表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/61

第十八話 天満屋の刃

 慶応三年、雨の京は音で満ちていた。

 瓦に落ちる、水に落ちる、灯に落ちる、心に落ちる。

 西本願寺の大屋根は、雨脚の強弱で時の拍を刻み、回廊の柱はそれを骨に伝えて鳴った。

 ――薩長の策動。

 その言は、とっくに紙を出て、町の匂いになっていた。紙は乾くが、匂いは乾かない。乾かぬ匂いは、夜ごと、誰かの袖に薄く移る。


 情報は、雨の粒のように大小が混じる。

 山崎烝の耳は、粒を選び、湿りの具合で盆に分けた。

 「御所筋」「会津の重」「伏見」「油小路」「天満屋」――

 紙の上に並べられた名は、個々で見ればただの点だ。

 点に拍を置けば、やがて線になる。

 線の先に座があり、座の末に刀がある。

 刀は、最後。

 最後に置けるよう、先に座を敷く。


 「狙いは要人だ」

 土方歳三は紙を両手に持ち、指先で冷やし、温度を測ってから低く言った。

 「会津の顔か、幕府の重か。いずれでも、旗が折れる」

 近藤勇は頷いた。

 「折らせぬ。――順番だ」

 名→用向→座→紙→顔――最後に刀。

 その順番は、これまで幾度も彼らを救い、幾度も彼らを凍らせてきた。

 救いと凍えが同じ秩序の裡にあるのは、世の常だ。

 秩序は、温度を要る。

 温度は、人しか持たぬ。


 天満屋。

 高瀬川に近い、板戸の表から灯を漏らす二階屋。

 茶屋の体裁を保ちながら、夜には座が変わる。

 酒と灯が人を止め、言が人を動かす。

 動き出す前に、動き方を決める座――

 その座に、高台寺党の影が混じっているという。

 紙の隅に小さく、平助の名が見えたとき、沖田総司の目が、袖に沈む咳の音より先に沈んだ。


 雨は、夜のために降るわけではない。

 だが、夜は雨をよく使う。

 「出る」

 土方の声は、雨脚よりも低く、確かだった。

 永倉新八、原田左之助、斎藤一、島田魁、服部武雄、尾形俊太郎、そして数名の目付――

 「俺は全体を持つ」

 土方は紙を束ねて懐へ押し、合図の間を決めた。

 合図は短く、繰り返さない。

 繰り返せば、雨に溶ける。

 溶けた合図は、敵の耳に入る。


 永倉は帯をきつく締め、鼻で雨を嗅いだ。

 「ぬるい雨だ」

 原田は槍を見せず、袖の中で掌をしならせた。

 「ぬるいほど、足が滑る」

 斎藤は何も言わない。足音が消える角度だけを確かめて、静かに闇へ溶けた。

 沖田は留守を命じられていた。

 袖の中の咳は、昨夜よりも深い。

 「総司」

 近藤が一言だけ置く。

 「……はい」

 「戻る。――話すことがある」

 沖田は笑って頷き、半歩を座敷の中へ引き取った。

 半歩は、斬らない構えの核だ。

 だが、半歩にも、間がある。

 今日の間は、少し長かった。


     *


 夜の京は、雨で音を増やし、影で人を減らす。

 高瀬川沿いの柳がしなるたび、水面が小さく裂け、すぐ閉じる。

 狭い路地に、灯は少ない。

 少ない灯ほど、顔がよく見える。

 顔が見えれば、順番は早く進む。

 早い順番は、刃の出番を遠ざけたい夜にだけ使う。


 天満屋に近づくと、匂いが変わった。

 酒、油、湿った紙、香の薄い煙、そして、人。

 「三手」

 土方の声は風に溶け、耳にだけ届く。

 「永倉、原田は裏手の土間。斎藤は二階の縁。俺は表で座の拍を取る。合図は――」

 雨が軒に打つ音に紛れて、指が動く。

 指の形は、牌の目のように簡潔で、覚えやすい。

 覚えやすさは、裏切りやすさでもある。

 だが今は、速さが勝つ。


 板戸を押すと、灯が少し揺れた。

 座敷の手前に帳場、さらに奥に座。

 座の中心には、酒と盃と、紙と筆。

 顔が三つ四つ、薩の訛、長の高さ。

 そして――平助。

 目が先に反応した。

 その一瞬の明滅が、刃の出る位置を決める。

 「――平助」

 名を呼んだのは誰だったか。永倉か、近藤か、あるいは心の中の旗そのものか。


 平助は、旧友の顔が灯に浮かび上がるのを見た。

 目の奥で、まだ旗が揺れる。

 揺れる旗は美しい。

 美しいものほど、裂けやすい。

 彼は、半歩を踏み出そうとして、止めた。

 止める半歩は、刀より難しい。

 難しい半歩の隙に、言が滑る。

 「よう、兄弟」

 薩摩の目が笑い、扇を一度だけ開いた。

 笑いは拍。

 拍は、座を滑らかにする。

 滑らかさは、死を軽くする。


 合図は、一拍。

 斎藤の影が、二階の縁から障子を裂いた。

 永倉の足が土間から上がり、畳の縁を踏み抜いて前へ。

 原田は槍ではなく、袖の下から短刀の角度で座を折る。

 島田が横の足を崩し、尾形は帳場を抜けて紙を攫う。

 土方は表で入口を閉じ、出口の選択肢を減らした。

 減れば、刃は短くなる。


 「御用改め!」

 声は短く、重く、返しを待たずに切れた。

 返しの隙を、刃が埋める。

 最初の閃きは、灯の芯を掠めた。

 灯が揺れ、影が増え、人の数が減る。

 畳に血が飛び、障子が裂け、屏風が倒れ、杯が割れ、詩が濡れる。

 濡れた詩は、誰の胸にも届かない。

 届かぬまま、刃だけが確かだった。


 永倉の太刀は、まっすぐだった。

 余計な言がない。

 言のない刃は、正直だ。

 原田は見せだけで人を退け、槍を使わずに肩で座を制した。

 斎藤は一点だけを見る。

 点に拍を置き、抜きで終わる。

 島田は横から崩す。

 横の足が崩れれば、座は立たない。

 土方は、刃の声を聞いていた。

 刃は、木と違って鳴かない。

 鳴かないからこそ、拍で聞く。


 平助が、そこで立った。

 目が、痛かった。

 痛さは、刃ではなく、言だった。

 「平助!」

 誰かの叫びが、灯にぶつかって砕けた。

 砕けた破片が、畳に散った。

 平助は、短刀の柄に手を置いた。

 置くと、抜ける。

 抜けば、戻れない。

 戻らないことを選ぶには、誠が要る。

 「俺は……」

 言の始まりは、血泡で途切れた。

 刃が、先に落ちていたからだ。


 斎藤の踏み込みと、永倉の返しの間に、横から走った刃――

 誰のものだったか、畳の縁が吸った血が早くて、目が追いつかなかった。

 平助の肩口から紅が噴き、袖に走って手を濡らした。

 手に残ったのは、刃ではなく、柄の温度。

 温度が、遅れて痛みになった。

 彼は、崩れた。

 崩れるとき、人は重い。

 重さは、座を軋ませる。

 軋みは、鳴き。

 鳴く木は、折れる前に鳴く。


 「平助!」

 永倉が走った。

 原田が肩で人を払い、島田が襖を蹴り、斎藤が点を刺し、土方が入口で出口を増やした。

 増やすのは、味方のためだ。

 味方に出口がある限り、座は最後まで保てる。

 保てる座の末尾で、近藤の声が割れた。

 「戻れ! 平助、まだ間に合う!」

 声は、刃でも、紙でも、詩でもなかった。

 ただの棒だった。

 棒は、旗を支える。

 支える棒は、遅れて折れる。


 平助は、口の中の血を嚥み、薄く笑った。

 笑いは拍。

 拍は、心臓。

 心臓は、まだ温かい。

 「俺は……誠を守りたかった」

 言は、短く、まっすぐだった。

 「だが、誠の行き先は、違った」

 違う――

 その一語が、座の底へ落ちた。

 落ちる音はしない。

 音がしないものほど、長く響く。

 平助の目の光は、そこで遠ざかった。

 遠ざかる光を、永倉の手が掴めなかった。

 掴めないものを、原田の肩が支えられなかった。

 支えられないものを、土方の番が守り切れなかった。

 守り切れないものが、近藤の棒を重くした。


 座は、なおも続いた。

 志士の顔が二つ三つ、灯の下で崩れ、薩の訛が呻きに変わり、長の高さが短い悲鳴に折れた。

 計画は、未然に防がれた。

 紙は掴まれ、名は記され、顔は並べられ、印が押される。

 押す印の赤は血ではない。

 だが、血に似た温度があった。

 温度が、遅れて痛みになる。


 外は、まだ雨だった。

 雨は、血の匂いを広げず、ただ冷やす。

 冷えは、刃の角を鈍らせる。

 鈍った刃は、棒になる。

 棒は、旗を支える。

 旗は、布に出さない。

 布に出さぬ旗ほど、温度を要る。

 温度は、人の胸にしかない。

 胸は、疲れる。


     *


 翌未明、西本願寺の回廊は、静かだった。

 静けさは、噂を遠くまで運ぶ。

 「新選組は、仲間すら斬る狂犬だ」

町人の囁きは、茶屋の卓で、蔵屋敷の帳場で、寺社の回廊で回った。

 回る皿の上で、幕府の衰えが薄く広がる。

 広がりは冷たい。

 冷たさは、人の肩をすくめさせる。

 肩すくめの町で、刃は鈍る。

 鈍る刃は、重くなる。

 重い刃は、最後の棒になる。

 棒が増えれば屋根は持つ。

 だが、棒同士が軋む音は、旗の布の裏まで届く。


 「……平助の形見は」

 永倉は声を押し殺し、盃をひっくり返した。

 返した盃の底に、空があった。

 原田は拳を握り、拳の骨に拍を打った。

 島田は沈黙の横で息を整え、斎藤は点だけを見続けた。

 井上源三郎は結び目を解いて結び直し、結ぶたびに指先を冷やした。

 沖田は、座の外で膝を折り、袖に咳を沈め、静かに目を閉じた。

 目を閉じれば、旗の布の裏が見える。

 裏の糸は、何本も、切れかけていた。


 土方は、無表情だった。

 刀を拭う手は、いつも通りで、拭い終えた白布は、いつも通り赤くなった。

 「これが、誠だ」

 声は冷たかった。

 冷たさは、刃の背で立つ。

 「己の血も、仲間の血も、秤にかけて、なお残るもの。それが誠だ」

 言は、棒だった。

 棒は、旗を支える。

 支える棒は、遅れて折れる。

 折れないよう、彼は紙を増やした。

 『天満屋之義 御用留』

 ――名

 ――用向

 ――座

――紙

 ――顔

 ――刀(了)

 墨は遅く乾き、乾くまでに、冬の名残りの冷えが指先を痛めた。


 近藤は、香を立てた。

 香は、痛みを遅くする。

 遅くした痛みは、長く残る。

 「平助」

 名を出すだけで、温度が変わる。

 温度が変わると、旗が揺れる。

 揺れる旗は美しい。

 美しいものほど、裂けやすい。

 裂けに、棒は足りるか。

 棒の数は足りる。

 だが、質は――

 質は、人の腹でしか足せない。


     *


 天満屋の座敷には、まだ跡があった。

 血の跡、割れた盃、裂けた障子。

 朝の湿気は、夜の痕跡を薄める。

 薄まっても、消えない。

 消えないものほど、長く効く。

 山崎は紙片を集め、匂いの欄に「油」「酒」「香」「墨」の順に印を打った。

 油は入口を広げ、酒は座を長くし、香は言を甘くし、墨は後を残す。

 残るものが、旗を引く。

 引かれた旗は、布に出さない。

 布に出さぬ旗ほど、胸の灯で温めるしかない。


 町の視線は、冷たかった。

 「仲間割れ」「狂犬」「血の組」――

 言葉は、刃ではない。

 だが、向きを変える。

 向きが変われば、順番が変わる。

 順番が変われば、旗は折れる。

 折らせぬために、土方は補条を増やした。

 『市中応対之心得 改』

 ――「詩、御座無用」

 ――「印、先ニ」

 ――「顔、次ニ」

 ――「言、後ニ」

 ――「刀、最後」

 詩は座を濡らす。

 濡れた紙は乾かぬ。

 乾かぬ紙は、噂を呼ぶ。

 噂は、風だ。

 風は、入口を広げ、出口を増やす。

 出口は、選ぶためにある。

 選ばせる座は、刃より鋭い。


     *


 夜、雨はやんだ。

 西本願寺の庭に、星は出なかったが、音は戻った。

 鐘の音は低く、遠く、細く長い。

 戻ってきた音は、柱を撫で、屋根の内側を這い、旗の布の裏で小さく震え、胸の骨の裏で拍に変わる。

 拍は、歩幅になる。

 歩幅は、道に刻まれる。

 刻まれた道は、のちに誰かが名づける事件の線になる。

 今夜の線は、まだ名を持たない。

 名を持たぬものほど、正確に運ばれる。


 沖田は、縁側に座り、空を見た。

 見えない星の位置を、咳の回数で測る。

 咳は、数えられる。

 数えられるものは、怖くない。

 怖くないふりが、彼にはよく似合った。

 「総司」

 土方が立った。

 顔は、いつも通りだった。

 いつも通りは、強い。

「……平助は、戻らなかった」

 沖田は、目を閉じた。

 「はい」

 「誠は、残った」

 「はい」

 短い返事の間に、咳が一つ、音もなく沈んだ。

 沈んだ咳は、拍の底で鳴り、布の内側の旗を震わせた。


 「副長」

 沖田は、目を開けた。

 「僕らの誠は、どこへ行きますか」

 土方は答えなかった。

 答えの代わりに、紙を一枚、置いた。

 『天満屋後日覚』

 ――「入口は、人のために閉じる」

 ――「出口は、選ぶ」

 ――「選ばせる座は、痛む」

 墨は遅く乾き、乾くまでに、夜の冷えが、痛みを少し、薄めた。


     *


 翌日、弔いは静かだった。

 名は公に出されず、香は多く焚かれず、涙は音を立てなかった。

 音を立てる涙は、噂になる。

 噂は、旗を引く。

 引かれた旗は、布に出さない。

 布に出さぬ旗ほど、胸の灯で温める。

 灯は、人からしか出ない。

 人は、疲れる。


 永倉は、拳を静かに膝の上で握り、開いた。

 握るたび、拍が合う。

 原田は、槍を見せずに、柄だけを拭いた。

 見せない槍は、棒だ。

 棒は、旗を支える。

 斎藤は、一点だけを見つめた。

 点は、動かない。

 動かないものは、拠になる。

 井上は、結び目を結び直し、結の数を増やした。

 結びの数は、棒の数だ。

 棒の数は、屋根の持ちだ。


 近藤は、香を絶やさず、誠の字を胸に置いた。

 誠の字は、刀の上に言、と書く。

 刀だけなら、言は死ぬ。

 言だけなら、刀は錆びる。

 両方を持つのが、誠。

 持つために、痛みが要る。

 痛みが、今、ここにある。


 土方は、刀を鞘へ返した。

 鞘は、抜くためにある。

 抜かぬためにも、ある。

 「――これが、誠だ」

 彼は、繰り返した。

 刃の背で立つ言は、冷たかった。

 冷たさは、覚悟の温度だ。

 覚悟の温度は、夜に持つ。


     *


 雨は上がり、春の匂いが薄く混じった。

 高瀬川の流れは、昨夜の血の匂いを運ばず、ただ音だけを運んだ。

 音は、遠くへ行き、戻ってきた。

 戻ってきた音は、柱を撫で、屋根の内側を這い、旗の布の裏で拍に変わる。

 拍は、歩幅になり、歩幅は、道に刻まれた。

 道は、まだ名を持たない。

 名を持たぬものほど、正確に運ばれる。

 運ばれる先で、分かれが待つ。


 京の町は、彼らを見る。

 恐れと、軽蔑と、羨望と、嘲りと、黙認と――

 視線は、刃ではない。

 だが、向きを変える。

 向きが変われば、順番が変わる。

 順番が変われば、旗は折れる。

 折らせぬために、彼らは紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れる。

 それでも――

 天満屋の名は、紙の上に墨となって残り、平助の名は、胸の内に灯となって残った。

 灯は、痛む。

 痛みは、歩幅を半歩にする。

 半歩は、斬らない構えの核だ。

 核があるうちは、旗は折れない。

 折れない旗の布の裏で、今夜もまた、誠が小さく、しかし確かに、拍を打った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ