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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第35話 宮古湾、鉄の影と白い旗

 春。海はまだ冷たいが、風は少しだけ柔らいだ。揺れる舷側に指を置くと、冬の塩が乾いた膜になっていて、指先に紙やすりのようなざらつきが残る。息を吸えば、焼いた鉄の匂いと、海藻がほどける匂いと、石炭の煤が混じり合って、胸の奥でひとつの線に結ばれた。


 榎本の艦隊は、宮古湾で奇襲を掛ける策を立てていた。敵の主力――鉄甲艦「甲鉄」を奪い取るか、少なくとも行動不能にして海の主導権を取り戻す。無謀と呼ぶ声がなかったわけではない。だが、無謀と大胆の境は、準備が引く。土方は上陸戦の用意と、失敗した場合の退路、補給の線を淡々と引いた。「海で外すなら、陸で割れ」。それは独り言のようで、火床の灰に掠れるようでもあり、しかし周りの者には、はっきりした手順の音として聞こえた。


 夜明け前、艦は湾口へ忍び寄った。蒸気は息を潜め、帆は半分だけ膨らむ。旗色を偽る囮、接舷斬込の主力、離れて支援に回る砲列――紙の上ではそれらの矢が滑らかに擦れ合っていたが、海の風は紙の風と違う。潮の流れ、汽罐の癖、信号の行き違い、運の偏り。距離が一寸ずれれば、時間が一拍ずれる。一拍ずれれば、合わせたはずの鼓動が別の曲になる。


 甲板に立つ土方は、海の匂いを胸に入れて、吐いた。彼が乗る船の板は薄く、波の一つで軋む。だが目は静かだった。静けさは、怯えを消すためではない。怯えが働く場所を間違えないためだ。

 「三番、手旗。返しは遅らせるな」

 「はっ」

 手旗を掲げる若い兵は、市助だった。冬営の夜学で字より先に合図を覚えた男だ。白黒の布が薄明の空に描く四角は、まだ夜の余白を抱きしめていて、光の方が旗に寄り添ってくる。


 薄明。宮古の湾内に敵影。甲鉄は黒く、低い。装甲に潮が光り、甲板上には新式の砲が横を向いて眠っているように見えた。眠りは嘘だ。眠っているように見せるのが、眠らせる側のやり方だ。

 こちらの艦が白旗を掲げて近づく。風は向かい、波は小さい。距離計の数字が息を呑むたびに短くなってゆく。白旗の布地は、潮で重い。重さは安心を装う。

 「今だ」誰かが言った。言葉は短い方が命令に向いている。

 白旗が落ち、縄梯子が放られる。槍の柄で拍を取る原田の手が、ほんの少し長く止まる。止まる間に、人は跳ぶ。白羽織が黒い鉄へ飛び移り、刃が鳴る。

 甲鉄の甲板に銃火が走った。装甲は火を吐き、こちらの板は火で裂ける。火花が海に落ち、細い雨になって消える。


 斬り込んだ者はいた。肩に刀傷の古い瘢痕がある永倉は、笑っていたのかもしれない。笑っているようにしか見えない顔で、黒い鉄の上を二歩、三歩と進んだ。そこから先の二歩は、鉄の言い分だった。鉄は、歩幅を短くする。足の裏の皮は、鉄の上では生き物ではなくなる。

 榴弾が甲板を削り、破片が空中で鳴った。煙が視界を奪い、誰かの掛け声が、別の誰かの咳に紛れる。咳も合図だ。合図は、意図だけではない。

 土方はその瞬間、陸戦の癖を抑えた。押せる時に押し通すのが陸の快楽だ。だが海は、押す間に向きを変える。無理押しは潰走に直結する。彼は隊の“戻り道”を確保する合図を出した。手旗が短く折られ、舟艇が紐のように動く。

 「戻れ」ではない。「戻れるようにしろ」だ。戻るのは命令でできても、戻れるのは準備が作る。準備がなければ、命令は恨みになる。恨みは次の矢を鈍らせる。


 銃火の隙間をすり抜けるように、海の色がある。黒く、深く、まだ冬の低い温度を抱いている。市助は旗を振りながら、海の色を一瞬だけ見た。冬営の夜学で習った「遅い矢」の話が、彼の頭のどこかで灯る。今振っている旗も、遅い矢かもしれない。今は効かず、春のどこかで刺さる矢。

 甲鉄の艦首がわずかに向きを変えた。鉄は、わずかで足りる。わずかの向きで、こちらの動線がほどける。縄梯子に乗っていた者が一人、手を離した。落ちる音はしない。海は落下音を許さない。

 土方は背筋だけが熱くなるのを感じた。熱は怒りではない。熱は、線を引く時に必要な体温だ。彼はもう一度、合図を出した。

 「戻り道、手前を切る」

 舟艇の一つが逆の向きに漕ぎ出し、海上に控えの小さな余白をつくった。余白に風が入り、追い風がわずかに返る。返った風は、負けている側の味方をする時がある。


 甲鉄は奪えなかった。白旗の布は、海水を吸って重くなり、板の上で灰色に沈黙した。こちらの主力は、壊滅を免れたが、甲板のあちこちに、見えない空洞が生まれていた。空洞はすぐには音を立てない。春の陽に晒され、夜の塩で締め付けられ、ある日、ふいに鳴る。

 退く。北へ。舵の手が震えないように、舷側の塗装の剥げを凝視し続ける。剥げは、剥げただけの歴史ではなく、剥げを残すために耐えた時間の印だ。

 「退く道が生きていることは、戦の半分を勝ったに等しい」

 土方は声に出さなかったが、周りの者はそういう顔をしていた。顔は、いつも言葉の三手前を歩く。


 五稜郭に戻ると、土方は敗を騒がなかった。港の整備を続け、砲座の角度を調整し、陸の線を濃くする。「海が利かぬ時は、陸で稼ぐ」。彼はそう言って、冬営で積んだ遅い矢の束を、春の風に向け直した。

 榎本は短い時間だけ沈黙し、そのあとで海図を巻き直した。巻き直す手つきに、怒りはなかった。紙は怒りを吸わない。紙は手順を吸う。

 兵は頷いた。宮古の失敗を歌にはしなかった。歌にするには、まだ熱すぎた。歌は冷めた鍋に合う。鍋がまだ沸いている間は、蓋を押さえるしかない。


 春の光は強くなり、山の雪は端から剥がれ、川の流れが速くなる。速くなるのは敵の準備も同じだ。甲鉄は奪えなかった。だが、こちらの心は奪われていない。

 土方は星形の角に立ち、北風と南風の境目に身を置いた。五稜郭の角は、風の声を集める。集められた声の中から必要な音だけを拾うのは、音楽家の仕事に似ている。

 「来る。ならば、迎える。迎え撃ったのちも、なお動く」

 彼は独り言のように言い、地図に指を置いた。指の腹に残る海の塩が、地図の白に淡く滲む。地図に付いた現実の塩は、たいてい正しい。


 その日の夕刻、港で小さな揉め事が起こった。宮古から戻った荷の計算で、札の読み違いがあったのだ。商人は顔を赤くし、兵は疲れで言葉が固くなる。固い言葉同士はぶつかって割れる。

 土方は二人の間に立ち、指で札の端を整えた。「端が濡れている。濡れた端は、二枚に見える」

 商人は目を瞬いた。「では」

 「乾かして、もう一度数えろ。乾かす間に、怒りも乾く」

 数え直すと、数は合った。怒りは数より遅れて消えた。遅れて消えた怒りは、二度と戻らない。

 市助が脇で見ていて、口の中だけで「端」と繰り返した。彼は端が好きだ。端は、最初に冷え、最初に温かくなる。


 夜、火床の上に地図を広げると、紙はまた呼吸した。紙は生き物だ。温めると甘い音を立て、冷やすと背を丸める。

 原田が槍の柄で軽く拍を打つ。「負け惜しみじゃねえが、あの鉄の皮は、槍じゃ歌わねえ」

 「歌わせるのは槍の仕事じゃない。角度の仕事だ」土方が答える。

 「角度で歌うってのは、楽だな」

 「楽じゃない。楽に見える手順ほど、手間がいる」

 永倉が笑った。「おまえの言葉は、いつも杯にやさしい」

 「杯を割らないための言葉だけが、次の朝に残る」

 笑いは短く、火床の熱が会話の縁を焦がして、おだやかな色にした。


 市助は少し離れて地図を見ていた。矢印の頭が、ほんのわずかに海へ出ていて、尾が陸の石垣にかかっている。彼は矢印を背中だと思う癖を、まだやめていなかった。

 「背中を長くするには、前へ倒れる覚悟がいる」

 土方が言うと、市助は黙って頷いた。頷く音はしない。頷きは、相槌の中でもっとも静かな合図だ。

 「宮古で、俺は旗を振りながら、海を見ちまいました」

 「見ていい。見て、覚えろ。覚えた海は、次の陸で役に立つ」

 「次の陸」

 「海で外したら、陸で割る。割るために、今から刻む線は、細いほどいい」

 市助は口を結び、墨で地図の端に細い印をつけた。印は点にしか見えない。点を侮ると、線は腐る。点を信じると、線は芯を持つ。


 翌朝から、五稜郭の城外に小さな砲座が増え始めた。土方が指で示し、榎本が海の角度を言い、荒井が石炭の機嫌をとる。陸と海の論理が、星形の隅や外郭の砂地で交ざり合い、時に反発し、やがて折り合う。折り合いの場所には、いつも人の気配があった。人がいる場所は、言葉が柔らかくなる。

 「ここに土嚢。ここは空けて、余白にする」

 「余白?」と問う兵に、土方は雪の地形を描いたときの調子で言う。「何も置かない場所だ。何も置かないから、敵が置く。置いた形で、敵を知る」

 余白は恐れに似ている。恐れは、よく働く。正しい場所に置いた恐れは、裏切らない。


 港では、女たちが衣の継ぎを繕い、子どもが薪を運ぶ。木工は車輪の縁を締め、鍛冶は金床を叩く。市場の乾魚と干菜は、春の湿りを吸って少し柔らかい。紙札はゆっくりだが確かに町を回る。

 宮古の話を人はしたがらず、しかし知りたがった。知りたがるのは、明日のためだ。歌はまだ生まれない。歌が生まれるまで、言葉は鍋の蓋に張り付いて湯気を弾く。

 市助は飴屋の前で立ち止まり、飴の筋に光が入るのを、ひと呼吸だけ見た。光は筋を選ばない。筋が、光を選ぶ。


 数日後、雪代を含んだ川が音を大きくし始めた頃、宮古で負った傷のうち、見えるものは治り、見えないものは形を取り始めた。見えない傷は、形を取るまで気づかれない。気づかれてからが、治るまでの道のりだ。

 土方は巡察の足を止めて、子どもが描いた白い旗の絵を見た。棒の先の四角は、色が塗られていない。その白は、降参の白ではなく、余白の白だ。

「これ、宮古の?」

 子どもは首を振る。「約束の」

 土方は笑った。白は空白ではない。約束のための手続きだ。手続きは、祈りによく似ている。

 彼は絵を撫でず、目だけで触った。紙は体温を覚える。覚えた体温は、別の朝の判断に混ざる。混ざった判断は、早口にならない。


 夜更け、火床の炭をひっくり返す。赤は裏側にもある。宮古で剝がれた心の端を、裏の赤が静かに支える。

 「甲鉄」土方は名を短く言った。名は短く、影は長い。長い影は、真昼でも消えない。

 「名を短く言うのは、怖れを小さくするためか?」永倉が問う。

 「違う。手順を短くするためだ。長い名は、戦場で噛む」

 「噛んだら?」

 「呑み込む。呑み込めなければ、吐き出す。吐き出した名は、拾うな」

 永倉は笑い、火に匙をかざした。火は匙を舐め、金属の匂いが甘くなる。


 その夜の終わり、土方は一人で石垣に上った。海は遠いが、音は近い。春の海は、低いところで動く。低さは油断を呼ぶ。

 彼は革袋から「順番」の札を取り出し、親指で端を撫でてから、元に戻した。順番は崩すために持っている。崩すときに、崩す前の形を忘れないために。

 「迎える。迎え撃ったのちも、なお動く」

 独り言は、星の尖りを渡り、夜の布の裏側へ吸い込まれた。布の裏側には、灰色の朝が畳まれている。畳んだ朝は、間違えなければきれいに広がる。


 翌朝、城外の土を刻む作業の合間に、原田が空を見た。「今日は南が長い」

 「南が長い日ほど、北が早い」土方は答え、砲座の測量杭を小さく打ち直した。杭はまっすぐを嫌う。土の中の石に当たれば、躊躇う。躊躇いを見抜くのが、指の仕事だ。

 市助はその横で、両手をこすってから、手旗の布を畳んだ。布は波に似て、折り目を覚える。覚えた折り目は、風の中で自分から開く。

 「隊長」

 「なんだ」

 「歌が、まだ出ません」

 「いい。歌は、冷めてからでいい」

 「冷めるまでは」

 「鍋の蓋を押さえろ。湯がこぼれる」

 市助は笑って、蓋の縁に布をかけた。布は湯気を吸い、指が少しやけどをした。やけどは、覚えやすい学だ。覚えやすい学は、手に近い。


 宮古の朝焼けを思い出す者は多かったが、誰も同じ色を言わなかった。色は人の背中で変わる。背中は、その人の速度に従って見え方を変える。

 土方は背筋だけをまっすぐにし、肩の力を抜いた。「線を引く。細く、長く、見えぬところへ」

 誰にともなく言って、彼は板戸を押した。板戸は、冬のあいだに覚えたきしみ方で、春を迎える音をたてた。音は短く、しかし残った。


 港のロープは朝日に湿りを取り戻し、兵の髭の霜はほどけて落ちた。木工が戸口を開け、鍛冶が火を起こし、仕立屋が窓を拭く。女たちは継ぎをまた繕い、子どもが薪を運ぶ。市場には乾魚と干菜が並び、紙札はゆっくりと、確かに町を回る。

 甲鉄の影は長い。長い影は、踏んではいけない場所を教える。影の縁に沿って歩けば、足元の石が見える。

 土方は振り向かない。背中の矢は、前に倒れる覚悟の分だけ伸びる。


 歌はまだ生まれない。代わりに、短い祈りが増えた。祈りは言葉ではなく、手順の数え方のことだ。

 五稜郭の角を風が撫で、星形の影が地面の上でわずかに移動する。影の移動は、時計より正直だ。

 土方は角に立ち、北風と南風の境目の薄さを確かめた。薄いものは、破れやすいが、繕いやすい。繕いの技は、冬営で磨いた。

 「来る。ならば、迎える」

 迎え撃ったのちも、なお動く。そのための線は、今ここから引かれる。紙の上で、土の上で、人の背中の上で。

 白い旗はもう、降参の印ではない。宮古で重く濡れた白は、いま、余白として息をしている。余白は、こちらが選ぶ。選ぶ余白の広さで、春の戦いの形が決まる。


 ――海で外すなら、陸で割れ。


 土方の言葉は、朝の冷たさを一口含んで、五稜郭の梁に絡み、そこに留まった。梁は古く、古いものは言葉をよく憶える。憶えられた言葉は、次の合図のとき、梁の影から静かに降りてくる。

 そのときまで、彼らは手を動かし続ける。土を積み、角度を測り、端を乾かし、旗を畳む。

 遅い矢は、もう放たれている。どこに刺さるかを決めるのは、春の風ではない。こちらの手順だ。手順の中に、祈りが含まれている限り、矢は迷わない。

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