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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第37話 市街の炎、民と兵の狭間

 戦いは、市街に及んだ。

 箱館の町家は火を浴び、黒い煙が通りを覆う。瓦の落ちる音、泣き叫ぶ声、駆ける馬の蹄。音が重なり、重なったところから順に色が失われていく。赤だけが残り、あとは灰に寄る。

 戦は軍だけのものではなく、町の命を呑み込む。湯気の出る鍋、乾いた布団、吊るされた洗濯物、戸口の草履。そういうものが、音もなく“戦”に編み込まれる。


 土方は市中に自ら出た。

 「子どもを先に。荷は後だ。列を乱すな」

 命令は冷たく聞こえる。だが冷たさが秩序を守った。

 飴屋の子が、棒の先に白い布を結んで振る。白は降参の白ではない。動線の白だ。白が揺れるたび、人の流れがほんの少しだけ曲がり、曲がった縁に余白ができ、余白が転倒を防いだ。

 女たちは戸口に「順番」の札を残した。表に「順番」、裏に「手順」と下手な字。下手な字は、読む時に丁寧を呼ぶ。丁寧は争いを遅らせ、遅れた争いは、たいてい忘れられる。


 弁天台場は港の守りの要であり、そこに新政府軍の砲が集中した。

 鉄の雨が降り、石垣が崩れ、砲兵が次々に倒れる。

 なお残った者は縄で砲を支え、轆轤で角度を変え、最後まで撃ち続けた。砲身は重く、重いものは、少し撫でると素直になるが、撫でる手の温度がいる。冬に覚えた温度が、春に役立った。

 土方は台場を視察し、兵の手に自ら水筒を置く。「撃てる限り撃て。撃てなくなったら退け。死ぬな、生きろ」

 言葉は短いほど長く残る。残った言葉が、背中の矢の芯になった。


 市街では別の地獄が広がる。家を失った民は路地にあふれ、飯を求め、子を抱えて泣く。

 新選組の生き残りが護衛を買って出る。兵力を割れば前線は薄くなる。

 永倉が歯噛みして言う。「副長、町を守るなら戦は負ける。戦を守るなら町は焼ける」

 土方は答えた。「両方を半分守る。それが答えだ」

 半分守るとは、半分失うことでもある。だが、どちらも捨てぬという姿勢こそが“誠”の芯だった。兵はその背を見て従い、民はその声を聞いて、わずかに安心を取り戻した。


 一本木の手前で、火の粉が雪のように舞った。

 原田が槍の柄で拍を打つ。「今日の風は、歌いたがる」

 「歌わせるのは角度だ」土方が応じる。

 角度は数であり、呼吸でもある。呼吸が合えば、数は素直になる。

 隊の背後で、子どもが泣いた。市助が一瞬だけ振り向き、旗を肩にかけて手近の桶を押す。桶は軽く、軽いものは、重い働きをすることがある。

 「お母さん、こっち」

 飴屋の子が白を振る。白は余白を作る。余白は、守りたいものを通すための形だ。


 弁天台場に戻る。砲架の木が割れかけ、縄が鳴る。

 「轆轤、半回し」

 「はっ」

 砲声が低く鳴り、港の水面が短く震え、震えた水に空の火の色が一呼吸だけ映る。

 倒れた砲員の手に、土方は布をあてた。「指は十本。おまえも十本。十本で二十本。無くしたら十九本。――だから今、押さえろ」

 砲員は笑って、笑い終える前に涙をひと滴だけ落とした。火薬の匂いに混ざる塩は、人を正気へ戻す。


 市街の路地では、別の戦があった。

 ――飯がない

 ――水がない

 ――行き先がない

 短い言葉が、短い呼吸のまま地面に落ちる。拾い上げるのは、兵の手ではない。隣に並んだ女の手、通りがかりの大工の手、商人の手。

 「鍋を貸してくれ」

 「薪ならある」

「順番だ。順番の札を見ろ」

 札が一枚、二枚、柱にかかる。札は紙だが、柱より長持ちする言葉がある。

 市助が「間の札」を路地の入口に差し、「ここからここまで、言葉を置かない」と言う。言わないことで守れる余白がある。余白は、怒りを遅らせる。遅れた怒りは、たいてい消える。


 夜。

 燃え残る市街の中で、兵と民が一緒に火を消す。柄杓を持つ女の横で、槍を持つ兵が泥をかぶる。

 子が泣き止むと、兵が変な顔をして見せる。変な顔は、戦の中でいちばんやさしい芸だ。芸は、体力がいる。体力がいるやさしさは、長持ちする。

 永倉が泥だらけの顔で笑った。「副長、俺は役者になれるかな」

 「ならなくていい。笑わせられれば、それで役は足りる」

 笑いは短く、火の粉の間を通って梁へ吸い込まれた。古い梁は笑いをよく覚える。翌朝の堪えに効くからだ。


 港のほうで短い叫び。

 「水だ、水を」

 桶が空で返り、空の音が硬い石に響く。石は冷たいが、冷たさは嘘をつかない。

 榎本の伝令が駆け、「台場、三刻は持つ」と伝えた。

 土方は頷き、市街の地図に指を置く。「半分守る」

 「半分、捨てる?」永倉が問う。

 「捨てない。譲る。譲った分、返してもらう。返してもらうための手順を、今ここで作る」

 譲りは敗けではない。譲りは、明日のための余白だ。余白をつくるには、今日の力を半分、熱の外へ置く必要がある。


 深夜、五稜郭の角は風を集め、風の中から必要な音だけを残した。

 「三拍目で返せ」

 「四拍目のふりで、三拍目に置け」

 合図の稽古は戦の只中でも続く。鳴らさない音の扱いが、鳴らす音を賢くする。

 市助の旗が霧に滲む。滲んだ丸は距離を測るのに向いている。距離が見えると、手順は短くなる。短くなった手順は、折れにくい。


 明け方、弁天台場に再び鉄の雨。

 石垣が崩れ、砲員の肩が沈む。沈んだ肩を、後ろの肩が押し上げる。

 「今」

 土方の声に、砲が鳴り、敵の列に穴が開き、穴はすぐに埋まる。数は、穴を埋めるためにある。

 埋まった直後、彼は言う。「戻れるようにしろ」

 戻り道は命令ではできない。準備がつくる。準備がなければ、命令は恨みになる。恨みは次の矢を鈍らせる。


 市街の奥、寺の境内が避難所になった。

 僧が鐘を鳴らさない。鳴らさない鐘は、よく響く。

 「子どもを真ん中に。老人は日陰に。鍋は東側。火の粉は西から来る」

 土方の声は短い。短い声は、遠くへ行く。

 母親のひとりが問う。「うち、戻ってもいいですか」

 「戻るなら白を持て。白は、人の隙間を守る。戻る道で一度振れ。帰りの道で二度振れ」

 「わかりました」

 女は白を結び、胸で結び目を確かめ、石畳を走る。白は軽い。軽いものは、重い働きをする。


 路地の出口で、商人が言い争っていた。

 「うちは先に積んだ、だから先だ」

 「俺が先に並んだ、だから先だ」

 指が早口になり、早口は誤差を呼ぶ。

 土方が間に手を差し入れ、爪の内側の煤を指摘する。「爪の煤が数を濁らせる。水で落として、もう一度数えろ」

 水が煤を薄い墨に変え、墨は紙に字を作る。字は下手でもかまわない。下手な字は、丁寧を呼ぶ。

 「煤が墨になると、字が書ける」

 市助が同じ言葉を繰り返し、短い笑いが起きて、すぐに沈んだ。沈んだ笑いは、会議を進める。


 昼前、一本木の土塁がまた削られた。

 原田が血のにじむ前腕で槍を担ぎ、「ここは歌わない」と言う。

 「歌は冷めてからでいい」土方が返す。

 「冷めるまでは」

 「鍋の蓋を押さえろ」

 笑いが泥に落ち、泥は笑いを汚さずに飲み込んだ。


 午後、風向きが変わる。

 七重浜の砂は黒く、海は低く鳴る。低い音は体に近い。体に近い音は、恐れを疲労に変える。疲労は、恐れより扱いやすい。

 榎本の使いが来て、「なお持つ」と言う。

 「持つは持つが、永くは持たぬ」土方は石壁に数字を当てる。「弾薬、いよいよ一日半。食糧、三日。兵、半数を割る」

 沈黙が石の目地に入り込み、冷えた。冷えた沈黙は、熱の手前で役に立つ。熱は、遅い矢を焼かない温度に保たれる。


 夕刻。

 市街の東で火の手が伸び、避難の列が乱れる。

 「白を振れ。間の札を二枚」

 市助が走る。

 路地の突き当たりで、母親が立ち止まり、白を一度振り、もう一度振る。白は、降参の白ではない。帰り道の白だ。

 子が泣く。兵が変な顔をする。子が笑う。笑いが列を細く早くする。細く早い列は、火より速い。

 永倉が歯噛みし、「副長、これで前が薄くなる」

 「半分守る」

 「半分、失う」

 「半分を残す」

 永倉は頷き、刀の鯉口を押し上げ、ぎりぎり抜かない位置で止めた。抜かない刀ほど長い。長い刀は、間の中で働く。


 夜、弁天台場の砲は数を減らし、残った砲は、沈黙の合間に短い雷を落とした。

 荒井が石炭に布をかけ、「拗ねています」と言う。

 「拗ねるものには、先に謝れ。火をつけてから説得するな」

 短い笑い。笑いは資源だ。正しい場所で使うと、疲れを薄める。

 土方は火床をひっくり返し、裏の赤を表に返し、革袋から「順番」の札を出して地図の端に置き、すぐ戻した。端は、最初に濡れ、最初に乾く。端を守れば、真ん中が働ける。


 深夜の前、寺の境内で、女たちが鍋を囲む。

 「宮古はどうだったの」

 問うて、すぐに首を振る。「いい、言わなくていい」

 言わないことは嘘ではない。言わないことは治療だ。治る側の準備が整うまで待つ、手の温度。

 火の上で湯が鳴り、米がふくらみ、塩が溶ける。塩の匂いは、正気を呼ぶ。

 子が寝息を立てる。眠りは見えない番兵だ。眠りの上手い町は、朝に強い。


 明け方、雨が短く降り、砲煙を低いところへ落とした。

 星はまだ見えない。見えないが、どこにあるかは忘れていない。忘れないことが敗けではない。忘れないことが、明日を厳しくする。

 土方は石垣の上で炎を見て、呟いた。「守るものは、まだ残っている」

 炎は答えない。答えないもののそばで、人は答え方を練る。練った答えは、短い命令になる。「子どもを先に。荷は後だ。列を乱すな」

 命令は冷たく聞こえる。だが冷たさは、体温を保つために必要な外皮だ。外皮がなければ、芯が焼ける。


 その朝、一本木関門へ敵の列が太く差し込み、弁天台場では砲架を縄で縛り直し、七重浜では砂嚢がもう一段積まれた。

 市助は旗を握る指の皹に布の繊維を食い込ませながら、腹で数を読んだ。呼吸、足音、影の速度。数は口に出さない。口に出すと、風に散る。

 「三、五、八……」

 彼は冬営の夜学で聞いた「遅い矢」を思い出していた。いま振る旗も、どこかで刺さる。刺さるとき、音はしない。音のしない勝ち方を、彼は覚えたい。


 昼、港の角で、商人が炊き出しの順番を巡って再び揉める。

 「札を見ろ」土方が近づく。

 「俺の札が先だ」

 「端が濡れて二枚に見える」

 水で端を乾かす。乾かされた端は、真ん中を守る。

 「乾かす間に、怒りも乾く」

 乾いた怒りは、二度と燃えない。


 午後遅く、弁天台場から一本、まっすぐな煙が上がる。

 永倉がそれを見て、短く吐く。「長くは持たねえ」

 「持つは持つが、永くは持たぬ」

 数字は嘘を許さない。許さない数字に、余白を添えるのが人の仕事だ。

 土方は台場へ走り、水筒を配り、砲座の背で倒れた兵の髪から灰を払う。

 「撃てる限り撃て。撃てなくなったら退け。死ぬな、生きろ」

 兵の目が一度だけ濡れ、濡れた目の奥で、短い言葉が芯になる。芯は、背中の矢を支える。


 夕刻、市街の西で大火。

 白い布が揺れ、子どもが走り、女が鍋を抱え、老人が札を握る。

 兵は槍を置き、桶を持ち、泥をかぶる。

 その並びに、戦の意味がある。

 半分守る。半分失う。だが、どちらも捨てない。

 半分の背中を、町に見せる。見せた背中の長さが、明日の歌の長さになる。


 夜が降りきると、歌がひとつ、生まれた。

 誰の名も傷つけず、色を言わず、ただ門の数を数え、角の順番を数え、白の振り方を数える歌。

 ――ひとつ、ふたつ、みっつ。

 数える歌は祈りに似ている。祈りは空白ではない。丁寧に並べ直した順番のことだ。

 梁は歌を覚え、火床は赤を覚え、紙は指の圧を覚え、町は白の使い道を覚える。覚えたものは、明日を少しだけ正しくする。正しくする分だけ、悲しみは来る。悲しみは、必要の中に含めておけ。含めた悲しみは、折れにくい。


 深夜、土方は石垣の上で炎を眺め、かすかに笑った。

 「守るものは、まだ残っている」

 笑いは短く、炎に飲まれず、風の背に乗って梁へ消えた。

 やがて彼は、白い布を結び直す飴屋の子に近づき、布の端を指で整えた。

 「端は、最初に濡れ、最初に乾く。端を守れ」

 「はい」

 子の手が少し震え、震えがすぐ止まる。止めたのは勇気ではない。手順だ。手順は、子どもの手でも持てる。


 夜の底。

 火の粉がまだ舞い、砲は遠くで息をひそめ、海の低い音が石を撫でる。

 土方は手袋を外し、革袋から「順番」の札を取り出して、胸の内側に当てた。紙のぬくもりが、皮に移る。

 順番は、春に崩すために持っている。崩すとき、崩す前の形を忘れないために。

 彼は札を戻し、短く息を吐いた。

 迎える。迎え撃つ。なお、動く。

 紙の上で、土の上で、人の背中の上で。


 明け方の気配がわずかに漂い、砲煙の名残が低いところに降りる。星はまだ見えない。見えないが、ある。

 土方は炎の向こうに、明日、譲らせた分を取り返すための“間”を思い描いた。

 半分守る。それは、半分の約束を積むことだ。半分の約束は、裏切りにくい。

 「行くぞ」

 声は短く、しかし長く残った。

 返事は少なく、しかし足音は多かった。多い足音の中に、子どもの軽い靴音が混じり、老いた草履の擦る音が混じり、槍の柄が小さく鳴った。

 戦は残酷だが、その狭間に確かに人の温もりはあった。温もりは、戦の勝ち負けの外側で、町を支え続ける。

 土方はその温度を、背中の矢の芯に重ねた。芯があれば、矢は迷わない。

 ――守るものは、まだ残っている。

 炎は答えず、夜の空を朱に染め続けた。それでも、彼は知っていた。答えは、いつも火ではなく、明け方の皮膚の冷たさに宿るのだと。

 冷たさは、体を起こす。起きた体は、短く動ける。短く動く分だけ、長く残る。

 半分を守る。半分を譲る。半分を、明日に預ける。

 それが今夜の“誠”であり、星の下でできる、いちばん人間らしいやり方だった。

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