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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第十九話 油小路の暗闘

 雨は上がっていたが、街はまだ濡れていた。

 石畳の目地にたまった水が、夜風に撫でられて細い皺をつくる。皺は音を持たない。だが、光を持つ。灯の届かぬ油小路の暗がりに、皺の光はかすかに震え、風の向きを描いては消える。

 慶応三年。天満屋の名が墨の黒さで記録されたその直後から、京の空気は噂を増やし、視線を硬くした。仲間を斬った組――誰かがそう言い、別の誰かが頷き、さらに別の誰かが肩をすくめた。すくめられた肩の数だけ、刀の角は鈍る。鈍った刀は、棒になって、なお旗を支える。


 西本願寺の回廊で、土方歳三は紙を指で冷やした。

 『高台寺党 残 影』――山崎烝の耳が拾ってきた細い線を、彼は点と点で繋ぎ直す。

 「油小路」

 その二字を、土方は紙の中央に小さく置き、周りを空けた。空けられた余白は、座のための空地だ。

 名→用向→座→紙→顔――最後に刀。

 順番は変えない。変えぬまま、角度だけを変える。油小路は、角度の道だ。細く曲がり、灯が少なく、風が通る。待つに向く。

 「待ち伏せは、卑怯ではない」

 土方は、声の代わりに筆でそう書き、墨を乾かした。

 「卑怯と卑劣は違う。卑劣は、順番を壊す。卑怯は、順番を守ったうえで、場を選ぶ」

 近藤勇は黙って頷いた。頷きは、棒の結び目だ。結び目が固いほど、棒は折れにくい。折れにくい棒は、重い。


 「――伊東を討つ」

 言葉が、座の中央に置かれた。

 沈黙は、同意のかたちをしている。

 永倉新八は唇を噛み、原田左之助は拳を握り、斎藤一はまぶたを半分閉じた。

 「かつての同志を、闇で」

 永倉の呟きは、誰にも届かないように短かった。

 「同志でいるのは、旗の内側に立つ者だ」

 土方は、彼の目を見ずに応えた。

 「旗の外に出た足は、もう同志ではない。――ただの敵だ」

 敵という二字は、冷たい。冷たいほど、温度を要る。温度は人から出る。他に作りようがない。


 沖田総司は、座の外の柱に寄りかかっていた。

 咳は袖に沈める術を覚え、浅い呼吸で光を受け流す。ただ、眼の底には波がある。波は音を持たない。だが、拍を持つ。

 「総司」

 近藤は一歩近づいた。「今夜は――」

 「留守ですね」

 沖田は先に言い、笑った。

 笑いは拍。拍は、隊の心臓。心臓が温かい限り、旗は折れない。

 「帰ってきたら、話を聞かせてください。できれば、短く」

 「短く話せる夜だと、よいがな」

 土方は紙を畳み、懐に押し入れた。紙は刃ではない。だが、刃の鞘になる。


     *


 油小路は、名のとおり油の記憶を持つ。

 燈芯に染みた油の匂い、桶の縁に残るねばり、行灯の障子に沈む染み――それらが夜気に溶けて、路地の底に薄く残る。

 そこで、待つ。

 永倉と原田は、横手からの出入りを塞ぎ、島田魁が肩幅を一枚増やして、横の足を崩す支度をする。

「斎藤、前を」

 土方の声は風に溶け、耳にだけ届く。

 斎藤一は、点を見た。

 点は、灯ではない。闇の中の最も濃い場所だ。濃い場所は、光のない灯の芯だ。芯を外せば、刃は空を斬る。芯を刺せば、声も出ない。

 「合図は、一拍」

 土方の指が微かに動く。

 拍を一つ置き、二つ目で閉じる。

 閉じる動作は、入口を出口に変える。

 出口が増えると、敵は散る。散らばる前に、芯を止める。


 時刻は、宴席が解ける端の頃合いだ。

 笑いが低くなり、足音が増え、声の角が丸くなる。

 「来る」

 山崎が耳で言った。

 油小路の奥から、男の声がひとつ、笑いを終わる拍で低く落ちた。

 伊東甲子太郎。

 北辰一刀流の遣い手、儒をよくし、言をもって刃を遅らせる術を知る男。

 「灯を、落とせ」

 土方の囁きが、油の匂いに交じって消えた。

 風が、路地の角を通り過ぎる。

 角を抜けた風は、背中で合図になった。


 伊東の足は、整っていた。

 整いは、拍だ。拍の揃った歩きは、隙の少ない歩きだ。

 彼は、良い座の後の人の歩き方をしていた。

 腹に温い酒を入れ、言を使い切り、返しの句を懐に残し、未来という二字を舌の奥に温める歩き。

 「――さて」

 独り言が、風にかき消される。

 そのとき、土方の指が、一拍だけ、闇で弾けた。


 刃は、最初から最後の位置にあった。

 最初の閃きは、声より早い。

 斎藤の足が前に出、刃が芯を刺しに行く。

 永倉の踏み込みは、腹で受けさせず、膝で折らせる角度だ。

 原田は槍を見せず、袖の中の短刀で横を断った。

 島田が肩で路地の幅を狭くし、尾形が背から回り込む。

 合図は、一つで足りた。二つ目の拍は、声に譲られた。

 「――貴様ら、誠を斬るのか!」

 伊東の声は、怒りで温かく、驚きで冷たかった。

 温度の混ざる声は、割れる。

 割れた声の間に、斎藤の刃が点へ落ちた。


 それでも、伊東は強い男だった。

 初太刀を受ける角度は正しく、二の太刀の間合いは短く、三の太刀を詩で遅らせる才があった。

 「誠の旗は――」

 彼は言いかけ、永倉の返しで言を呑み込み、血を吐いた。

 吐いた血は、油の匂いを薄く洗った。

 洗った匂いの上で、土方の声が低く落ちた。

 「終えろ」

 命令は短いほど、棒に近い。棒は、旗を支える。

 支える棒は、遅れて折れる。


 伊東の片膝が落ちたとき、風が方向を変えた。

 原田の袖の短刀が横を断ち、斎藤の点が深く刺さり、永倉の刃が返って骨を打つ。

 倒れる刃の重さは、骨に吸われ、畳のない路地の石に返った。

 「――誠は……誰のものだ……」

 声は、風にさらわれた。

 さらわれる声ほど、長く残る。

 斎藤は刃を引き、血の線を短くした。線は短いほど、正確だ。

 永倉は息を吐き、吐いた息で痛みを押し込め、原田は槍を持たぬ手で道を広げた。


 その瞬間、路地の端が弾けた。

 高台寺党の残り火――御陵衛士の若者らが、待つことを良しとせず、待ち伏せの外に座を開いたのだ。

 入口が増える。

増えれば、番も増える。

 「散るな、寄れ!」

 土方の声は、油小路の壁で反射して、戻ってくる。

 戻った声は、拍に変わり、足に降り、刃に乗る。

 斎藤は芯だけを見続け、永倉は腹で受けず、腰で返し、原田は見せで押し、島田は横で崩し、尾形は背へ回る。

 路地の幅は人の肩で変わる。

 肩の広さが勝ちを決める夜がある。


 「斎藤!」

 永倉の呼びかけに、返事はない。

 代わりに、斎藤の踏音が、一つ、二つ、三つ、刃の音の裏に置かれた。

 音は少ないほど、怖い。

 彼の斬りは、詩がない。詩がないから、早い。早いから、冷たい。

 冷たさは、刃の背で立つ。

 立つ刃は、倒れない。

 倒れない者は、拠になる。

 拠が一つあれば、座は崩れない。


 永倉は、痛みを顔に乗せたまま、剣を振るった。

 「くそったれの世だ」

 言葉は、刃を鈍らせることもある。

 だが今は、鈍らなかった。

 彼の言は、棒になって腕を通り、刃の芯で硬さに変わった。

 原田の槍が、ついに見えた。

 見える槍は、それだけで押す。

 押すと、道が開く。

 開いた道は、出口だ。

 出口から、敵の影が逃げた。

 逃げを追うか、座を保つか――

 土方は、躊躇わなかった。

 「追うな。座を閉じる」

 閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。


 油小路の夜は、そこで切れた。

 切れ目に、風が通って、血の匂いを薄くした。

 薄まった匂いの上で、土方は印を押した。

 『油小路之義 了』

 印の赤は血ではない。だが、血の代わりに立つ覚悟の色だ。

 覚悟の色は、指先を冷やす。

 冷えは、痛みを遅くする。

 遅くなった痛みは、長く残る。


     *


 屯所へ戻る道すがら、噂はまだ生まれていない。

 噂は、朝の光で生まれる。

 夜の間は、静けさがそれを保留にする。

 静けさの中で、土方は一度だけ空を見た。

 星は出ていなかった。

 出ていない星は、数えられない。

 数えられないものは、怖い。

 怖さは、腹で持つ。

 腹で持てるうちは、旗は折れない。


 西本願寺。

 回廊の柱が、夜露を吸って重くなっていた。

 沖田は、縁に座り、袖を膝にかけていた。

 足音で、誰が戻ったかがわかる。

 原田の足は、強い。

 永倉の足は、重い。

 斎藤の足は、薄い。

 土方の足は、止まらない。

 「――戻った」

 沖田は立とうとして、立たなかった。

 立たないのは、礼だ。

 立つのは、拍だ。

 彼は、拍を袖の中にしまい込んだ。


 座が開かれた。

 「済んだ」

 土方は、それだけ言った。

 済んだ、という言は、後を連れてくる。

 「平助は」

 永倉の声は、腹から出て、喉で折れた。

 「――もう、遠い」

 土方は、目を閉じずに言った。

 目を閉じぬ言は、硬い。

 硬さは、棒であり、刃の背だ。

「伊東は」

 斎藤が続けた。

 「点で終わった」

 点で終わるものは、戻らない。

 線にすらならない。

 ならないものは、記憶で増える。

 増えるたび、痛みが薄く広くなる。


 「これで――誠は、一つに戻った」

 土方は、棒のように言った。

 「戻らねばならなかった」

 戻すは、選ぶの別名だ。

 選ぶには、棄てるが要る。

 棄てるには、痛みが要る。

 痛みは、今ここにある。

 棒は、支える。

 支える棒は、遅れて影を落とす。

 土方の横顔に、その影があった。

 影は、人の証拠だ。


 沖田は、病床に戻ってから報せを受けた。

 近藤が短く告げ、土方がさらに短く継ぎ、永倉が一言だけ足した。

 「平助は――いい面だった」

 沖田は、微かに笑った。

 「誠は、一つになるたびに、小さくなるんですね」

 言は軽く、優しかった。

 優しさは、刃の角を丸くする。

 丸くなった角は、鈍る。

 鈍った刃は、棒になる。

 棒は、旗を支える。

 旗は、布に出さない。

 布に出さぬ旗ほど、胸の灯で温めるしかない。


     *


 朝の京は、噂を目覚めさせる。

 油小路の血はすでに水で薄められ、行き交う人の足は、跡を見ていないように装う。

 装う町ほど、声は小さい。

 小さい声は、遠くまで届く。

 「新選組がまた斬った」

 「今度は、伊東だ」

 「仲間を二度も」

 数えられるものは、怖くない。

 だが、忘れられない。

 忘れられぬものは、布を薄くする。

 薄くなった布は、よく揺れる。

 揺れる旗は美しい。

 美しいものほど、裂けやすい。


 会津への奏達は、伊東の文言を知る者の手で書かれた。

 皮肉ではない。必要だった。

 「御用之次第、別働之任ニ相成リ、油小路ニ於テ賊徒成敗仕候」

 美しい文は、痛みを遅くする。

 遅くなった痛みは、長く残る。

 土方は、その文の末尾に付記を足した。

 ――「同人、名義ニ於テは旧員タルモ、旗外ニ立チ候間、これを以て賊と為す」

 筆が止まり、墨の滴が小さく広がった。

 広がりは、心の揺れの形だ。


 永倉は、庭で素振りをした。

 振るたび、拍が合う。

拍が合えば、心が戻る。

 原田は、槍を見せずに柄だけ拭いた。

 見せない槍は、棒だ。

 棒は、旗を支える。

 斎藤は、点を見続けた。

 点は、ぶれない。

 ぶれないものを一つ持つ者は、崩れにくい。

 島田は肩の幅で、入口を測った。

 入口は、風のために開ける。

 出口は、人のために閉じる。

 閉じるは、封ずるに非ず。選ぶこと。


 沖田は、咳を数えた。

 数えられるものは、怖くない。

 怖くないふりが、彼にはよく似合った。

 「総司」

 井上源三郎が結び目を触りながら、静かに言った。

「戻れ、とは、もう言わん」

 沖田は笑って、目を伏せた。

 「ありがとうございます」

 礼は、拍の代わりになる。

 拍があるうちは、旗は折れない。


     *


 その夜、土方は紙を一枚増やした。

 『油小路後日覚』

 ――「入口ハ、風ノ為ニ開ク。出口ハ、人ノ為ニ閉ズ」

 ――「閉ズ、封ズニ非ズ。選ブナリ」

 ――「選ブトキ、痛ム」

 墨は遅く乾いた。

 乾くまでに、指先は冷え、胸の中で何かが軋んだ。

 木は、折れる前に鳴く。

 人も、折れる前に鳴く。

 鳴きを聞き分けるのが、番の役目だ。

 番は、笑い・結び・見せ・耳・紙・刃でできている。

 刃は最後。

 最後に置けるうちは、組は隊であり続ける。


 近藤は、香を絶やさず、誠の字を胸に置いた。

 誠の字は、刀の上に言と書く。

 刀だけなら、言は死ぬ。

 言だけなら、刀は錆びる。

 両方を持つには、人が要る。

 人は、疲れる。

 疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。

 毛羽立ちは、指でならせる。

 風では、裂けに変わる。


 「――これでいいのか」

 近藤の低い独白に、土方は即答しなかった。

 答えの代わりに、紙をもう一枚、重ねた。

 紙は刃ではない。

 だが、刃の代わりに重なる。

 重なった紙の重みは、胸の棒へ移る。

 棒は、旗を支える。

 支える棒は、遅れて痛む。


     *


 夜半、鐘が一度だけ鳴った。

 乾いた音は、薄く濡れていた。

 濡れは雨ではない。言の湿りだ。

 言は刃ではない。だが、向きを変える。

 向きが変われば、順番が変わる。

 順番が変われば、旗は折れる。

 折らせぬために、新選組は、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れ――そして、油小路に置かれた最後の刃の重さを、胸の棒で受けた。


 油小路の名は、紙の上で黒く残った。

 伊東甲子太郎の名は、胸の内で重く残った。

 平助の笑いは、耳の奥で小さく残った。

 残るものが、人を持たせる。

 持たせるものが、旗を支える。

 旗は、布に出さない。

 布に出さぬ旗ほど、見えないところで揺れる。

 揺れるたびに、誠は小さくなっていくように思えた。

 小さくなるたびに、色は濃くなる。

 濃くなる色は、滲みに強い。

 滲まぬようにと、誰もが、胸の灯を守った。


 ――油小路の暗闘は、勝ちで終わった。

 勝ちは、記録になる。

 だが今夜、誰も勝ちを口にしなかった。

 口にすれば、旗の布が音を立ててしまうような気がしたからだ。

 音のない勝ちは、長く残る。

 長く残るものは、のちの夜の拍になる。

 その拍を、まだ名のない次の道が、静かに待っていた。

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