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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第五話 壬生浪士組の誕生

 冬の光は紙を白くし、白さは心の震えをむき出しにする。

 八木邸の座敷に広げられた清書用の鳥の子紙は、まだ何者にも染まっていない。墨を含ませた筆先が、近藤勇の手の中でわずかに震えた。震えは寒さだけではない。名を記す――それは、後戻りを断つ行いだった。


 「――壬生浪士組」

 声に出してから、一文字ずつ、紙の上に置く。

 土方歳三が横で目を細め、山南敬助が筆の送りを見守った。

 「名は遅れて来る」

 土方が小さく呟く。「だが、今夜は呼ぶ側に回る。呼べば、責任が降る」

 近藤はうなずき、最後の点に力を込めた。筆を上げると、紙の白が一段と冷たくなった気がした。


 庭には薄い霜。壬生寺の鐘は乾いて響き、八木家の土間では湯が小さくはぜる。

 「拠点は八木邸のまま。巡察の路は昨日までの拍で。――ただし」

 土方は床の間に立てた地図の上、朱の線を一本足した。「この角とこの角、夜の見張りを“見えない位置”にずらす。表の灯に手を出す者がいる。灯は殴らない。灯の影を殴る」

 山南が机から顔を上げる。「“局中申合書”、清書できました」

 紙束は薄いが重かった。

 一、御用の顔の内、私闘・賭博・乱妨狼藉、これを禁ず。

 一、巡察は拍を以て行い、合図を違うべからず。

 一、火は紙の後、木は水の後、刀は最後。

 一、内における不始末は座にて定む。軽重三段に処す。

 一、名は紙に記し、名なき申立ては座に入れず。

 末尾に近藤・土方・山南の朱が並ぶ。朱は血ではない。だが、血の代わりに立つ覚悟の色だった。


 名を立てるというのは、町に顔を置くことに等しい。

 名を口にした初日から、壬生の目は少し変わった。

 「壬生の浪士が、壬生の名を名乗らはったえ」

 茶屋の主は眉を上げ、「責任の顔やろ」と笑った。

 女将が続ける。「拍が分かる顔やったら、看板に恥をかかせはらへん」

 笑いの角は、まだ鋭い。だが、笑いは嘲りだけではなくなった。


 午前の巡察に出る前、土方は若い者を中庭に並べた。

 「武家としての居住まいを整える。裾、乱すな。結び、緩めるな。――歩幅は半足。揃えるための半足だ」

 「半足?」

 原田左之助が首をかしげる。

 「早い者が遅くし、遅い者が早くする。その間が半足。強い弱いじゃない。合うか合わないかだ」

 沖田総司が笑い、若い者の肩の余計な力を抜いて回った。「斬らない構えの稽古です。拍が合えば、斬らずに済む夜が増える」

 咳は出なかった。出ないことが、逆に胸の奥を冷やしたが、総司は笑みを崩さなかった。笑みもまた、隊の拍の一部なのだ。


 名乗りの回状は祇園・木屋町・島原へ。会津の目付へは控と申合書。寺社の別当、町奉行所の下役、問屋仲間へも丁寧に。

 「“御用の顔”は、町の顔に額ずく」

 土方は回状の束を山南に渡し、「言葉は角を落として芯を残せ。芯を失うな」と言った。

 山南は微笑した。「角が立つと、紙は手から滑る。丸すぎると、芯が抜ける。――ちょうどよい湿りは、人にしか保てません」


 そうして、名乗りは始まった。

 だが、名乗りと同じ速度で、芹沢鴨の横暴もまた顔を変えずに続いた。


     *


 賭場荒らしの報が最初に入ったのは、名を掲げた翌日の宵だった。

 「木屋町の奥、裏二丁目。札がひっくり返り、所場銭が消えた」

 年寄の顔は怒りよりも先に恥を帯びていた。「わてら、顔に泥塗られまっしゃろ」

 土方は短く頭を下げた。「泥は、こちらで拭う。泥の出どころも、こちらで」

 巡察路をずらし、見張りを“見える位置”に一度だけ置き直す。

 「見せるための見張りだ」

 土方の声は乾いている。「見せずに効かせる前に、一度見せる。拍は乱すな。走るな。声を低く」

 格子の向こう、札の音がぴたりと止む。

 永倉新八が低く名を告げ、原田が無言で腰を落とす。

 「壬生浪士組である」

 名は、刀より先に場の胸を押さえた。

 「所場銭は返す。――誰の指図だ」

 沈黙ののち、札師のひとりが目を伏せた。「“水戸はんの顔”」

 芹沢一派の影は、札の墨と同じように濃く、速く染みる。


 翌夜は、町娘への狼藉だった。

 祇園の角で、若い女の袖が乱れ、泣き声が夜気に薄くほどける。

 沖田が一歩、二歩で入って手首を制し、刃を見せずに腕を畳につく。

 「御用の顔の内です」

 総司の声音は柔らかい。「名を」

 男は笑った。「名を? “芹沢様の威”や」

 土方が前に出る。「威は、顔を守らない。威で守れるのは、自分の影だけだ」

 「影は大きい方がええ」

 男は吐き捨て、仲間の影とともに夜に溶けた。

 女将は震える手で帯を直し、総司は「すみません」と深く頭を下げた。

 土方は女将に小さな紙包みを渡す。白い塩。

 「紙に包んでおいてください。湿りを吸います」

 女将は泣き笑いの顔でうなずいた。「あんたらの紙、よう効きますわ」


 名乗った初週で、紙の束は二倍になった。

 回状、控、巡察記、苦情の聞き書き、受け渡しの証。

 「紙で斬る」

 土方が呟けば、山南が「刀は鞘に」と返す。

 近藤は声で拍を刻む。「焦らない。息を合わせる。斬らない構え」

 斬らずに済む夜は、たしかに増えた。

 だが、増えた夜の背後で、芹沢の影は濃さを変えない。


     *


 ある夕刻、八木邸の座敷に芹沢鴨が現れた。

 「壬生浪士“組”?」

 扇で膝を叩き、にやりと笑う。「浪士が組を名乗るはおかしな話だ。ばらばらであるから浪士、というのが筋だろう」

 「筋は、こちらで引く」

 土方は淡々と申合書を差し出した。「御用の顔の内での筋です。――署名を」

 芹沢は紙を見て、笑い、見て、笑い、やがて扇の骨で紙の端をつついた。

「紙は読んだ。飲み込んだとは言っていない」

 「飲み込め」

 土方は即答した。「飲み込めぬなら、のどに刺さる」

 近藤は横から口を添える。「“組”は拍だ。拍がある限り、剣は最後に置ける」

 「剣は、最初に抜くものだ」

 芹沢は立ち上がり、小箪笥の引き出しを一つ蹴った。木の音が短く座を走る。

 「お前たちは紙で夜を越す。俺は酒で夜を越す。夜の越え方に優劣があるか」

 「ある」

 土方の声は薄く冷たい。「翌朝、残るものの優劣だ」

 芹沢は鼻で笑い、踵を返した。

 笑いは座敷に残った。

 残った笑いは、紙の湿りに吸われず、畳の目を濡らした。


 夜半、木屋町のはずれで乱暴があり、翌朝には賭場の札がまた裏返る。

 昼には島原で酔漢が店先の看板を折り、夕刻には御用の席で嘲りの言葉が落ちる。

 ――一日に四度、拍が乱れる。

 「紙で受ける量を超えています」

 山南が墨を拭いながら言う。

 土方は地図に朱を足し、路の間に“座”の印を増やした。「座を増やす。座の外で決められたことは座の外で崩れる。座の内で決め、内で押さえ、外には紙で出す」

 近藤は庭に出て、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。「声を、もっと使う。拍を、もっと刻む」

 声は夜の端を踏み、拍は路の石に移る。

 だが、酒の笑いは路地の角に潜り、夜ごと別の顔で現れた。


     *


 土方は、沈黙を覚える男だった。

 沈黙は、刀であり、鞘であり、紙の裏面でもあった。

 彼は沈黙の中で、順番を並べ直していた。

 ――紙で斬る。

 ――斬れなければ、座で斬る。

――座で斬れなければ、刀で斬る。

 斬るとは必ずしも首を落とすことではない。筋を断つ、流れを切る、拍を切り替える。

 だが、最後に置く刀の場所を、心の奥でそっと指で触れる。

 「組を守るために手を下す」

 その言葉は、まだ誰にも聞かせられない。

 聞かせれば、順番が狂う。


 夜の稽古で、総司が若い者に“斬らない構え”を教える背中を、土方は長く見ていた。

 咳は、出ない夜の方が多くなった。

 出ない静けさが、かえって胸を責める。

 土方は何も言わない。

 言わない代わりに、紙を一枚増やした。

 『夜警次第 斬らずに済ませるための合図』

 合図は短く、意味は重い。

 「斬らずに済ませるために、斬る準備を怠らない」

 これが“組”の呼吸だった。


     *


 壬生の町は、目に見えない境界線で満ちていた。

 この辻を一本越えれば長州の袖、この角を曲がれば薩摩の裾。会津の袴の影は御所の外へ長く伸び、町人の足音はその間をすり抜けていく。

 壬生浪士組は、その線の上を歩くことを選んだ。

 名は、線の上で初めて効く。

 線の外で振るう剣は、ただの光だ。

 線の上で鳴る拍は、町に残る。


 そんな折、八木家にひとつの申し出が舞い込んだ。

 「旗を、出しはりまへんか」

 島原の年寄が、控えめな笑みで言う。「遠目にも分かる一字。白地に、黒かな、赤かな」

 近藤は笑い、「旗は心に」と返した。「布に出すのは、もう少し後。布に出せば、風が容赦ない」

 年寄は頷き、扇で自分の頬を扇いだ。「心の旗は折れへん。布は折れる」

 土方は横から、「旗を布に出す日は、座で決める」とだけ足した。

 山南は墨を磨りながら、紙の端に小さく一字を描いた。

 ――誠。

 すぐに濡れ布で拭い、痕跡を残さなかった。

 字は心に置いておくに限る。掲げれば、試される。試しはたいていこちらの順番ではない。


     *


 冬の底が近づくと、酒は辛くなり、人の怒りの芯もまた辛くなる。

 その夜、芹沢一派の酒宴は八木邸の座敷で開かれた。

 招きは広く、豪勢で、長い。

 盃の往来が続き、唄が乱れ、笑いは弱い者に向けられた。

 「壬生の坊っちゃん」

 芹沢は扇でこちらを指し、唇の端を吊り上げた。「“組”の名は立ったか。紙の筋は、夜の酔いより強いか」

 近藤は盃を置き、静かに言った。「紙は、朝に残る。酔いは、朝に恥になる」

 「恥は、笑えば消える」

 芹沢の笑いは深く、座敷の柱が一度鳴った。

 土方は盃に水を注ぎ、盃を置き、立たなかった。立てば、座が崩れる。

 山南は筆を握り、座の隅で記していた。「笑いの矛先。唄の節。乱れた拍」

 沖田は若い者の肩を押さえ、目で「座を出る」と合図した。

 退くのも拍。

 拍が守れれば、次の夜に座を取り戻せる。

 その夜は、退く拍だった。


 翌朝、祇園の行司がひそやかに言った。

 「昨夜の乱れ、紙にしておくれやす」

 「紙にします」

 土方が頷く。

 「ただ紙だけやと、向こうは笑いはる」

 年寄の言葉は重い。

 「紙の次が、座。座の次が、……」

 言い切らぬところに、互いの沈黙が結び目のように残った。

 土方はうなずく。

 沈黙は、同意の別名にもなる。


     *


 年末の寒さの中、規律はさらに厳しくなった。

 起床の刻限、巡察の編成、座の席次、口上の言い回し。

 土方は髪の跳ねを指で押さえるような細やかさで整え、山南は文字の棘を指で丸めるように条文を磨いた。

 井上は若い者の帯を結び直し、永倉は稽古の寸止めを長くし、原田は“目立たない槍”の退屈に耐えた。

 沖田は“斬らない構え”を毎夜教え、笑顔の角度を変えないまま、袖の中に小さな咳を沈め続けた。


 壬生の目は、冷たいが正確だった。

 「今年は血の匂いが薄うおす」

 女将が言い、茶屋の主が頷く。「その代わり、紙の匂いがする」

 紙の匂いは、湿りと墨の混じった匂いだ。

 湿りは人にしか保てない。

 だから“組”が要る、と近藤は思う。

 ばらばらの剣では、湿りは保てない。

 「組にする。乱暴でも乱戦でもない。組に」

 彼は声に出さずに胸の奥で繰り返し、旗の布目を心に織り続けた。


     *


 年の瀬、雪の朝。

 八木家の庭が白くなり、椿の赤が強くなる。

 近藤は座敷に皆を集めた。

 「名は立った。紙は整った。拍は身についた。――残るは、顔だ」

 「御用の顔、でっか」

 井上が問い、近藤がうなずく。

 「御用の顔は、もらい物から自分の顔に。責任を置く顔に」

 土方が続ける。「顔を守る順番は変えない。紙が先、声が次、刀は最後」

 永倉が拳を握り、「最後の夜は、俺が前に出る」と言えば、原田が「その次は俺や」と笑う。

 沖田は「その前の夜を増やします」と笑い、山南は「座を増やし、紙を重ねます」と静かに言った。

 言葉の重なりは、拍の重なりだった。

 拍が重なれば、旗は布に出しても折れにくい。

 ただし――まだ出さない。

 出さないことが、出す準備になる。


 その日の夕刻、町奉行所の下役が八木家を訪れ、名乗りの控に印を押した。

 「壬生浪士組――」

 下役は読んで、口の端を上げた。「ようやっと“浪士”に骨が入ったように見えますわ」

 「骨は折れます」

 土方が穏やかに返す。「折れたら、繋ぐ手間を惜しまない。それが“組”です」

 下役は頷き、「手間を惜しまん顔は、長持ちします」と言って帰っていった。


     *


 夜更。

 火皿の炎が小さく揺れ、障子の紙が息でわずかに震える。

 近藤と土方は縁に並び、暗い庭を見ていた。

 「歳三」

 「うむ」

 「芹沢の“歌”は、まだ続く」

「続く」

 「いつか、止む」

 「止む」

 短い言葉の間に、長い沈黙が挟まった。

 沈黙は、決意の形をしている。

 土方はやがて口を開いた。「順番を違えない。紙で斬り、座で斬り、――最後に」

 近藤はうなずいた。

 「最後の前に、できることをすべてやる。旗を心に、拍を身に、刀を鞘に」

 庭の椿に雪がひとつ落ち、赤の上で音もなく溶けた。

 音がしないことが、かえって胸を打った。


     *


 年が明け、壬生の土は硬く、空気はもっと透明になった。

 壬生浪士組という名は、京の町でゆっくりと馴染み、嘲りと計り、そして期待の薄い層をまとった。

 賭場の札は裏返される前に目に留まり、町娘の袖は乱れる前に手が添えられる。

 斬らずに済む夜が、もう一夜増えた。

 紙は増え、顔は守られ、拍は刻まれ、刀は光を帯びたまま鞘にある。


 芹沢鴨の笑いは相変わらずだ。

 酒の匂いは強く、乱れの拍はときおり座を揺らす。

 それでも、揺れは以前ほど長くは続かない。

 揺れを短くするのは、紙と座と拍――そして、沈黙だ。

 沈黙の底に、土方の手の温度がある。

 「組を守るために手を下す」

 その言葉は、まだ誰の耳にも入らない。

 だが、名を掲げた瞬間から、その順番は静かに動き始めている。


 壬生浪士組は、今日も歩く。

 半足の歩幅で、同じ呼吸で、同じ拍で。

 町の角ごとに置かれた紙の湿りに、血の匂いは吸い取られ、冬の乾いた空気は少し柔らかくなる。

 旗はまだ心に。布には出さない。

 出せば、風が容赦ない。

 だが、心の旗は折れない。

 毎晩畳み直し、毎朝そっと広げる。

 その動きこそが“組”の呼吸であり、名の重さであり、武士の名を廃らせまいとする一点の意地だった。


 椿の葉がまた一枚、雪の上に落ちた。

 音はしない。

 音のない落下を確かめるように、近藤は刀の紐を締め直す。

 「行こう」

 声は低く、よく通る。

 土方がうなずき、山南が紙を抱え、沖田が笑い、永倉が肩を鳴らし、原田が拳を握る。

 井上が静かに戸を開けると、冷たい朝の光が薄く差し込んだ。

 拍は、歩幅に移る。

 歩幅は、町に刻まれる。

 刻まれた拍の上で、まだ布に出していない旗が、見えないまま、はっきりと、揺れた。

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