金欠の夜は、なぜか人生の話になる
いつもの居酒屋。
ミシマが引き戸を開けると、黒川とハルが同時にこっちを見た。
「ミシマさん。今日なんか疲れてません?」
「財布が小銭しかなくてさ……もう“重いのに価値ない”状態」
「それ、人間関係でもよくあるやつ」
黒川が笑ってグラスをくるくる回す。
「で、何に使ったんすか?」
「……なんとなく。“買わなくてよかったもの”を色々と」
ハルが眉を寄せる。
「またメルカリの散財ですか?」
「いや、沼袋の商店街の雑貨屋で、なぜか木彫りのクマを買った」
黒川とハルが同時に固まった。
「……なんで?」
「わからない。店のおばあちゃんが“これ、縁起いいよ”って言ったから」
「縁起で動くほどの余裕、今のミシマさんにありましたっけ?」
「なかった」
ミシマは席につく前に言った。
「買った瞬間、人生で一番の“間違えた”を感じたよ」
黒川が水を飲みながらため息をつく。
「金がないときの優先順位って、なんで全部ズレるんだろうな」
「“いま必要ないもの”ほど買いたくなるのは人類のバグっすよ」
「いやほんとに」
店内の薄いBGMが、唐揚げを揚げる音に埋もれていく。
「そういえばさ」
黒川が急に話題を変える。
「中学の同級生から連絡きてさ。“子ども産まれた!”って」
ハルが一瞬黙る。
「その話題、一番苦手なやつっす」
「いや、俺もついていけなかった。“へえ〜”しか言えなかった」
ミシマが小銭の重みを確かめるように財布を触る。
「なんかさ、友達の子どもの話って、未来の会話すぎて眩しいんだよ」
「俺ら、未来の語彙が少ないからな」
黒川がしみじみ言う。
「“おめでとう”のあとに続ける言葉がない」
「あるのは小銭だけ」
「それ言うなよ」
三人が苦笑し合う。
店の外を、沼袋のゆるい夜風が抜けていく。
「でもさ」
ハルが唐揚げを一つつまんで言う。
「ミシマさん、なんで沼袋から離れないんすか?」
「ん?」
「いや、帰る場所って言ったら、もっといろいろあるじゃないっすか。実家とか、他の街とか」
ミシマは少しだけ考えて、それから答えた。
「……沼袋ってさ。“帰りたくなる場所が特にない”人のためにある街だと思うんだよ」
黒川が笑う。
「分かる。“戻ってきた理由”を聞かれない街だよな」
「そうそう。どれだけ落ちぶれて帰ってきても、何も変化がない」
ハルが自販機の光を思い出すように言う。
「沼袋って、人生の“セーブポイント”みたいな街っすよね」
ミシマは、木彫りのクマの話を思い出しながらうなずく。
「道に迷った人が、なぜか吸い寄せられてくるんだよ」
黒川がグラスを置く。
「で、ここでちょっと休んで、また間違った買い物して、また金欠になって──」
「また戻ってくる」
ハルが笑う。
「そう。沼袋は“戻ってくる理由を説明しなくていい街”なんだよ」
三人はしばらく黙った。
その沈黙が、何かを肯定しているみたいに居心地よかった。
店の奥の常連のおっさんが、こっそり言う。
「戻ってこれる場所があるだけで、もう十分だ」
三人同時にそちらを見る。
「戻れなくなったら、人間は終わりだ」
黒川が小声でつぶやく。
「……この店さ、時々人生に詳しい人出てくるんだよな」
ミシマは苦笑しながら、財布の中の最後の小銭を指で弾く。
「木彫りのクマ、どうしようかな……」
ハルが即答した。
「売っても値段つかないっすよ」
黒川も首をかしげる。
「飾るほどの精神的余裕もないよな」
ミシマは小さくつぶやいた。
「じゃあ……沼袋に置いていくか」
「え、捨てるんすか?」
「捨てるんじゃなくて……“預ける”。また金ができたら迎えに行く」
黒川が吹き出す。
三人の笑い声が、深夜の静かな店にゆるく広がった。
店の外ではまた、風に揺れる無人の自転車が、どこにも行かないまま静かに立っていた。




