちゃんにめっちゃ笑われたのよ」
ミシマが眉をひそめる。
「……それ、幸せか?」
「わかんない。でも、自分に向けて笑う存在がこの世界にいるって、なんかすごくない? 説明つかないけどさ」
ハルが思わず吹き出す。
「なんすかそのスピリチュアル入門みたいな話」
リホはカウンター越しに冷たく言う。
「赤ちゃんって、だいたい誰にでも笑うよ」
黒川は肩を落とした。
「え、俺の特別じゃなかった?」
「残念ながら、“選ばれし大人”ではないね」
ミシマは黒川の背中を軽く叩いた。
「でも、今日笑ってくれた赤ちゃんは、明日にはもう別の誰かに笑う。それでいいんじゃね?」
おっさんが煙草を指で弾きながらぽつりと言う。
「幸せってのはな、“自分がどうこう”じゃなくて、“向こうが勝手に置いてってくれるもん”だ」
三人がピタッと黙った。
「置いてく?」
おっさんは続ける。
「雨みたいなもんだ。降るときは降るし、降らんときは降らん。傘用意してても降らねえし、傘忘れた日に限って土砂降りだ」
リホがカウンター越しに言う。
「この店の常連って、人生の名言製造機なの?」
「酒に浸かった言葉は、だいたい真実に近いもんだ」
おっさんはふっと笑った。
「ただし、明日覚えてるかは別だがな」
黒川は腕を組んで、しばらく黙った後、ゆっくり口を開いた。
「じゃあ俺の結論。幸せって……“何かが良くなる未来”じゃなくて、“今ちょっと笑えること”でいいんじゃね?」
リホがメモ帳に伝票を書きながら言った。
「はい、その笑えることが今から来るよ。今日の合計、八千八百円」
おっさんが鼻で笑った。
「幸せより先に、現実が来たな」
ハルは財布を開いて小さく言う。
「あー……これ、幸せより降りやすい雨っすね」
ミシマは少し笑って、言った。
「でも、みんなで割り引けば小雨くらいになるか」
黒川がうなずく。
「じゃあ、本日の総括。“幸せは順番待ちじゃなくて、不意打ちで来る”」
おっさんが焼酎を傾けながら付け足す。
「そして不意打ちじゃないのは、請求だけだ」
店内に、地味に重たい真理が落ちる。
リホが最後にひと言。
「名言言っても割引にはならないけどね」
四人は、同時に項垂れた。
沼袋の夜は今日も、現実と名言と小さな笑いが、同じテーブルの上で混ざっていた。




