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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第三話 京の町と幕府の影(前編)

 京は日によって、同じ町筋でも別の匂いを漂わせる。

 晴れた朝の三条は味噌の蒸気の甘さ、正午の四条は炙り鰻の脂、夕暮れの木屋町は煤と酒の湿り、夜半の壬生は土の冷たさ――そこに、見えないもう一つの匂いが重なる。血の匂いだ。

 尊王攘夷、佐幕、公武合体。言葉は旗印であるはずなのに、旗の裾から滴るのはいつも同じ色で、同じ温度だった。


 壬生の八木家に屯所を置いてから、浪士組は“御用の顔”を与えられ、巡察路を紙に描いて歩いた。

 紙は増える。回状、申合書、巡察記録、引き渡し証、祇園・木屋町・島原の行司への控――紙の厚みは隊の重心で、重くなるほど揺れにくくなる。

 だが、紙で斬れないものがある。京そのものの呼吸だ。


 その朝、近藤勇は庭の椿に落ちる露の粒を見つめていた。

 山南が文机から顔を上げる。「今朝の早飛脚。御所の北で、要人の駕籠が斬りつけられた由。襲ったのは“天誅組”を名乗る連中」

 「名は便利だな」

 土方が乾いた声で言う。「名を言えば、刃物が理屈になる」

 近藤は立ち上がり、帯をきつく結び直した。「理屈は理屈、血は血だ。俺たちが抑える。拍を刻め」

 拍――合図の刻みだ。

 沖田総司は頷き、咳をひとつ袖に飲み込んだ。笑顔は薄いが、眼に曇りはない。「今日は北回りの番ですね。僕が先手を取ります」

 「頼む」

 近藤は短く言い、山南の机の端を指す。「記録を始めてくれ。会津への文言はいつもの調子で――“御預かりの顔の内”を強調して」


 浪士組は二組に分かれた。近藤・永倉・原田の列は北へ、土方・沖田・井上の列は西へ。

 京の町は、道筋ごとに旗の影が違う。長州の袖、薩摩の裾、会津の袴。袖と裾と袴の間に、町人が挟まって暮らしている。

 小間物屋の老婆が、道の端で小さく会釈した。視線は足元へ落ち、口の端だけが動く。「お疲れさんどす」

 礼は礼だ。けれど、そこに宿るかすかな軽蔑――“武装した若者たちが、どこまで町を理解しているのか”への半歩ほどの疑念――は、近藤の胸に残る。

 「目を見ない“挨拶”は、恐れと諦めの間だ」

 耳元で土方の声がした気がして、近藤は小さく笑った。まだ彼とは別の列にいる。だが、隊が同じ拍で呼吸していれば、言葉は離れていても届く。


 北へ上がると、昨日の血が石の目に黒く残っていた。

 永倉がしゃがみ込み、指で触れた。「乾いて薄い。朝方の斬りだな」

 「斬り口は?」

 「浅い。見せるための斬り。殺す気なら深く入る」

 原田が唇を歪める。「見せしめに“天誅”の札でも下げたか」

 近藤は周囲を見渡し、軒の影の誰かと目を合わせる。

 「見た者はいるか」

 沈黙。

 沈黙は罪ではない。だが、沈黙の数が増えると、町は病む。

 やがて、若い魚売りが指先で辻を示した。「夜半、覆面が三。駕籠の前で札を掲げ、声が荒かった。走ると、向こうで笑いがした」

 「向こう?」

 「長州はんの宿の並び」

 同じ町の中に、別々の顔がいくつもある。その境界線は地図の上には描かれない。足で覚えるしかない線だ。


 近藤は札を拾い上げる。乱れた行草で“天誅”。線の勢いは若く、墨の含みが浅い。

 「筆が軽い。夜に急いで書いた字だ」

 永倉が鼻を鳴らす。「字の軽さで斬られてはたまらん」

 「軽い字ほど人を煽る」

 近藤は札を懐に入れた。「山南に預ける。紙には紙で返す」


     *


 西回りの列では、土方が路地の陰で立ち止まっていた。

 「副長」

 沖田が寄る。

 「ここだ。匂いが残っている」

 土方は指で空を切る。香の残りと、火薬の微かな痕、湿った藁――昨夜、ここで誰かが集まり、誰かが命令し、誰かが笑った。

 路地の奥から少女が二人、桶を抱えて出てきた。彼女らは下を向いたまま、足を速める。

 「待ちなさい」

 土方が呼ぶと、一人が立ち止まり、もう一人が振り返らずに曲がった。

 「昨日の夜、ここで何があった」

 土方の声は強くない。強い声は、人を黙らせる。

 少女は数えるように瞬きをして、袖を握った。「男は三。ひとりは笑いはる。ひとりは黙っている。もうひとりは刀を置いて、言葉を置いて帰りはった」

 「言葉?」

 「侍の言い草やあらしません。商いの言い草。“今夜はここまで”“明日はここ”」

 土方は頷いた。理屈の形をした暴力――それが京の“影”のやり口だ。

 「ありがとう」

 土方は懐から小さな紙包みを出して渡した。白い塩。

 「これは?」

 「塩だ。紙に包んでおくと、湿りを吸ってくれる。泣く時は、塩を舐めると泣きやすくなる」

 少女は一瞬だけ笑い、深く頭を下げた。

 土方は歩き出す。「総司、今の“言葉”を山南に」

 「はい」

 沖田は声を弾ませたが、その端に微かな翳りが乗った。ここにいる者たちは皆、泣く理由を持っている。だが、泣かずに歩く順番を割り当てられている。


     *


 昼過ぎ、二列は八木家に戻り、紙と口で午前の息を揃えた。

 山南は札を受け取り、筆致と紙質、墨の質を見比べる。「安い紙です。水に弱く、冬場は割れます。書いた者は京の書肆に通い慣れていない。旅の者でしょう」

 「長州の宿の並びだと?」

 永倉が眉を吊り上げる。

 「名を決めつけるのは早い」

 土方が制した。「“影”は、よく人の名を借りる」

 近藤は机の角に手を置く。「ともかく、俺たちの名前はまだ地に足がついていない。名を立てる。町の目に“乱暴”ではなく“御用”として映る名だ」

 「旗の一字が要る」

 永倉が低く言い、原田が頷く。

 山南は視線だけで二人を諫め、筆を走らせた。「旗はまだ早い。順番です。まず仕事を積む。旗は最後に立てる方が、倒れにくい」

 「倒れた旗は、畳んで持てばいい」

 近藤が笑うと、土方も目の隅で笑った。「畳む役は、重いがな」


 午後の巡察は、紙の配り仕事が中心だった。

 祇園の行司へ、昨夜の記録と今後の取り決めの控。

 木屋町の問屋仲間へ、夜間の見張りの“見えない強化”のお願い。

 島原の年寄へ、御用の顔の内での秩序維持と、破れた場合の“順番”の説明。

 「紙で斬る」

 土方は淡々と繰り返し、山南は文語の角を指先で丸くした。角が尖れば、読み手は紙を閉じる。丸ければ、手の中に留まる。

 「言葉は刀の上」

 山南が低く言い、土方は「刀は鞘に」と返す。

 近藤は、そのやり取りを聞き流しながら、胸の中で別の拍を刻んだ。名を立てる――己らの立場を確立する。紙と刀と声で、同じ拍を作る。


     *


 夕刻。壬生寺の鐘が鳴る頃、沖田が庭で稽古をつけていた。

 若い隊士が二人、息を切らす。

 「抜く前に、構えで半分決まります」

沖田の声は柔らかい。「構えは“拍”です。拍を外さない」

 「拍?」

 「味方と呼吸が合っているかどうか、です」

 彼は剣先をわずかに揺らし、笑った。「拍が合っていれば、斬らずに済むことが増える」

 若い者は頷いたが、目には“斬りたい”という若さの光が宿る。

 沖田も、若い。剣は正直だ。斬って覚えることがある。それでも彼は、斬らずに済ませられる場を探そうとする。

 咳が、短く喉を叩いた。袖で受け止める。紅は薄い。まだ、薄い。

 庭の隅でそれを見ていた土方は、視線を一度だけ落とし、それから何も言わずに去った。順番――この言葉を、土方は何度でも胸の奥で反芻する。彼が引き受ける“避けられぬ暴れ”の順番は、少しずつ近づいてくる。近づく音は、紙を重ねる音に紛れて聞こえにくい。


     *


 その夜、木屋町の外れで、また火が上がった。

 燃え方は派手で、被害は小さい――“見せしめの火”。

 近藤は駆け、土方は風下に回り、沖田は裏手の細い路地に入る。

 原田は桶を担ぎ、永倉は人垣を押しやり、井上は子を抱いて母の手へ渡す。

 火は、速やかに鎮まった。

 残ったのは、焦げた木の匂いと、走り去る足音の余韻と、黙り込む町人の背の丸さ。

 「見た者は?」

 近藤が訊くと、誰も答えない。

 沈黙の上に、軽蔑が薄く乗っている。

 ――“お前たちは“御用”を口にするが、結局は刀を持った若者だろう”

 近藤はその目を受け止め、深く頭を下げた。「明日、紙を回す。すぐに」

 言葉は短い。短さの中に、彼は“責任”という手触りを握り込む。声で拍を刻むのは、そのためだ。


 八木家に戻ると、山南が既に文案を整えていた。

 「火急の回状――“見せしめの火”を禁ず。御用の顔の中で、火は“言葉”でしか焚かない」

 「言葉で焚く火が、一番難しい」

 土方が言い、印判を押す。「だから紙にする」

 近藤は回状の束を受け取り、頷いた。「今夜のうちに半分配る。残りは明けてすぐだ」

 「勇さん」

 井上が言う。「町の目が冷えてきました」

「冷える目は、熱で溶かすと湯気になる」

 近藤は笑った。「湯気は、拍を乱す。だから、紙で温める。少しずつ。焦らない」

 土方の目がわずかに細くなる。焦らない――それは、最も難しい命令だ。焦らない間にも、誰かが血を流す。だが、焦って動けば、もっと血が流れる。

 順番。拍。紙。

 浪士組の“理”が、ゆっくりと肉付けされていく。


     *


 翌日、会津からの目付が屯所を訪れた。

 「昨今、御所近辺の騒擾、増加の由。取締は強く、しかし穏当に」

 強く、しかし穏当に。

 相反する二つの命。

 土方は言った。「強さは手段、穏当は手続。手続が先、手段が後――順番を守る限り、やれます」

 「順番?」

 目付が眉を動かす。

 山南が助け舟を出した。「紙で先に線を引き、声で拍を刻み、最後に刀で押さえる。順を逆にすれば、反発が先に立ちます」

 目付は頷いた。「それで、名は立つか」

 近藤が答える。「名は、立てます。立てねば、ここでの仕事は砂の上の楼と同じ」

 目付の視線が、近藤の額の汗に止まり、やがてふっと緩んだ。「任せる」


     *


 午後、沖田はひとりで壬生寺の回廊を歩いた。

 僧の読経が遠くで続く。

 木の香り。畳のきしみ。

 回廊の角で、彼は足を止めた。

 笑顔は保ったまま、胸の奥にふいに涼しい風が吹き込んだ気がした。朝よりも体が軽い。軽さは剣を速くする。だが、風は時に、不意打ちのように温度を奪う。

 「総司」

 背中から、土方の声。

 「はい」

 「咳は?」

 「今日は、出ません」

 嘘ではない。だが、まっすぐでもない。

 土方は追及しなかった。「今夜は、若い者に“構え”だけ教えてくれ。斬らない構えだ」

沖田は頷いた。「斬らない構えの稽古が、一番疲れます」

 「だから、今夜やる」

 土方の言葉は短く、拍に合わせて落ちた。


     *


 夜。

 祇園の灯が再び揺れた。

 今度は火ではない。言葉が飛んだ。

 「壬生の浪士は、会津の犬」

 誰かが吐き捨て、誰かが笑い、誰かが黙った。

 侮りは、威の裏返し。

 侮りが増えれば、威は削れる。威が削れれば、別の刃が顔を出す。

 近藤はその流れを読み、足を速めた。「今夜、座を持つ。町の顔役を三人。祇園、木屋町、島原――皆を同じ座に」

 土方が頷く。「“顔”を合わせる。別々の顔のまま言葉を投げ合うと、拍が乱れる」

 山南が紙を用意した。座の次第、席次、文言。

 沖田は若い者を連れ、先に祇園へ走った。

 「総司」

 土方が呼ぶ。「斬らないぞ」

 沖田は振り返らずに手を上げ、笑って見せた。


 座は、八木家の座敷で開かれた。

 年季の入った行司と、実直そうな問屋仲間と、言葉の角を隠さない島原の年寄。

 茶が置かれ、菓子が置かれ、土方が申合書の改稿案を“顔の外”に置く。

 近藤は声を静かに上げた。「我らは、町を守る。刀でなく、順番で守る」

 「順番?」

 行司が首を傾げる。

 「子どもと女が先、男は後。火は最後、紙が先。怒りは紙で受けて、刀では返さない。これを“拍”にします」

 笑いが起きるかと思ったが、起きなかった。

 人は、本当に切羽詰まると、筋の通った話を笑わない。

 土方が続けた。「座の外で決めたことは、座の外で崩れる。だから今、座で決める。祇園も木屋町も島原も、同じ拍で息をする」

 年寄が顎をなで、問屋が掌を擦り、行司が短く頷いた。

 「紙に、しておくれやす」

 「します」

 山南が即座に返し、その場で条目を清書した。

 “夜の見張りは見えずに。乱妨狼藉は名を以て禁ず。御用の顔の中の争いは、まず座に。火は紙の後、木は水の後、刀は最後”

 拍が、紙になった。


     *


 座が散じた後、短い雨が降った。

 廊下で雨を眺めていると、沖田がそっと近づいた。

 「近藤さん」

 「うん」

 「さっき、祇園の角で、僕を“犬”と言った男がいました。目は澄んでいました」

 「澄んだ目で侮る者は、強い」

 近藤は空を仰ぐ。「その目に、俺たちの“拍”が写るまで、歩くしかない」

 土方が横から言葉を添える。「澄んだ目は、筋が見える。筋が見える者には、紙が効く」

 沖田は笑って頷いたが、笑いはすぐに薄れた。「紙で斬れない夜が、ありますよ」

 土方は目を細める。「ある。その夜は、俺が斬る。――順番だ」


     *


 夜半、巡察の合図。

 木屋町の端で、覆面の影が走る。

 沖田が先に影を切り、永倉が後ろを塞ぎ、原田が横を折る。

 刃は抜かない。足音と気配で“囲う”。

 土方が前に出る。「名を」

 影は沈黙。

 「名が言えぬなら、紙にする」

 土方が懐を叩くと、影は笑った。「紙は食えぬ」

 「腹が減るなら、働け」

 近藤の声が低く落ちた。「御用の顔の中で」

 影は踵を返し、夜に溶けた。

 逃がしたのではない。囲いが効いたのだ。

 囲いは、紙と声と足で作る。刀は最後。

 最後まで行かずに済んだ夜は、良い夜だ。


     *


 明け方、八木家の縁側で、近藤は息を吐いた。

 「俺たちの名、少しは地に着いたか」

 山南が文机から顔を上げる。「紙は読まれ始めています。笑いは減りました。軽蔑は、まだ」

 「軽蔑は最後まで残る」

 土方が言う。「残った軽蔑は、仕事の量で薄めるしかない」

 「量で?」

「量だ。質の前に量。質は量の後にしか来ない」

 近藤は頷き、額の汗を拭った。「量をやろう。拍を崩さずに」

 沖田が縁の端に座り、朝の空気を胸に入れる。

 「今日も、斬らない構えの稽古をします」

 「頼む」

 近藤は笑った。「斬らないで済む夜が、もう一夜でも増えれば、それでいい」


 京の町は、今日も別の匂いを漂わせる。

 味噌、炙り鰻、酒、煤、雨、そして血。

 その匂いを吸いながら、浪士組は歩く。

 紙を重ね、声で拍を刻み、刀を最後に置く。

 立場――己らの立場は、旗ではなく手続きで立ち始めた。

 旗の一字が風を受けるその前に、紙の束が風の向きを読む。

 嵐はまだ来ない。だが、湿りは十分だ。

 京の呼吸に合わせて、自分たちの呼吸を整える。

 生き残りの鍵は、刀ではなく、組である。

 土方は胸中で繰り返す。組にする。乱暴でも乱戦でもない。組にする。

 それができれば、名はあとから付いてくる。

 名は、紙の上にも、町の口にも、旗の布にも。


 ――そして、次の夜、紙では切れない何かが、静かに姿を現す。

 それが何であるかは、まだ言葉にならない。

 言葉にならないものに、どれだけ近づけるか。

 拍を乱さずに。

 順番を守ったままに。

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