無職って、何日目から自覚するの?
沼袋駅の改札を出ると、夜はだいたい同じにおいがする。
油と湿気と、少し遅れた夕飯のにおいが混ざった、行き先のない匂いだ。
商店街の照明は半分だけ点いていて、シャッターは半分だけ閉まっている。
いつ来ても、街はちょうど“途中”の顔をしている。
居酒屋の引き戸を開けると、黒川がもうカウンターに座っていた。
舞台役者、という肩書きはまだ本人の中で現役らしいが、実際はほぼ無職だ。
「お、ミシマ。今日は早いな」
「今日は用事がなかったから」
「それ毎日じゃん」
そう言われて、否定できないまま隣に座る。
リホが無言でおしぼりと水を置いた。
「今日は何もなかった日って感じ?」
「まあ、そう」
「一番多いタイプね」
少し遅れてハルが入ってくる。コンビニ夜勤上がりのままの格好だ。
「お疲れっす。今日、廃棄にシフォンケーキ出たんすけど、誰も持って帰らなくて」
「そんな悲しい話ある?」
「俺ですら持って帰らなかったっす」
「それ、逆にすごい判断ミスだろ」
三人が揃ったところで、とくに意味もなく最初の注文が通る。
枝豆、唐揚げ、安い焼き鳥。
この店で頼むものはいつも同じだ。
しばらく、どうでもいい話が続いた。
コンビニの変な客、哲学堂の池に落ちた鳩、商店街の潰れたラーメン屋。
会話が一周したあたりで、黒川が急に言った。
「なあ」
グラスの水滴を指でなぞりながら、黒川がこちらを見た。
「無職ってさ」
妙に真剣な顔だった。
「何日目から“自覚”すると思う?」
一瞬、誰も答えなかった。
油がはぜる音だけが、間を埋める。
「え、初日じゃないっすか?」
ハルが即答した。
「辞めた次の日の朝、目覚まし鳴らなくて、“あ、俺いま社会にいない”って」
「それはフリーターの感覚だな」
黒川が言う。
「本物の無職は、もっとこう……じわっと来るんだよ」
「どういう“じわっと”ですか?」
「今日は休養。明日は準備。明後日は応募しようかな、って思い続ける感じ。で、ある日、季節が変わってる」
唐揚げを一つ食べながら、ミシマが口を開いた。
「無職って、“仕事がない状態”じゃなくて、“今日の説明ができない状態”なんじゃない?」
「急に文学部出てきましたね」
「出てないけど」
黒川はうなずいた。
「それだよ、それ。今日何してたって聞かれて、答えに困った瞬間、無職になる」
「じゃあ俺、毎日無職じゃないっすか」
ハルが即座に言う。
「夜勤あるけど、昼間の説明は何もできないんで」
「それは“半無職”だな」
「何その区分」
黒川は少し考えるふりをしてから言った。
「じゃあさ、職業欄に“無職”って書いた瞬間が、正式な自覚日じゃね?」
その言葉に、ミシマは唐揚げを一つ、皿に戻した。
「俺、この前書いたよ」
「え?」
「区役所で」
ハルが身を乗り出す。
「ガチのやつじゃないっすか」
「震えました?」
「いや、震えなかった。職業の選択肢に“無職”がなくて、“その他”になった」
「それ、余計つらくない?」
リホが鼻で笑った。
「“その他の人たち”って、だいたい一番多いのよ」
「その他が最多派って、世界終わってません?」
黒川が言うと、リホは伝票を置きながら言った。
「終わってる人から集まってるのがこの店でしょ」
そのとき、奥の席で常連のおっさんが小さく咳払いした。
「無職ってな」
焼酎を一口飲んで、ぽつりと言う。
「数え始めたら、まだ大丈夫だ」
三人が同時にそちらを見る。
「数えるのやめた瞬間からが、本番だぞ」
「怖いこと言わないでくださいよ」
黒川が笑いながら言う。
「じゃあ俺、まだ大丈夫ですね。ちゃんと失業してからの日数、覚えてます」
「何日目だ?」
「えーっと……」
黒川は指を折りはじめたが、三本目で止まった。
「あれ?」
そのまま指が止まった。
「……何日目?」
「“三本目で詰まる”が一番危ないやつだ」
ミシマが静かに言った。
ハルが急に真顔になる。
「でも無職って、割り勘のときだけ急に“全員まとめて同じ種族”になるの、ずるくないっすか」
リホが間髪入れずに言う。
「さっきから伝票、ずっと見てるけど?」
「今月、ガチでやばいんで」
黒川が言った。
「夢追ってると、金の減りが早いんだよ」
「夢って、使い過ぎると借金になるんですよ」
ミシマが言う。
「利息は“自己嫌悪”で」
一瞬、三人とも黙った。
外で電車の音がした。
沼袋を通りすぎる音だった。
黒川が急に笑った。
「じゃあさ、無職って“なるもの”じゃなくて、“塗り替えられるもの”なんじゃね?」
「何に?」
「“いまの自分”に」
いいことを言ったつもりの空気が、一瞬だけ店内に浮かびかけた。
その空気を、リホが伝票で叩き落とした。
「はい、いまの自分たち、一万二千円ね」
現実が戻る。
ハルが財布を開く。
「無職って、支払いのときだけ団結力高くないっすか」
「共通の敵が“お金”だからな」
黒川が言った。
ミシマは少しだけ考えてから言った。
「無職って、“仕事がない人”じゃなくて、“明日の説明を先送りにしてる人”なんじゃないかな」
黒川がうなずく。
「じゃあ俺、無職じゃないわ。明日オーディションあるし」
三人が同時に言った。
「それ、先週も聞いた」
店の外で、もう一本、電車が通りすぎた。
誰も何も言わなかった。
ただ、それぞれの“何もなかった一日”が、空いた皿の上に積み重なっていくだけだった。
沼袋は今日も、誰の人生にも、はっきりした答えを渡さなかった。




