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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第三話 京の町と幕府の影(後編)

 京の空は噂で燃えやすい。

 ある午後、暑気が石畳に溜まり、蝉が堰を切ったように鳴いたころ、壬生寺の境内に駆け足の影が差した。若い足。砂を蹴る勢いに、ただ事ではないことが分かる。

 「御所が炎上――」

 言葉はそこまでで事切れ、若者は膝に手を突き、肩で息をした。

 山南は筆を止め、目だけで土方を見る。

 土方は頷き、手短に“拍”を刻む。「誤報なら二刻で消える。だが、誤報でも拍は崩れる。近藤さん」

 「うむ」

 近藤は帯を締め直す。「二手に分かれる。俺と永倉は内裏北へ。副長は西から、沖田は南の警護の顔を見て回れ。――“御用の顔”を互いに確認だ」


 走る。

 夏の京は、汗の塩で掌が滑る。

 四条の角を曲がったところで、木屋町の行司が肩で風を切って現れ、声を潜めた。「燃えてへん。堺町御門の外で小競り合い。火の手見えたのは、提灯の群れや」

 「群れ?」

 「人が集まれば、光も集まる。光が集まれば、火やと思う人が出る。拍が乱れたら、火はなくても走る」

 近藤は礼を言い、さらに北へ足を伸ばした。

 御所の堀端は、いつもより人が多く、だが静けさは保たれている。会津の槍が日を照り返し、警固の列が呼吸を合わせて立っている。火はない。

 「誤報だ」

 永倉が息を吐く。「誤報でも、町はひっくり返る」

 「ひっくり返さないために、俺たちがいる」

 近藤は頷き、踵を返した。「戻る。誤報を“紙”にして、拍を戻す」


 八木家では、土方が既に机を囲んでいた。

 山南が文案を読み上げる。「――『本日、内裏炎上の風聞あるも事実無く、騒擾を禁ず。御用の顔は変わらず。巡察は通常の拍にて行うべし』」

 「短く、広く、早く」

 土方が合いの手を入れる。「角は丸めろ。笑いを誘う言葉は捨てる。笑いは拍を壊す」

 「回す順は?」

 井上が問う。

 「北から反時計」

 土方の指先が地図をなぞる。「噂は南から上がった。上がった方向と逆回転で、落ち着かせる」

 山南は筆を走らせ、印判を置く。

 近藤は紙束を抱え、皆に割り振った。「今夜のうちに半ば回す。残りは明けてすぐ」


 夜、祇園の格子の向こうで、年寄が紙を受け取る。

 「はあ、ええ、ええ……“御用の顔は変わらず”。この一行が助かります」

 「顔は顔です」

 土方は小さく笑う。「化粧直しは必要だが、顔そのものは変えない」

 年寄は頷き、紙を裏返して灯の下で透かした。紙の繊維の向こうに、墨の芯が見えたのかもしれない。

 「これやったら、客の声も抑えられまっしゃろ」

 「声は抑えすぎると裏道に回る」

 土方の言は、ゆっくり立ちのぼる湯気のように、角を作らない。

 「裏道の声は、裏道の灯で見る。正面の灯を消さなければ、裏も迷わん」

 年寄は笑って見送った。灯の色が、さっきより柔らかい。


     *


 翌朝――。

 朝餉のあと、門前に町人の列ができた。回状への返礼と、昨夜の巡察への礼、そして“ついで”の訴え。

 「夜回りで戸を三度叩きはる。二度にしておくれやす。子がびくともせんように」

 「見回りが角を急ぐので、足音だけが先に来る。心臓に悪い」

 「紙の言葉は難しおす。『御用の顔』て何どす?」

 口々の声に、近藤は縁に出て、膝を折った。「二度叩く。足音は拍を揃える。御用の顔は、ええと――」

 「官の看板とちゃいますの?」

 茶屋の主が首をかしげる。

 近藤は少し考えて、答えを探しながら言った。「官の看板ほど強くはない。けれど、町の看板ほど弱くもない。――“ここに責任を置きます”という顔です」

 沈黙。

 やがて、誰かがうん、と言った。

 「責任を置く顔」

 「そうどすなあ」

 「分かりやすい」

 笑いが薄く広がる。嘲りではない笑いだ。

 土方が背から添える。「“御用の顔”は、紙でできている。紙は破れる。破れたら、こちらが直す。直す手間を惜しまない顔――それが『御用の顔』」

 茶屋の主は深く頭を下げた。「それなら、うちらも顔を洗ろて待っときます」

 縁の空気が少し軽くなり、列はゆっくりとほどけていった。


 列の後ろに、ひとりだけ視線の強い男がいた。

 「壬生の浪士は、会津の犬やて、昨夜わいが言いはったんは撤回せえへん」

 言い切ったのち、男は続けた。「せやけど、責任の顔や言わはるなら、見せてもろうか」

 近藤は男の目を受け止め、頷いた。「見せます。見せ続けます」

 男は鼻を鳴らし、踵を返した。

 沖田はその背を見送り、袖の中に小さな咳を落とす。乾いた音。

 土方は耳だけでそれを聞き、言葉を飲み込んだ。


     *


 午後、木屋町で小さな騒ぎがあった。

 祇園の若い衆と、別筋の若者の押し合い。大した傷はないが、声が荒い。

 浪士組が割って入り、土方が“拍”を置く。「歩く。口を閉じる。名を残す」

 名――。

 名を問われると、人は“恥ずかしさ”を思い出す。恥ずかしさは、争いの火に水をかける。

 名を記した紙を山南が回収すると、若者たちは解散した。

 「名は、刀より効く夜がある」

 山南がつぶやく。

 「名は、明日も残るからな」

 土方は頷き、紙束を懐に押し込んだ。「刀の斬り口は今夜の血だけ残す。名は、明日の背筋を折ることもある」


 夕暮れ、八木家に戻ると、会津からの急使が待っていた。

 「今宵、上洛の某藩士らが祇園にて会合の由。浪士組、周辺の拍を整えるべし」

 拍を整える――。

 言外に“騒がせるな”がある。

 土方は頷き、即座に段取りを切る。「表の見張りは角二つ外。内の視線は格子の影。声は届くが、姿は届かぬ場所に」

 近藤は若い者に目を配る。「斬らない構え。走らない足。息を浅く」

 沖田は笑って掌を開き、若者の肩を軽く叩いた。「拍を聞いて。焦ったら、僕を見る。僕が笑っていたら、まだ大丈夫」

 その笑顔が、夜の端に小さく灯った。


 祇園の座は、何事もなく散じた。

 散じた後が、いつも危うい。

 裏路地に、侮りの言葉が落ち、侮りを拾った誰かが投げ返す。

 原田がいきり立つ肩を押さえ、永倉が笑いで場を滑らせ、井上が地味だが確かな“止め”になった。

 「御用の顔の中で、誰も血を流してへん。それで今夜はええやろ」

 行司が言い、土方が軽く頭を下げる。

 「紙を回す」

 それが夜の終わりの合図になっていた。


     *


 日が進むごとに、紙は厚くなり、拍は揃い、名は少しずつ地に座り始めた。

 だが、厚い紙の束の間に、薄い破れ目がある。

 破れ目――“御用の顔”の縁に、誰かが意図して作る目立たない裂け目。そこから冷たい風が入る。

 ある朝、祇園の年寄がそっと耳打ちした。「紙の写しに、偽りが混ざってますえ。条目の字がひとつ違う。“火は紙の後”が“火は紙の前”になってました」

土方は目を閉じ、一度だけ頷いた。「写しの道で、誰かが手を入れた」

 「誰やろ」

 「名を急ぐ者」

 短いやり取りの後、土方は机に向かい、写しの道を一本増やした。

 「“紙の筋”を二重にする。片方が破れても、もう片方が通る」

 山南が補筆し、近藤が声に出して読んだ。「――『紙の筋を重ね、破れ目を見つけ次第、座に晒す』」

 晒す、という語は強いが、乱暴ではない。晒す場所が“座”である限り、筋は立つ。


 その日の午後、沖田は庭で“斬らない構え”をつけ、若い者の肩の余計な力を抜いて回った。

 「斬るのは簡単です。簡単は危ない」

 「簡単?」

 「簡単な道はすぐ癖になります。癖になった斬りは、鈍る」

 若者は頷いたが、頷く速さに若さが残る。

 沖田は笑ってみせ、ふいに視線を遠くに投げた。

 遠く、壬生の外れの空に、薄い雲が一枚、裂け目のようにかかっている。

 笑みが少しだけ揺れ、袖の中に咳が沈んだ。

 土方がその揺れを横目に見、何も言わなかった。言葉は、順番を待っていた。


     *


 夜。

 小雨が障子をやわらかく叩く。

 近藤は座敷に皆を集め、短く言った。「立場を、立てる。『壬生浪士組』から、ひとつ先へ」

 静かなざわめき。

 「名か」

 永倉が問う。

 「名は、紙の上で立てる」

 山南が筆を持ち、紙を広げる。「『局中申合書』――おさめるの字を使う」

 土方が頷く。「内を局め、外に顔を持つ。――“法度”は、まだ言わん。言えば、紙が先に立ちすぎる」

 近藤は、胸の奥の熱を言葉に変えた。「俺たちは、江戸から来た“若い剣”じゃない。京の町を歩いて、紙に筋を置いて、拍を刻んできた“組”だ。名を自分で選び、自分で責任を負う。旗はまだなくとも、心に一字を持つ」

 「一字」

 井上が反芻する。

「旗は布に一字、心は胸に一字」

 近藤は笑った。「その字が何かは、まだ言わない。言えば試される」

 土方の目が細く笑んだ。

 “誠”の音だけが、誰の口にも上らなかった。上げないことで、皆が同じ文字を心の裏に貼った。


 紙は、その夜のうちに形になった。

 『局中申合書(草案)』

 一、御用の顔の内において、私闘・賭博・乱妨狼藉これを禁ず。

 一、巡察は拍を以て行い、合図を違うべからず。

 一、町における火は紙の後、木は水の後、刀は最後。

 一、内における不始末は座にて定め、軽重三段に処す。

 一、名は紙に記し、名なき申立ては座に入れず。

 末尾に、近藤・土方・山南の三つの名が並んだ。

 「字が立った」

 山南が静かに言い、印が落ちる。

 印の赤は、血ではない。だが、血の代わりに立ち続ける色だった。


     *


 翌日から、申合書は“顔の内”で効きはじめた。

 祇園の座は、少しだけ早く散じ、木屋町の笑いは、少しだけ低くなり、島原の裏道は、少しだけ明るくなった。

 少しだけ――。

 その“少し”を積むことが、組の呼吸だった。

 町人の目は、恐れの奥に“計る目”を宿すようになった。

 計る目は、怒りより厄介だ。だが、話が通じる目でもある。

 「責任の顔、見えてきましたえ」

 茶屋の主が笑い、女将が「拍が分かる」と頷く。

 「拍が分かれば、次の拍が待てます」

 近藤が返す。「待てる町は、強い」


 強さの影には、いつも翳りが落ちる。

 夜更け、沖田はひとりで庭に立ち、吐く息の白さを見た。

 夏の名残がまだあるのに、息が白い気がした。

 錯覚だ、と笑ってみせる。

 咳が袖を叩き、薄い紅が滲んだ。

 「総司」

 背から土方の声。

 「はい」

 「“斬らない構え”を続けるのは、お前の役目だ」

 「続けます」

 「続けるには、息が要る」

 短いやり取り。

 沈黙の中に、承知と、祈りと、まだ言わない不安が重なっている。

 土方は余計な言を足さず、廊の影へ静かに戻った。


     *


 秋の入り、壬生の風は一段冷たくなった。

 巡察路の銀杏が黄ばみはじめ、祇園の灯は早く灯る。

 町の噂は相変わらず燃えやすく、だが、以前ほど激しくは跳ねない。“御用の顔”に塗り重ねた紙が、火の粉の半分を吸い取る。

 その夜、会津の目付が静かに言った。「壬生の名は、京で通るようになった。良い意味でも、悪い意味でも」

 近藤は頷く。「良い意味は仕事で増やす。悪い意味は、紙で薄める」

 「紙で薄まらぬ夜は?」

 「刀で、最後に」

 土方の答えは変わらない。「順番を違えぬ限り、隊は折れない」

 目付は短く笑った。「武家の言い草より、商家の算盤に近い。――それが、今の京には合う」


 座が散じたあと、山南は文机で筆を置いた。

 「“局中申合書”の草案、明日には清書としよう」

 「字の位置は?」

 土方が問う。

 「“御用の顔”を冒頭に置く。顔が崩れたら、すべてが崩れる」

 土方はうなずく。「罰の条は最後に。最後に置けば、読む者はそこまで辿り着く」

 近藤はそのやり取りを聞きながら、縁に出て夜風を吸いこんだ。

 胸の奥に、旗の布目が少しずつ織り上がっていくのを感じる。

 まだ掲げない。掲げない旗は、心の中で風を受け、折れない。


     *


 そして――。

 ある夜、壬生の空気が一段と重く、音が近い気配がした。

 八木家の門前に、見慣れぬ影が立つ。

 「夜分……失礼」

 声は低く、抑えられている。

 水戸言葉の芯を、わずかに含む。

 土方は扇の骨を畳むような目で相手を量り、近藤に視線を送った。

 「用件は?」

 「芹沢様が……」

 影は言いよどみ、周囲の闇を気にした。「“御用の顔”の座で、話があると」

 近藤は深く息を吸い、吐く。「座を明日、持つ。今夜は帰れ」

 「今夜、でなければ」

 影の声の裏に、焦りと侮りと、第三の何かが混じっていた。

 土方は一歩踏み出した。「“拍”を外す話は、聞かない」

 影は、やや長い沈黙ののち、踵を返した。

 足音が遠ざかるにつれて、空気の重さが少しだけ戻る。

 戻った重さを、近藤は胸に沈めた。

 ――紙で斬れる夜と、斬れない夜の境が、目の前まで来ている。

 それでも、順番は守る。

 順番を守ったうえで、最後に刀を置く場所を、いまから選ぶ。

 「勇さん」

 土方の声。

 「うむ」

 「明日の座は、顔を合わせることが目的じゃない。――顔を“決める”」

 近藤は頷いた。

 「決める。ここから先、俺たちは“浪士”の名で立たない。“組”の名で立つ」

 「名は?」

 「まだ言わない」

 微笑。

 言葉は試される。

 試されるまえに、筋を置く。

 筋は紙で、拍は声で、最後が刀で。

 それが、壬生の“立場”の作り方だった。


     *


 夜更け。

 沖田は縁に座り、庭の暗さを見つめた。

遠くで犬が一声鳴き、すぐにまた静けさが戻る。

 彼は掌を胸に当て、拍を数える。

 拍は揃っている。

 拍が揃っているのに、胸の奥に小さな砂の粒のような違和が残る。

 息を吸う。吐く。

 咳は、出ない。

 出ないことが、かえって彼を不安にした。

 「総司」

 背から、近藤の静かな声。

 「はい」

 「明日、座で“斬らない構え”を見せてくれ。言葉の刃が交わるとき、刀の構えが座を落ち着かせる」

 沖田は笑って頷いた。「拍を保ちます」

 「頼む」

 近藤は一瞬だけ目を細めた。

 笑えば“まだ大丈夫”と若い者に伝える役。

 笑うために、どれだけ息がいるのか。

 彼はそれを知っている。

 知っていて、頼む。


     *


 この夜を境に、“影”は輪郭を濃くする。

 尊王攘夷の旗と、公武合体の札と、会津の槍の影。

 芹沢鴨の笑いと、紙の筋の裂け目。

 町人の計る目と、侮りの澄んだ目。

 それらがひとつの座に集まり、顔を決め、拍を合わせるか――

 浪士組は、そこに“立場”を置かねばならない。旗の布の前に、紙の束で台座を築く。

 紙で斬れないものがあるなら、最後に刀で押す。

 だが、押すのは最後。

 最後の前に、できることを、すべてやる。

 土方は“局中申合書(草案)”の条に小さく筆を入れた。

 ――『旗は心にあり。布に出すは、座の後。』

 山南が目で読み、無言でうなずく。

 近藤は声を整え、胸の奥の字を、まだ言葉にしない。


 京の町は、今日も別の匂いを漂わせる。

 味噌、鰻、酒、煤、雨、そして血。

 その匂いを吸い込みながら、浪士組は歩く。

 紙を重ね、拍を刻み、刀を最後に。

 名は、もうすぐ布にも現れる。

 その前夜――“御用の顔”の座で、誰がどこに座り、誰がどの沈黙を守るか。

 それが、組の命運を決める。

 嵐は、まだ来ない。

 しかし、湿りはもう十分だ。

 足下の紙が、重さに耐えられるかどうか――

 それを試す夜が、静かに、こちらへ歩いて来る。


(第三話・了)

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