沼袋の静かな夜は、大体、無職の反省会になる。
沼袋の南口、いつもの居酒屋。
引き戸を開ける前から、油の匂いがわかる。
「……あ、ミシマ。今日早いね」
すでに一杯目を始めている黒川が手を挙げた。
「誰にも会ってなくてさ。喋らないと人間に戻れないから」
「分かる。今日、俺も誰とも会ってない日」
ハルが唐揚げをつつきながら言う。
「いや、仕事は?」
「コンビニ夜勤は人に含まれないっす。だって店内の八割、無言の客っすよ」
「それは客のジャンルの問題じゃない?」
「いや、俺の人生の問題っす」
ミシマは座る前にため息をひとつつく。
「今日さ、区役所行ってきたんだよ」
「お、ついに。何しに?」
「書類。で、職業欄に“無職”って書く瞬間があって」
黒川がグラスを持ったまま固まる。
「……とうとう正式に?」
「正式に。“その他”じゃなくて“無職”。今回はあった」
「え、あるんだ……。俺のとき“その他”しかなかったのに」
ハルが笑いながら割り込む。
「ミシマさん、震えました?」
「震えなかったけどさ。書いた瞬間に“今日が何曜日か分からない人間”に確定した気がした」
「無職って、曜日を失うよな」
黒川がうなずく。
「俺なんか昨日、金曜だと思って風呂入らなかったもん」
「それ関係ある?」
「なんか、金曜って風呂サボりがちじゃない?」
「知らないよそれ」
しばらく枝豆をつまむ音だけが続く。
深夜帯の沼袋は、駅前の雑踏が全部水に沈んだみたいに静かだった。
「でもさ」
ハルがふいに言う。
「朝起きる意味って、まだあると思います?」
ミシマがコップを置く。
「……なんでいきなり哲学?」
「俺、今日、昼の三時まで寝てて。で、起きた瞬間“なんで起きたんだろ”って」
「人間として危ないけど、気持ちはわかるよ」
黒川がストローをくわえながら言う。
「朝ってさ、目的ある人だけにくるご褒美なんだよ。俺らには昼が来る」
「ご褒美、遅いな」
「人生に早起きボーナスがないんだよ、俺ら」
ミシマは苦笑する。
「でもさ。今日“無職”って書いたとき、少しだけ清々しくて」
「え、そっち?」
「なんか……“ここから先、誰のレールにも乗ってないんだな”って」
黒川が斜め上を見る。
「沼袋で言うと……“未来あるのか問題”だな」
「この街全体の話にすんなよ」
「いや、でもあるだろ。ここ、何年住んでる?」
「覚えてない」
「それだよ。“覚えてない”街に未来あると思う?」
ハルが横から言う。
「俺らが未来ないだけじゃないっす?」
「それ言うならお前もだろ」
「そうっすね」
三人同時に笑った。
店の外で、誰も乗ってない自転車が風で揺れた。
沼袋の静かな夜は、たぶん東京で一番、未来の話に向いてない夜だ。
「でもさ」
ミシマが、唐揚げを一つだけ指でつまむ。
「もしこの街に未来がないんだったら……俺らが居られる理由、むしろある気がする」
「どういう理屈?」
「何も変わらない街は、何も変わらない人間にはちょうどいいっていう意味」
黒川が、ゆっくりグラスを回す。
「……なんか今日、お前しっとりしてるな。無職書いた余韻?」
「たぶんそれ」
ハルが吹き出す。
「無職って、精神的に一番忙しいステータスなんすね」
「そう。誰より働いてないのに、誰より考えてる」
店の奥から、常連のおっさんがぼそっと言う。
「考えてるうちは、まだ大丈夫だ」
三人がそっちを見る。
「考えるのやめたら、本物の無職だ」
「やだなその定義……」
黒川が苦笑する。
ミシマはゆっくり言った。
「まあ、今日は……“まだ大丈夫な無職”でいいか」
ハルがうなずく。
「じゃあ、俺も今日まだ生き延びましたってことで」
「お前は働いてるだろ」
店の外で、一台の電車が通りすぎた。
沼袋は、今日も誰の背中も押してはくれなかったけれど、
ほんの少しだけ、立ち止まったままの人間を許してくれた。




