第六話 粛清の夜
冬へ傾く風は、紙の乾きを速める。
八木家の座敷に積まれた紙は、昼のうちに何度も指で撫でられ、端がわずかに磨り減っていた。
土方歳三はその束の上に手を置いた。紙は冷たく、よく乾いている。乾きを確かめる指の動きは、刀身の錆を探る動きと同じだった。
「――順番だ」
声に出したのは誰でもなく、部屋の空気そのものだった。
紙で斬る。
座で斬る。
最後に、刀で斬る。
彼らは三度、順番を守ってきた。だが今夜だけは、三度目の場所に足を置いたまま、四度目の地面を掘り進めなくてはならない。
八木家の奥、台所では湯の音が細くはねている。土間の冷えから立ちのぼる白い息が、障子の紙に色を足す。
山南敬助が筆をとり、短く書く。
――『座中覚書 壬生浪士組、此夜、内患を断つ』
書き終えると、彼は息を押し殺して紙をたたんだ。これは誰にも見せない紙で、見せない紙ほど重い。
近藤勇は、縁側に立って庭の暗さを確かめた。
椿の赤が、夜に吸われて黒に近い。
庭の石は冷たく、踏めば音が遠くへ飛ぶだろう。
戻ってくる足音が、今夜は一つ少なくなる――その予感が、喉元で硬い。
「勇」
背から、土方の声。
「うむ」
「芹沢の“歌”は、もう座の外へ出ている。紙では斬れない。座でも斬りきれない。最後の順だ」
近藤はうなずいた。
「お前の刀で、座の拍を守る」
土方は言葉を選ばない。「非情を選ぶのは、情を守るためだ。組を、守る」
その「組」という一語は、ここへ来てから幾度も磨かれた。
乱暴でも乱戦でもない。組。
拍を揃え、顔を守り、紙を重ねるための骨。
骨は折れる。折れたら繋ぐ手が要る。
だが、骨を砕く邪魔な石が体内にあるなら、摘み出さねばならない。
摘み出す手が今夜は刀で、刀が今夜は沈黙の代わりだった。
*
夕餉の前、密議は短く、深かった。
座は四つ角を潰すように据え、廊の方を背にしない。
土方、近藤、山南、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、そして沖田総司。
顔ぶれは、いつもの巡察のときと同じだが、目の奥の光は違う。
「やる」
土方が最初に言った。
「やる」
近藤が続ける。
「やる」
山南は短い息で、紙をたたんだまま繰り返した。
それから順番を決める。
「外の拍を保つ役――永倉、原田」
「承知」
「内で走る拍――沖田」
「承知」
「座の拍――井上」
「承知」
「記す役――山南」
「承知」
そして土方が、自分の番を口にした。
「順番を動かす役――俺」
近藤は黙って頷き、刀の紐を締め直した。
言葉を少なくしたのは、言葉が多い夜ほど人は後ろを振り返るからだ。
振り返る背に、刃は要らない。
この夜に要るのは、正面で受ける心と、正面で引き受ける刃だ。
*
暮れ六つ。
壬生寺の鐘が澄んで鳴り、音がゆっくりと庭石を撫でていく。
芹沢鴨は、八木家の一間に酒を運ばせ、湯気の立つ椀を乱暴に口へ運んでいた。
扇は柱にもたせ掛け、着流しの合わせはゆるい。
笑いは深く、夜を自分のものにしている男の笑いだ。
「壬生の坊っちゃんらは、紙の上で戦をする。紙は破れんのが難儀だな」
隣で、野口がへらりと笑う。
平間はすでに酒で頬を赤くし、眠りの入口に立っている。
「紙が破れぬなら、紙の外へ出りゃいい」
芹沢の目が狭くなる。「外の風は、剣より冷たい」
障子一枚の向こうでは、八木家の人びとが息をひそめている。
女たちは台所の影で身を寄せ、男たちは戸口の閂をもう一度確かめた。
「……今夜か」
誰かが、見えない口の形だけで言った。
見えない祈りは、見える刃よりも鋭いことがある。
*
宵が深まり、雨気を孕んだ風が庭の砂を撫で始めたころ、土方は座敷の縁に膝を置いた。
息を一度、長く吐く。
拍を整える。
――外の見張り、灯り、足音。
永倉と原田が、冬の塩を踏むように周囲を回っている。
――廊の影。
井上の足は重く、しかし静かだ。
――内の気配。
沖田が、刀の柄ではなく鞘の位置を確かめる小さな音。
――紙。
山南が、最後の一行に墨を含ませるかどうか躊躇する微かな呼吸。
すべての拍が、同じ速度で胸に落ちる。
土方は立った。
「行くぞ」
その声は、刀の輝きより先に道を作った。
*
廊の灯は落としてある。
障子に映る影が三つ、すべるように移動する。
沖田が先。
廊の角で一度だけ止まり、息を沈め、襖の桟に指を添える。
近藤が続き、視線で合図を送る。
土方は最後、退路と前路の両方を見る位置に立つ。
襖が、音もなく開く。
酒の匂いが濃く流れ出す。
芹沢の寝息――深い。
野口の体が横向き、平間は上向き。
灯に近いものから、遠いものへ。順番。
沖田の影が、ゆっくりと床を滑った。
刃が抜かれ、空気が薄く鳴る。
ひと太刀。
畳が低く悲鳴を上げ、血の匂いが早く、静かに広がった。
野口の喉が小さく鳴る。
ひと太刀。
平間の胸に赤い花が咲く。
呼吸がひとつ止まり、部屋の温度が一度下がる。
最後に残った芹沢は、夢の底で眉を動かし、次の瞬間、眼を開いた。
「なにもの――」
声の終わりを、刀の始まりが断つ。
芹沢の体が跳ね、襖の影が壁へ走った。
「おのれ近藤――!」
叫びは鋭く、座敷の板を貫いた。
近藤の刃は、迷わなかった。
刃が骨に触れる音は、静かだった。
血が障子の紙に小さく星を描き、すぐに黒へ変わる。
部屋の隅で、扇が倒れ、骨が欠ける。
芹沢の眼が、天井の梁を掴むように見開かれ、そして、ほどけた。
叫びの余韻は、庭石に吸われ、夜の外へも漏れなかった。
沈黙。
沈黙の底で、拍が戻る。
まず、土方の拍。
「終いを」
次いで、沖田の拍。
「はい」
最後に、近藤の拍。
「……済まぬ」
誰に向けた言葉でもない。自分の中の、最後のためらいに向けた声だ。
ためらいは、刀の血でやっと沈んだ。
*
外の見張りが、一度だけ足を止める。
永倉が耳を澄ませ、原田が空を見上げる。
雪ではない。
雨でもない。
ただ、夜が深くなっただけ――
「拍は戻った」
永倉が呟き、原田が短く頷いた。
廊の端で、井上が両手を合わせた。
声は出さない。
祈りは、音より重い。
山南は座敷に踏み入り、紙を開く。
――『座中覚書 此夜、内患ヲ断ツ。剣ハ最後ニ置ク』
墨はまだ濡れて、わずかに光った。
彼は躊躇なく印を置く。
印は血ではない。けれど、血の代わりに立つ覚悟の赤だ。
土方は刀を拭い、鞘に戻した。
鞘の中で、刃が静かに呼吸を始める。
「外を固めろ」
短い指示。
永倉と原田が動き、門の前、角の先、灯と闇の境目に“見えない位置”で拍を置き直す。
「朝になるまで、座は俺たちのものだ」
土方の言葉は、家そのものに聞かせるように低かった。
*
夜は長い。
長い夜ほど、紙は重くなる。
八木家の台所で、湯の音が戻り、女たちが震えた手で新しい湯を沸かす。
「……すまぬ」
近藤は台所口で頭を下げた。
「いえ」
女主人の声は小さく、しかし真っすぐだった。「ここでやってくれはったから、明日も、うちが“町家”でいられますえ」
その一言は、刀より重かった。
土方のまぶたが、わずかに硬くなる。
沖田は縁に座り、袖口を口に当てて咳を一つ、二つ。
紅はほとんど滲まない。
不意に、軽い空腹を覚えた。
人は、刃の後で腹が減る。
「総司」
土方が呼ぶ。
「はい」
「若い者に“斬らない構え”を、明日も続ける」
「続けます」
短い言葉で交わす約束が、朝に向けて灯になった。
*
暁の色が庭の石に触れると、夜の重さが少しずつ剥がれた。
門の外の通りにはまだ人影はない。
土方は座敷の中央に紙束を運び、皆を呼んだ。
山南が『局中申合書』を開く。
近藤が座の前に膝を置き、言う。
「これからは、名をもう一度、選ぶ」
皆が顔を上げる。
「旗は心に。けれど、布にも出す時がきた。顔は、もう持っている。紙は、整えた。刀は、順番の最後に置く。――ならば、名を負う覚悟を、布にも置く」
永倉が唇を鳴らし、原田が身を乗り出す。
井上は静かに眼を閉じ、沖田が笑う。
土方は無言で頷いた。
山南が白地の布を広げ、筆を持つ。
「一字」
近藤が言う。
「一字で、胸を縛れる字だ」
筆が布に近づき、墨が滲む。
――誠。
布に現れた瞬間、部屋の空気が新しい拍を覚えた。
“誠”は、試される字だ。
試しは、こちらの順番では来ない。
それでも、掲げる。
掲げて、守る。
守れない夜は、己が斬る。
順番は、変えない。
山南は次に、別の紙を広げた。
『職掌定』
局長、近藤勇。
副長、土方歳三。
総長、山南敬助。
小姓頭取、沖田総司。
組頭、永倉新八・原田左之助・井上源三郎……。
名は紙に刻まれ、紙は座に掲げられた。
「――今日より、名を改める」
近藤が立ち上がる。
「壬生浪士組、改め新選組」
声は低く、遠くまで響く音ではない。
だが、座の中の胸を確かに打った。
山南が筆でなぞり、土方が印を置く。
印の赤は、今夜の赤と重なる。
血のために掲げる旗ではない。
血を最小にするために掲げる旗だ。
*
朝の巡察は、いつもの道を、いつもの半歩で。
だが、町の目は違った。
噂は夜のうちに走り、朝のうちに沈む。
「水戸はんの顔が、昨夜で消えた」
「壬生の新しい名が、看板になった」
茶屋の主は目尻に皺を寄せ、「拍が安うなった」と言う。
女将は格子の内で、白い指を合わせた。「“誠”の字、ほんまに出さはったんや」
「はい」
沖田が笑う。
「字は紙より重い」
女将が言う。
「紙で斬り続けるための字です」
沖田の返事は軽く、しかし、まっすぐだった。
祇園の年寄は、回状を読み、深く頭を下げた。
「“御用の顔”は変わらず、名は“新選組”。――筋が通りまっしゃろ」
土方は目を細くして頷いた。「筋を通すために、昨夜は刀を置いた。順番を違えぬために」
年寄は「ようやった」とは言わない。言えば、夜の血が軽くなる。
言わないまま、台の下に紙を重ね、拍を理解した目で見送った。
*
昼下がり、八木家の庭で稽古。
沖田が若い者に“斬らない構え”を教え、永倉が踏み込みの浅深を正し、原田が槍の間合いを空気で示す。
井上は帯の結びを整え、山南は端に座して筆で“拍”の字を小さく書いては消す。
土方は縁に立ち、旗の“誠”を一度だけ見上げた。
布に出した旗は、風で折れる。
折れたら、畳んで持つ。
持つ手が要る。
持つ手の順番は、もう決めてある。
「非情は、情の番人だ」
土方は胸の中でだけ、はっきりと言った。
「組を存続させるためには、非情を選ぶしかない夜がある。今夜は、その夜だった」
そして、彼は刀の紐をもう一度、固く結び直した。
*
夕刻。
八木家の座敷に新しい座が敷かれ、新選組の名にふさわしい拍が置かれる。
「局長」
初めてその呼び名で呼ばれ、近藤は短く頷いた。
「副長」
土方が応じ、声は低く、揺れない。
「総長」
山南が控え、紙の音が小さく鳴る。
若い者の眼が、新しい名の重さを追いかける。
重さは、まだ体のどこに置けばいいかわからない。
それでいい。
重さと居場所は、同時には決まらない。
拍だけが決まっていれば、重さは後から馴染む。
「斬らない夜を増やす」
近藤が言う。
「紙を増やす」
山南が続ける。
「旗を守る」
土方が締める。
拍は、言葉の順番そのものだった。
その拍に乗り、誰かが小さく息を呑んだ。
新しい名は、今、座の中央に置かれ、町に向かって静かに息を始めた。
*
夜。
壬生の風は冷たく、星は少ない。
八木家の庭で、旗の布がわずかに鳴った。
鳴りは、一度、二度。
拍に合っている。
遠くで犬が鳴き、すぐに黙る。
町は、この名を受け入れる準備をしている。
恐怖と規律――二つの硬さが、柔らかな“日常”を守る殻になる。
殻が硬すぎれば、中身は窒息する。
硬くなりすぎないよう、紙を湿らせる役がいる。
湿りは人にしか保てない。
そのために――組がある。
土方は旗を見上げるのをやめ、座敷に戻った。
もう一枚、紙を取り上げ、筆を執る。
『夜警次第・改 刀ヲ最後ニ置ク順守ノ件』
墨を含ませ、最初の一画に力を入れる。
この紙は、刃の後に残る筋だ。
筋があれば、いつか誰かが、今夜を読める。
読める夜は、斬らなくて済む。
斬らずに済む夜を、増やす。
それが、自分たちの仕事だ。
芹沢の名は、もうここにはない。
だが、今夜の血は、名の輪郭に沿って乾いていく。
「勇」
「うむ」
「明日からも、同じ拍だ」
「同じ拍で行く」
短い言葉の往復は、夜の終わりの合図でもあった。
火皿の炎が小さく揺れ、やがて落ち着く。
旗は鳴らず、庭は暗く、座は静か。
静けさの中に、新しい名の鼓動が、確かにある。
八木家の梁が、ゆっくりと、息をした。
その息に呼応して、新選組という二文字が、座の中央で重みを増した。
恐怖と規律は、人のためにある。
非情は、情を守るために立つ。
順番は、変えない。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
そして、刀を鞘に戻したあと、もう一度、紙を増やせ。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
その一行のために、今夜の刃はあった。
椿の葉が一枚、遅れて落ちた。
音はしない。
だが、落ちたという事実だけが、旗の下で、はっきりと、残った。