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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第二十話 終わりの鼓動

 雨はやみ、京の空は薄い雲の層をかぶっていた。

 高瀬川の水は、昨夜までの噂を洗い流すふりをして、実のところ何ひとつ持ち去ってはくれない。油小路の夜から幾日もしないうちに、町はまた呼吸を取り戻したが、その呼吸は以前よりも浅く、速い。行灯の灯が早く落ち、茶屋の笑いは低く、辻々で交わされる声は短くなった。

 恐怖の組――そう呼ばれる音が、京の屋根の瓦と瓦の隙間で増幅される。恐怖は剣の側にだけ宿るのではない。恐怖は、人の腹にも宿り、時の拍にも宿る。拍が速くなれば、誤りも早くなる。早まる誤りを、法度の紙で叩き落とす――土方歳三は、そういう仕事の手つきになっていた。


 西本願寺の広間は、朝の湿りをまだ床板に含んでいた。

 土方は机に向かい、紙を重ねる。「御用留」「出入帳」「見回日記」「兵具目録」「銃砲実地演習心得」。どの紙にも、入口と出口を描く癖がある。入口の番、出口の選択、番の増減、詩の禁止、印の先行――それらはもはや、墨で書かずとも、彼の指先に住みついていた。

 「……鉄砲の手入れが増えた」

 彼は、筆を止めて言った。

 「剣は最後。銃は最後の前」

 銃が増えれば、剣が鈍るわけではない。だが、剣の歌は短くなる。短い歌は重い。重い歌は、最後の棒になる。


 永倉新八は、素振りの数を増やしていた。

 振るたび、拍が合う。拍が合えば、心は戻る。戻る場所がまだあるうちは、剣は折れない。

 「――総司」

 庭の片隅で、沖田総司が子ども相手に木刀を構えている。袖に沈める咳は日に日に深くなるのに、動きは逆に細かく、軽く、速くなる。

 「半歩。呼吸を狭めて、置く」

 沖田は笑い、子らの背に手を当てる。

 「強く斬らなくていいよ。強く斬らないために、間を覚える。間は怖くない。怖いのは、間を見失うこと」

 子どもらの笑いが、薄い雲を押し広げる。笑いは拍。拍は心臓。心臓が温かい限り、旗は折れない。だが、旗の布目には、目に見えない毛羽立ちが増えていた。


 町の噂は、敵よりも速い。

 「新選組、油の路で旧友を斬った」

「誠の旗で、誠を斬る」

 言葉は刃ではないが、向きを変える。向きが変われば、順番が変わる。順番が変われば、旗は折れる。折らせぬために、土方は補条を増やし、番を増やし、笑いの数を減らした。笑いが減れば、紙は増える。紙が増えれば、灯は遅くなる。


 そこへ、江戸からの知らせが届く。

 近藤勇、取り立てらる。

 御目見以上、名実ともに武士の列。朝の広間に読み上げられた文言は、京ことばの端正さで耳に入り、胸の奥で別の音を立てた。

 「局長」

 井上源三郎が、結び目を固くし直して頭を下げる。

 近藤は、いつになくゆっくり頷いた。

 「……ありがたきこと」

 その声は誇りで温かく、同時に、長い道の埃でかすれていた。

 「これで、誠は旗の外にも立てる」

 言葉は正しい。正しいが、重い。重いほど、棒はしなる。

 土方は、そのしなりを紙の重みで受けた。

 「名は器。器が増せば、水は増える。――漏れる口も増える」


 昼、短い祝の座が開かれた。

 盃は小さく、言葉はさらに小さい。

 永倉は酔えない酒を口に運び、原田は肩を回して笑いを一つ置いた。斎藤は、いつも通りに薄い目で「おめでとうございます」とだけ言った。

 沖田は縁側から顔を見せ、盃の代わりに木刀で軽く拍を打つ。

 「局長。誠の字は、刀の上に言、と書きます。今日からは、その言に……もう少し太い筆を」

 「太く書くには、太い腹が要る」

 近藤は笑い、盃を傾けた。

 太い腹は、人の数で作るしかない。人は、疲れる。疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。毛羽立ちは、指ではならせる。風では、裂けに変わる。


 夕刻。

 西本願寺の境内を横切る風が冷たくなるほど、紙の上の文字は黒く沈んだ。

 薩摩と長州の名は、もはや紙の外に出て、京の風そのものになっている。薩長同盟という四字は、居並ぶ柱の木目にまで滲み、触れれば指が黒くなるほどだった。

 「この先、倒幕は隠れなくなる」

 土方は言う。

 「剣を見せるまで、文で押す。文の押し合いに、われらの剣をどう置くか」

 「置かねばならぬ場所に、置く」

 近藤は短く返す。その短さの裏に、ようやく得た名の重みがある。

 「置く、とは、抜かぬ、ということか」

 永倉が呟き、原田は笑いで追い払う。

 「抜くときが来たら、抜くさ」


 夜更け。

 土方は独り、屯所の庭に立った。

 木の皮の匂い、湿り気を含んだ土の匂い、遠い炊き出しの米の匂い、どれもかつてと同じなのに、混うところが違う。

 空を仰げば、星はある。だが、どれも遠い。遠い光は、道にはなるが、手にはならない。

 「誠は星のようなものだ」

 彼は低く呟いた。

 「掴めぬが、見失えば道をなくす」

 星は、雲で隠れる。雲は風で動く。風は、入口に当たる。入口は、番が要る。――番の数をどう配るか。彼の眼は、星ではなく、番の影を数えていた。


 そのころ、京の町では、幕府そのものが、音を立てざるを得ない梁のように軋み始めていた。

 老中の名はいくつも紙に上がっては消え、会議の場所が変わり、公家衆の座に出入りする足音が増える。

 「江戸からの指示は遅い」

 山南敬助がいなくなって久しい座で、井上が素直に言った。

 「遅い指示は、邪魔だ」

 土方は即答した。「遅いほど、紙が増える」

 紙が増えると、剣の歌は短くなる。短い剣には、短い覚悟が要る。

 覚悟の短さは、命の速さだ。

 命が速く失われる世では、名が軽く生まれる。軽い名は、すぐ噂になる。噂は風だ。風は入口を広げ、出口を増やす。出口は選ぶためにある。選ばせる座は、刃よりも鋭い。


 翌朝、鉄砲の稽古が始まった。

 銃を握る手に、刀の癖が残る。刀は押し、銃は据える。据えた肩が、最初の一発で痛む。痛みは、覚えに変わる。

「狙いは点。点の手前に呼吸を置く」

 斎藤一が淡々と指示する。

 「引き金は、押すな。這うように引け」

 永倉は「なんだその言い回しは」と笑うが、言い回しの違いに、時代の角度の違いが混じっているのを誰もが感じていた。

「銃は、刀を遅くする道具じゃねえ」

 原田が言い切り、槍の長さを意識させるように肩を開いた。

 「刀を、最後に置くための余白だ」

 余白があれば、詩は入り込む。詩は座を濡らす。濡れすぎれば紙は乾かず、印は遅れる。――土方は、稽古場の端でその余白を見張っていた。


 沖田は、稽古を見ながら、時折、袖に咳を沈めた。

 血が混じることが増えた。

 しかし、彼が剣を抜く瞬間だけは、病が彼の身体から離れていく。光のように、冴え冴えと離れていく。

 「総司、休め」

 井上が言い、結び目を直す。

 「休むのも稽古です」

 沖田は笑って半歩を示す。

 半歩は、斬らない構えの核。入口の風を受け流す角度。

 「僕らの旗は、細いです」

 沖田は子どもらに言う。

 「細い旗は、風を歌に変えられる。太い旗は、歌にならない。だから、細いまま、折れないように」


 日が傾くたび、薩長の影は長く伸びた。

 薩摩の金は文へ変わり、長州の言は兵へ変わる。変換の速度が、もはや剣の速度を上回っていた。

 「政が、戦を用意する。戦が、政を決める」

 土方は短く言い、紙の束を肩に乗せるように抱え直した。

 「われらは、政と戦の隙間を埋める棒だ」

 棒は、旗を支える。

 支える棒は、折れるためにあるのではない。

 折れぬために、しなる。

 しなりは美しい。美しいものほど裂けやすい。裂けを防ぐには、結び目が要る。結び目を増やすには、人が要る。人は、疲れる。


 その夜、西本願寺から不動堂方面へ、段取りだけの地図が引かれた。

 予備屯所、兵糧の積み替え、弾薬の隠し場所、撤退路と再集結点。

 「逃げ支度か」

 永倉が笑うと、土方は片方の眉だけを上げた。

 「移動の支度だ。旗は、同じところに立ち続けるために動く」

 「詩だな」

 原田が茶化す。

 「詩は座を濡らす」

 土方は乾いた口調で返し、印を先に押した。

 印の赤は血ではない。が、血の代わりに立つ覚悟の色だった。


 近藤は新しい名の器に、誠の字を少し太く書くことを覚えようとしていた。

 会津への返書、江戸への伺い、寺社への礼状、町方への触れ、どの紙にも、これまで以上に顔の温度を載せる。

 「名は器。器は顔をよく見せる」

 伊東甲子太郎の言が、皮肉にも役に立った。

 「だが器は、揺れる。揺れる器を持つ腕がいる」

 その腕になろうとして、彼は肩を凝らせた。肩の凝りを揉みほぐすための笑いが、以前より少なかった。


 秋が浅く訪れ、乾いた葉が回廊を転がる。

 噂はさらに太り、紙は重くなり、剣の歌は短くなり、銃の音は遠くから増えた。

 「鳥羽」

 山崎が耳で拾ってきた地名を置く。

 「伏見」

 さらに一つ乗る。

 土方の指が、紙の上で線を引いた。

 西から東へ、川の流れに逆らわない線。

 「決戦が来る」

 言葉は短いほど、棒に近い。棒は、旗を支える。

 支える棒は、影を持つ。

影は、土方の横顔に濃く落ち始めていた。


 夜毎、新たな隊士が出入りする。

 江戸からの若い顔、各地の浪人、名の知れすぎた者、名の知られぬ者。

 規律が増え、罰が増え、賞は減る。

 賞が減るほど、組は締まる。

 締まるほど、温度が要る。

 温度は、沖田の笑い、井上の結び、永倉の悪態、原田の肩、斎藤の薄い目、島田の広い背、山崎の耳、――そして、近藤の太い腹と土方の冷たい水。

 それらが足りない夜、誠の旗は、目に見えぬところで細くなった。


 ある夕べ、稽古場の片隅で、沖田が倒れた。

 倒れ方は静かだった。

 井上がすぐ抱え起こし、袖に沈めた咳を胸に戻してやる。

 「総司、医者を」

 「医者は、詩をくれるだけです」

 沖田は笑い、息の隙間で言葉を滑らせた。

「詩は、座を……濡らします」

 「濡れる前に、休め」

 土方の声が短く落ちる。

 短い命令ほど、棒に近い。棒は、旗を支える。

 支えられて、沖田は目を閉じた。

 閉じた目の奥で、彼は剣を抜いた。

 抜いた剣は、光だった。

 光は、掴めない。だが、道にはなる。


 その頃、町はまた別の噂でざわめく。

 「大政奉還」

 四字が廊の陰で囁かれ、茶屋の卓で伏せ口にされ、蔵屋敷の帳場で帳尻を狂わせる。

 「政を返したからといって、戦が返るわけではない」

 土方は紙を重ね、印を押し、槍の見せ方を減らし、銃の据え方を増やし、剣の歌を最後へさらに押しやった。

 「政が名を変え、旗が場を変える。だが道は変わらない」

 道は進んでいる。

 足は、その上に乗っている。

 乗っている足に、選ぶ余地は少ない。

 少ない余地の中で、選んだ半歩が、のちに大きな分かれになる。


 冬の気配が、鐘の音を細くした。

 鐘は、折れる前に鳴く木のように、遠く長く響いた。

 鳥羽・伏見の地名は、紙の上で太くなり、座の中央で重くなり、兵糧の俵に刻印のように押されていく。

 「行軍表、もう一度」

 土方が命じ、井上が結び目の数を増やし、島田が肩で通れる路地の幅を覚え直し、永倉が素振りの数をもう十本足し、斎藤が銃と刀の点の移し替えを稽古し、原田が槍の見せと押しの割合を調整する。

 沖田は、咳の数を数える。

 数えられるものは、怖くない。

 怖くないふりが、彼にはよく似合った。


 近藤は、鏡の前で新しい名の器を一度だけ確かめ、すぐに鏡を背にして紙へ戻った。

 「旗は、外に向かっても立てねばならぬが、内に立てるほうが難しい」

 土方が言う。

 「内に立てる旗は、布に出さぬ」

 井上が頷く。

 「布に出さぬ旗ほど、温度が要る」

 沖田が笑う。

 「温度は、人の胸から」

 永倉が悪態で結ぶ。

 「胸は、痛ぇ」


 夜更け、土方はもう一度、庭に立った。

 空は雲に覆われ、星の位置は想像でしか測れない。

 想像で測る星は、危うい。

 危ういほど、道をなくす。

 「誠」

 彼はその字を、心の棒に彫り直すように呟く。

「掴めぬが、見失えば道をなくす」

 風が、衣を撫で、指の骨の隙間を冷やす。

 冷えは、痛みを遅くする。

 遅くなった痛みは、長く残る。

 長く残る痛みは、覚悟の温度になる。


 やがて、前触れは、音ではなく匂いでやって来た。

 火薬と油、濡れた土と鉄、緊張した人の汗、焚き米の蒸気――それらが同じ夜に混ざるとき、戦は近い。

 「集合」

 土方の声は、棒そのものだった。

 棒は、旗を支える。

 支える棒は、折れないように、しなる。

 しなる棒の根元に、終わりの鼓動がある。

 その鼓動は、すでにどこかで鳴り始めていた。

 鼓動は、旗の布の裏で拍を刻み、紙の上で行を揺らし、胸の骨の裏で小さく跳ねる。


 「局長」

 斎藤が一歩進み、短く言う。

 「行きます」

 近藤は頷き、刀の紐を締め直し、名の器を胸に納める。

 「行く」

 「副長」

 永倉が声を絞る。

 「行く」

 土方は短い返事で刃を鞘に納め、その上から紙で包む。紙は刃の鞘。鞘は抜くためにある。抜かぬためにも、ある。

 「総司」

 井上が振り返る。

 沖田は、座の奥で半歩を示した。

 彼の半歩は、斬らない構えの核。

 核があるうちは、旗は折れない。

 沖田は笑って言った。

 「短く、戻ってきてください」

 短く、という二字は、長い道の上では祈りの形をしている。


 京の空は、重い。

 雲は低く、星は遠い。

 遠い光は、道にはなるが、手にはならない。

 道は、足の下にしかない。

 足は、今、前に出た。

 鳥羽・伏見――名はまだ声に出さない。

 名を出せば、噂が先を歩く。

 噂に先んじられる戦は、負けだ。

 だから彼らは、紙を重ね、座を整え、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れ、最後に刀を置く順番を胸に刻み、静かに足をそろえた。


 終わりは、破滅ではない。

 終わりは、形の変わり目だ。

 新選組という形が、恐怖と規律でしか保てなくなっていくのを、彼らは誰よりも知っていた。

 それでも、誠の字は、胸の棒の上で、刀の上に言と書かれ続ける。

 刀だけなら、言は死ぬ。

言だけなら、刀は錆びる。

 両方を持つために、彼らは歩く。

 歩くたびに、鼓動は速くなる。

 速くなった鼓動は、終わりの鼓動だ。

 終わりの鼓動は、始まりの拍と同じ場所で鳴る。

 同じ場所――胸の骨の裏、旗の布の裏、紙の行の裏。

 誰も見ないが、そこにこそ、道がある。


 京の夜風が、薄い雲の層を撫で、遠い光をぼやかしていく。

 土方は、もう一度だけ空を見上げ、目を閉じた。

 「誠」

 星の名ではない。

 それは、彼らが歩幅を合わせるための、拍の名だった。

 拍は揃えられた。

 あとは、道に刻むだけだ。

 翌朝、最初の足音が、東へ向かって鳴る。

 その足音のひとつひとつが、終わりの鼓動であり、次の形への拍であった。

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