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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第43話 斎藤一、名を伏せて剣を変える

 会津の空は、敗けの色をしていない。

 ただ低い。低さは、音を近くする。近さは、嘘を嫌う。

 城下の終盤、斎藤一は“仕事”をした。仕事とは、敵の刃を鈍らせ、味方の列を保つこと。派手さはないが、軍の呼吸を整える技だ。彼は交替路で立ち止まり、負傷兵の肩を支え、次の射線の角度を若い兵に指で示した。無駄がない。無駄がないことは、美しい。だが、美しさは記録されにくい。記録に残りにくいものほど、骨に近い。


 「ここで半歩、そこでも半歩。四拍目のふりで三拍目に置け」

 若い兵は頷き、頷いた分だけ恐れを減らした。恐れは、視界を狭くする。狭くなった視界は、刃を無駄に速くする。速い刃は、間を壊す。壊れた間は、生き残りを減らす。

 斎藤は己の刃を、今日も抜かなかった。抜く必要を先に潰すのが“仕事”だ。抜かずに済むために、剣は腰にある。


 籠城のある夜、石垣の影で、彼はひとりの少年兵に肩を貸した。

 「名は」

 「要りません」

 「そうだ。今は要らない」

 彼は少年の膝に布を巻き、布の端を揃え、端を軽く撫でた。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を守れば、真ん中が働く。戦も、暮らしもそれは同じだった。

 少年は小さく問う。「勝てますか」

 「間違えない手順は、短い。短いものほど、長く残る」

 答えのようで、答えではない。だが少年はうなずいた。うなずきは、鳴らさない誓いだ。


 会津が落ちたとき、彼は背の中ほどにある“間”を、ひとつ畳んだ。

 名は、武器だ。名は、鎧だ。名は、足枷だ。

 敗戦後、斎藤は名を伏せ、流転ののち“藤田五郎”と名乗る。名を変えることは、誇りを捨てることではない。前の名では守れぬものを、新しい名で守るという選択だ。

 名は短く、影は長い。影は、踏むべき場所と踏んではいけない場所を教える。影の上を、彼は歩いた。踏むところは、少しだけ冷たい。


 明治の街は、角が増えた。角は人を迷わせ、迷いは怒りを呼ぶ。怒りは視界を狭める。

 「怒るな」

 彼は自分に言い、のちに若い巡査にも言う。「怒りは視界を狭める」

 血の匂いを知る者ほど、怒りを遠ざける術を身につける。怒りを遠ざけた先に残るのは、手順だ。手順は、心が弱っている時ほど頼りになる。

 “藤田”として彼が選んだのは、明治政府の警察だった。かつての敵の秩序を、この手で守る役目。敵であった秩序に寄り添うとは、矛盾のようで、矛盾ではなかった。秩序は、子どもの帰り道に最短で効く。帰り道に効くものは、たいてい善い。


 新しい官服は、昔の羽織よりも軽かった。軽さは、背中の矢を隠すのに向いている。矢はまだある。前に倒れる覚悟の分だけ、静かに伸びている。

 「抜くな。構えろ」

 交番の裏庭で、若い巡査たちに足の運びを教えるとき、彼は最初にそう言った。抜くより先に、構えが要る。構えは、抜く前に結果を半分決める。

 「四拍目のふりで三拍目に置け。鳴らさない一拍が、鳴る一拍を賢くする」

 誰も太鼓を持っていないが、彼らは拍を覚えた。覚えた拍は、夜の路地で人を救う。


 薄い給金、薄い米。薄いものほど、長持ちすることがある。

 彼は妻を迎え、細い生活を整え、静かな表情の裏に古い炎を仕舞った。

 「東京という名は、どうもしっくりしない」

 妻は笑って、茶を置く。茶の湯気が窓の格子を撫で、格子の影が畳の上で四つの角をつくる。角は人を迷わせるが、影は乱さない。

 「名は紙に書くもの。暮らしは、湯気に宿るもの」

 妻の言葉は、彼の剣より柔らかい。柔らかさは長持ちする。

 夜、煤の匂いが少し残る布団の中で、彼は眠りを深くし、夢の手前で目を覚ます。夢の手前は、いちばん正直なところだ。そこに昔の名が立ち上がることもある。彼は、その名に礼をして、また眠る。


 交番では“事務”が増えた。紙と印と数。

 「被害届、三件。喧嘩、二。迷子、一」

 若い巡査が読み上げ、彼は端から印を置く。印は角を好み、角に押された丸は、息の時間を静かに収める。

 「迷子は、紙より先に親を探せ」

 「先に紙だと、怒られます」

 「怒らせろ。怒りは狭い。子は広い」

 広いほうを先に通せ。彼はそれを剣で学び、紙で繰り返した。


 明治の街には、新しい刃が混じる。新しい刃は、古い怒りに服を着せて歩く。

 ある夜、酒場の角で、若い男が刃を抜いた。

 「やめろ」

 巡査のひとりが声を荒げ、男の目に怒りが火花を散らす。火花は、枯れたものにだけ容赦なく燃え移る。

 “藤田”は歩幅を半分にし、間を太くして進み、男の正面に“構え”だけを置いた。刃は抜かない。

 「帰れ」

 「誰にもの言ってる」

 「おまえだ。帰れ」

 言葉は短いほど、相手の中で長生きする。

 男の肩甲骨が、刃の柄に入った力を逃がす角度にわずか傾いた。角度は暮らしの中で人を救う。

 刃は下り、夜風が酒の匂いを薄める。薄くなった匂いは、人が家へ帰りたくなる種類の匂いだ。

 巡査が興奮のまま言う。「今、斬れましたよ」

 「斬らないで済んだなら、それが勝ちだ」

 勝ちとは、紙に載らない方の結果を言う。紙は怒りを吸わず、手順を吸う。手順の勝ちは、翌朝の子どもの笑い声にしか現れない。


 “藤田”の背に、旧い視線が刺さる夜もあった。

 道の向こうに、かつての同志が立っている。互いに名を呼ばない。呼ばないことが、旧い友への礼儀になる時がある。礼は儀だけではない。相手の今を傷つけぬ“距離”こそが礼だ。

 目だけで挨拶し、足の角度をほんの少し変え、すれ違う。

 すれ違う瞬間だけ、昔の拍が戻る。

 ――ひとつ、ふたつ、みっつ。

 数は口に出さない。出すと風に散る。腹で抱いた数は、背骨のそばに帰り、背筋をひとつ伸ばす。


 時代は、剣の名を別の名に置き換えはじめた。柔術、警杖、銃隊操法。名前が替わると、矜持はしばし迷う。迷いは怒りを呼ぶ。

 彼は迷わないかわりに、ひとつずつ確かめた。

 「棒を剣だと思うな。棒は棒だ。棒は、間を太らせるためにある」

 「太らせた間で、何をするんです」

 「帰す」

 「誰を」

「おまえ自身を、いまの場所へ」

 若い巡査は笑う。「むずかしい」

 「むずかしいことは、短くやる」

 短くやるために、構えが要る。構えが“抜かない”を支える。


 妻は、彼の沈黙を責めない人だった。

 縁側で糸を巻きながら、ふと問う。

 「昔の名、捨てた?」

 「捨ててはいない」

 「どこに置いたの」

 「背中の中」

 「そこ、暑くない?」

 「暑いときは、湯を冷ます」

 湯は、怒りではない。湯は暮らしだ。湯気は、紙の白よりも柔らかい。湯気の白は、降参の白ではない。生き延びる白だ。

 妻は頷き、梅干しの壺の蓋をそっと置く。蓋は音を立てない。立てない音は、よく響く。

 「あなたの仕事は、英雄譚じゃないんだね」

 「仕事譚だ」

 彼は短く答え、湯呑みの端を指で拭う。端は、最初に濡れ、最初に乾く。端を拭く人は、怒りを遅らせる。


 或る年の春、会津から古い手紙が届いた。

 “冬の間、土間の隅に置いておきました。湿りは取れ、匂いは残りました”

 手紙には短い言葉とともに、小さな箱が添えられていた。蓋を開けると、煤けた布の端が折り畳まれている。布の白は薄い。薄いものほど、長く残る。濃いものは、すぐ焦げる。

 妻が「誠の布?」と囁き、彼は首を横に振った。「ただの布だ」

 ただの布――しかし、折り目の呼吸が昔の拍に似ている。

 彼は布を畳み直し、箱を閉じ、背の中にある“間”の棚にそっと置いた。置くというのは、遠ざけることではない。帰り道を確かにすることだ。


 明治十年代、警察官の毎日は、紙と道のあいだを往復する。

 「喧嘩は“言葉の間合い”が崩れるところから始まる」

 彼は新人に、足だけでなく語の置き方も教えた。

 「怒るな。怒りは視界を狭める。狭い視界では、人の“端”が見えない。端は最初に濡れ、最初に乾く。端を見失えば、真ん中を壊す」

 「端って、どこです?」

 「目の端、口の端、道の端。名札の端、紙の端、鍋の蓋の端。見落とすな」

 若い者たちは半分しか理解しないが、半分でいい。半分を守る――それが答えだ。


 彼は、昔話をほとんどしない。問われれば短く答える。

 「あれは、仕事だった」

 英雄譚ではない。仕事譚だ。仕事の言葉は装飾を嫌い、骨に触れる。骨に触れる言葉は、若い者の背筋に長く残る。

 交番の壁に掲げた紙に、彼は三行だけ書いた。

 ――構えを先に。

 ――怒るな。

 ――戻れるようにしろ。

 字は下手でよかった。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。


 夏のある午後、旧い同志と角の市場で出会った。

 蜂蜜の匂い、古着の埃、陽にあたった木の匂い。匂いは正直で、会話の角を丸くする。

 「“一”」

 呼びかけたのは相手の目だった。

 “藤田”は胸の内側でだけ、その名に礼をした。

 「……おまえは」

 言いかけて、ふたりとも口をつぐむ。

 呼ばないことが、礼になる時がある。礼は儀だけではない。相手の今を傷つけぬ“距離”こそが礼だ。

 代わりに、蜂蜜を一壺、古着を一枚。それぞれが別々に金を払い、別々に歩き出す。

 背中の矢は黙っていたが、矢の影は少し伸びた。伸びた影は、足音を柔らかくする。


 秋、学校から帰る子が、交番の前で“白”を振った。

 白は降参の白ではない。通行の白。動線の白。帰り道の白。

 「重いか」

 「重い。でも、重いとき、風が見える」

 彼は頷き、棒の端を揃えた。「端は最初に濡れ、最初に乾く。端を揃えろ」

 子は笑い、白が一度、二度と揺れる。揺れの角度が、路地の犬の足を止めた。止まり方が上手い動物は、吠えない。

 「旗は落とすな」

 誰にも聞こえない声で、彼はつぶやき、白が見えなくなってから交番に戻った。

 落とすな――持ち続けろという意味ではない。置くべき時に正しく置け、という意味だ。置き方を間違えない。間違えない置き方は、短い。


 冬、妻が風邪をひいた。

 湯気が畳の上で白く揺れ、薬壺の蓋がきゅっと鳴る。鳴る音の短さが、家の守りになる。

 「あなたの昔の話を、少しだけ」

 珍しく妻が求めた。

 彼は火箸で炭を裏返し、裏の赤を表に返してから、短く言った。

 「みんなで、半分守った」

 「半分?」

 「両方を捨てないために、半分ずつ」

 妻は目を閉じ、「それは、暮らしのやり方だね」と言った。暮らしは、戦が発明した正しさを、やわらかく使い直す。


 明治二十年代、街は背丈を伸ばす。石畳は増え、人力車が列を作り、電信柱が冬の空を縫う。

 彼は新しい規則に文句を言わない。規則は、怒りより長持ちする。

 「書類が増えましたね」

 若い巡査が愚痴る。

 「増えた分だけ、怒りが減る」

 「どうしてです」

 「紙は怒りを吸わず、手順を吸う。手順が増えれば、怒りの入る隙間が減る」

 若い者は半分だけ頷いた。半分でいい。半分を守る。それが答えだ。


 そして晩年。

 彼は過去を多く語らない。問われれば短く答える。「あれは、仕事だった」

 仕事の言葉だけが、彼の過去を持った。英雄譚にしてしまうと、日々の構えが軽くなる。軽い構えは、刃を呼ぶ。彼は刃を呼びたくなかった。

 ある若い新聞記者が来て、紙を前にこう言う。「勇の話を」

 “藤田”は、湯呑みを置く音を少しだけ大きくした。

 「名は、土へ帰った」

 「では、あなたの名は」

 「いまの名で、仕事をしている」

 記者は食い下がる。「新選組の功罪を」

 「功も罪も、うしろにある。うしろを見ている間に、前で子が転ぶ」

 紙は、彼の短い言葉を好まなかった。紙は長い話を好む。けれど短い言葉ほど、骨に近い。骨に近い言葉は、時に英雄譚より遠くへ届く。若者に届き、町に届き、家族の静けさに届く。


 寺の境内で、旧友の名が風に乗ることがあった。

 「副長の終幕を聞いたのは、ずいぶんあとだ」

 彼は目を伏せ、火を見た。火は戦の色ではなく、暮らしの赤だった。

 「“なお持つ”という言葉がある」

 誰に向けるでもなく、呟く。

 持つのは城ではない。手順だ。手順を持つ町は、朝に強い。


 墓参りの日、彼は花を少なく、言葉をさらに少なくした。

 「戻れるようにしろ」

 墓前の石に向かって、ひとつだけ。

 帰り道で、旧友に似た背中を見つける。追わない。呼ばない。呼ばないことが礼になる時がある。

 “構え”の人は、呼ばずに立ち、呼ばずに動く。呼ばずに守る。呼ばずに置く。置き方を間違えない。

 墓地を抜ける風が草を撫で、一枚の葉が裏返った。裏返る音は小さく、しかし確かだった。確かさは、拍の真ん中に置かれる。四拍目のふりで、三拍目に。


 歳月は、彼の名を二重の影にした。

 “斎藤一”と“藤田五郎”。どちらも短い。どちらも長い影を持つ。

 影は踏むべき場所を教える。

 ある少年が道の端で棒を振っている。

 「棒ばかり振るな。草を抜け」

 彼は言い、少年は草を抜き、また棒を振る。

 「間合いって、剣だけのこと?」

 「いや。人の付き合い、言葉の距離、嘘と真の差し引き――すべてに間合いはある」

 「むずかしいね」

「むずかしいことは、短くやる」

 少年は笑い、棒の先を少し低くした。低い角度の棒は、風だけを撫でる。風は、撫でられても怒らない。


 晩年の彼は、病を遠ざけるのも“構え”だと知った。

 朝は薄い粥、昼は小さな飯、夜は湯を先に。湯気の白は、降参の白ではない。生き延びる白。

 妻が咳をし、彼が湯呑みを差し出す。

 「あなた、昔より、笑うようになった」

 「歳を取ると、構えが深くなる」

 「深い構えは、抜かないためにあるの?」

 「抜かないためにある」

 彼は頷き、窓の外の銀杏の葉が一枚、裏返るのを見た。裏返る音は小さく、しかし確かだ。確かさは、剣より長く残る。


 死の少し前、彼は机の引き出しを片づけた。

 出てくるものは、紙と紐と、薄い布の端。

 布を広げる。白は薄い。薄いものほど、長く残る。

 彼は布を畳み、端を揃え、箱に納めた。箱には何も書かれない。ただ木目があった。木目は年を重ね、敗けにも勝ちにも無関心で、折れた音だけを覚える。

 紙に、三行だけ書く。

 ――構えを先に。

 ――怒るな。

 ――戻れるようにしろ。

 字は下手でよかった。下手な字は、読む人に丁寧を頼む。頼まれた丁寧は、たいてい応じる。


 彼の最期は静かで、短かった。短いものほど、長く残る。

 「……仕事だった」

 それだけを残して、目を閉じた。

 妻は泣き、泣きながら台所の鍋の蓋を押さえた。蓋は鳴らない。鳴らさない音は、よく響く。

 旧友のひとりが墓前で囁く。「おまえは最後まで“構え”の人だったな」

 構えは、抜く前に結果を半分決める。彼は一生をかけて、構えの意味を示した。名を伏せ、剣を変え、しかし背筋を変えなかった男の、静かな生涯。


 彼の名は、いまも二つある。

 どちらも正しい。どちらも、暮らしのために畳まれ、暮らしのために広げられる。

 名は土へ帰る。土は名を食べないが、名を温める。温められた名は、茎の節で小さく鳴る。鳴り方は、構えを知る者にしか聞こえない。

 風が草を撫で、墓の前で一枚の葉が裏返った。

 裏返る音は小さく、しかし確かだった。確かさは、間の真ん中に置かれる。

 四拍目のふりで、三拍目に。

 抜かず、怒らず、戻れるように。

 彼が置いていったのは、それだけだった。

 それだけで、町は少しだけ強く、やさしくなった。

 白は降参の白ではない。帰り道の白だ。

 その白の下で、今日も誰かが構え、誰かが置き、誰かが帰る。

 名は伏せられ、剣は変わる。

 しかし、背筋は――変わらない。

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