表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/61

第十六話 分かれ道の前兆

 西本願寺の大屋根は、冬から春への移ろいを、影の角度で教える。朝の光が石畳に描く筋が一寸ほど伸びるたび、境内の空気は少しだけ緩む。だが緩むのは空気であって、順番ではない――土方歳三は、そう念じるように毎朝の巡視で足裏の拍を数えた。

 剣は最後。

 紙で斬れ。

 座で斬れ。

 最後に、刀で斬れ。

 この順番が、新選組という布の織り目だった。だが織り目のどこかに、新しい糸が混じりはじめている。


 糸の名は、伊東甲子太郎。

 彼の加入から幾ばくかの月が過ぎ、隊の外形は目に見えて整った。上書の締め括りは格調を増し、奏達の文は京ことばの端正さで柔らかく相手の胸に入る。御用改めで掲げる口上も、刃の匂いを薄めつつ、権威の芯を失わない言い回しへと統一された。

 「剣の礼に、文の骨を通す」――伊東の働きは、まさにそれだった。


 だが、骨はよくも悪くも姿勢を変える。

 西本願寺の一隅に生まれた「筆合」の座は、日を追って活況を呈した。行燈の灯で紙魚の影が揺れる狭い板の間に、若い隊士がひしめく。藤堂平助、尾関、粕谷、斎藤一、服部武雄……名を挙げれば十指では足りない。

 伊東はまず「とめ・はね・はらい」を言葉ではなく拍で教えた。

 「拍を身体に落とす。落とした拍を、筆へ移す。逆にすると、字は痩せる」

 彼の声は柔らかく、温度があった。柔らかさは人を近づけ、温度は座を長くする。


 長い座は、やがて政を呼ぶ。

 「誠はよい。しかし誠は、剣で示すばかりではない。文でも示せる。剣は血を流すが、文は人を生かす」

 伊東の言は、若者には甘美で、年長の者には耳障りだった。甘美さに引かれ、彼らは市井の文人に交わり、薩長の動向を聞き、尊皇の議に触れる。「剣の棒」で世界を量ってきた隊士が、天秤という別の道具に手を伸ばし始めたのである。


 土方は微笑まない。

 「……秤の眼が増えた」

 帳面の余白に短い行を足すと、彼は筆を置いた。屯所の規律は変わらない。軍中法度、局中法度、御用改めの礼式――どれも掟は厳しく、違反には容赦なく刃が下りる。

 この刃は、もはや「斬るための刃」というより「番」の印だったが、印が頻繁に押されるほど、紙は冷えを帯びる。

 「厳しさが過ぎれば心が折れる」

 永倉新八は盃の影で愚痴り、

 「剣でつなぎ止めても、離れる奴は離れる」

 原田左之助は唾を吐いて夜気を割った。


 近藤勇は、二つの風の間で目を閉じる。

 土方は規律の刃を立て、伊東は言葉の橋を架ける。

 「武士として生き、誠を尽くす」

 己の芯を確かめるように、近藤は胸の内の旗を撫でた。その旗は布に出さない。布に出さぬ旗ほど、温度を要る。温度は人から出る。人は、揺れる。


 京は再び不穏を増していた。

 薩摩は長州と密かに手を取り、倒幕の策は紙の下で太る。町の片隅で、攘夷志士の密議は絶えず、夜の路地には名のない足音が増えた。

 新選組の巡察は厳格になり、刃傷沙汰は増える。斬ってはならぬ顔の見分けは難しく、座に乗らない「働き」がじわじわと広がった。法度は機能する。だが、それは「見える行為」の刃であり、「見えない働き」を斬るには鈍い。


 「幕府は滅びる。新選組が幕府とともに沈めば、武士の名も泥にまみれる。我らは誠を守りつつ、時代を渡らねばならぬ」

 ある夜、伊東は選んだ耳にだけ、そう語った。

 頷く者がいた。反駁する者もいた。

 言葉は刃ではない。だが、向きを変える。


 土方は、風の割れを感じ取っていた。

 廊の灯が細くなった夜更け、沖田総司と歩を揃えながら、低く呟く。

 「風は割れている。割れた風は、やがて嵐になる。止めねばならん」

 沖田は袖に咳を沈め、細い声で返す。

 「でも、副長。嵐は……止められますか」

 土方は答えない。足音だけが強くなった。答えの代わりに、拍が置かれた。


     *


 分岐の前触れは、いつも小事の顔をしてやって来る。

 最初の小事は、筆合の座から生まれた。

 若い者同士の手習いに、町の文人が混じった。和歌の上手で評判の、膝行が滑らかすぎる男だ。

 「誠の字は、刀の上に言と書く。――刀の下に言ではないのが、面白い」

 男は笑い、若者も笑った。そこで座が終わっていれば、ただの風流ですんだだろう。

 だが、その後にひっそりと混じった「御所の内裏での風聞談義」が、土方の耳を引っかいた。


 山崎烝が拾ったのは、男の懐からの宛名無しの小紙だった。

 「御陵の御警固、改めて……」

 土方は、その文言に詩の湿りを嗅いだ。詩は座の外で座を濡らす。濡れた紙は乾きにくい。乾きにくさは、詮索を呼ぶ。

 取り調べの座が開かれ、名→用向→座→紙→顔――順は守られた。

 男は巧みに顔を先に立てようとし、伊東は角度で柔らかく受け、土方は半拍だけ遅らせて返しを置いた。

 刃は出なかった。

 出なかったが、座を出た夜気に、ひたりと冷えが残った。


 「詩は座の外にありて座を濡らす」

 補条にそう書き加えると、土方は筆をとどめ、墨の匂いを鼻に通した。墨は落ち着きをもたらす。だが落ち着きの裏に、疲れが沈殿する。

 疲れは、旗の布の端に毛羽立ちを作る。毛羽立ちは指でならせる。風では、裂けに変わる。


 次の小事は、賞罰の場で起きた。

 市中見回りで功を立てた若い隊士に、伊東が詩を添えて褒詞を書いた。

 「兵は刃を惜しみ、言は血を惜しむ――」

 美しい。美しいが、早い。

 詩に先行されて、印が遅れた。

 遅れは、誰かの心を冷やす。

 永倉は盃を置き、吐き出した。

 「詩はうまい。だが、印が先だ」

 伊東は笑って受ける。

 「印は乾きます。詩は、心に残る」

 土方は短く継いだ。

「心に残るなら、なおさら順番を違えちゃならん」


     *


 春の手前、西本願寺の区画に新しい間が増えた。

 兵具庫の隣に「文庫」、調練路の終いに「小講」。

 紙が増える。声が増える。刃の歌が短くなる。短い刃の歌は重い。重い刃は価値だ。

 価値は――狙われる。

 狙いは、外からだけではない。内からもある。


 ある夕刻、土方は稽古場の影で、沖田の柄手を見た。

 柄巻の湿り、鍔の冷え、鞘の口の細り。

 「総司。半歩は、入口の風を受け流す角度だ」

 沖田は笑う。「読点がないと、人は走り過ぎます」

 「読点が多いと、鈍る」

 「鈍るうちに、刃が最後に回るなら――」

 沖田はそこで言葉を切り、袖に咳を沈めた。

 沈んだ咳は、拍の底で鈍く鳴る。誰にも聞こえないが、旗の布はその分だけ揺れる。


 揺れは、名の器でも起こった。

 近藤の名跡は、薄紙を重ねるように調えられ、いよいよ器として立った。

 会津は「秩序」、町は「信用」、寺社は「礼」、蔵屋敷は「勘定」の語で掌を添えた。

 伊東は、その上に詩を一片、置こうとした。

 土方は、押しとどめる。

 「器は濡らすな。滑る」

 滑れば、手が離れる。手が離れれば、旗は落ちる。

 落ちた旗は、拾い上げるまでに時間を要し、その間に噂が走る。


     *


 「……御陵」

 山崎烝が囁く。

 「御陵の警固を名にする座が、町はずれに、夜な夜な」

 伊東の私席は、いつの間にか寺の外にまで延びていた。名も扁額もない小座敷。灯ではなく月の下。詩ではなく道。剣ではなく文。

 集う顔には、まだ明確な線が引けない。だが、角度はある。出入りの足は、入口の番を避け、横の路地を選ぶ。

 「入口は、風のために開ける。出口は、人のために閉じる」

 土方は覚書にそう書き、番を倍にした。

 番は、笑い・結び・見せ・耳・紙・刃でできている。

 刃は最後。

 最後に置くと、決めた。


 しかし、最後は遠ざかるほど重くなる。

 重みは、柱音に変わる。

 夜半の回廊で、どこかの梁が小さく軋んだ。

 木は、折れる前に必ず鳴く。

 鳴きを聞くのは、番の役目だ。

 番は入口に立ち、出口も見張る。

 だが番が増えるほど、疲れも増える。


 疲れは、判断の角を丸くする。

 丸くなった角は、詩に寄りかかる。

 寄りかかれば、座は早く済む。

 早く済めば、冷えが残る。


     *


 その夜の小事件は、冷えの縁で起こった。

 市中の貸座敷に、倒幕の金が流れるという報。

 斬ってはならぬ顔が混じる。

 山崎の耳、島田の肩、井上の結び、永倉の声、原田の見せ――座は整い、名→用向→座→紙→顔と進む。

 そこで伊東が、顔を先に立て、短い詩を挟んだ。

 座は滑らかに流れた。

 滑らかに流れたが、名がひとつ、半拍だけ座の外へ逃げた。

 外にいた別の名と、繋がった。

 紙が追いついたとき、その繋がりは法度の外だった。


 刃が要った。

 最後に来た刃は、短く、重く、正確だった。

 土方の声は低く、沖田の半歩は音もなく、永倉の踏み込みは腹に響き、原田の槍は見せだけで足りた。

 座は収まり、紙は乾いた。

 乾いたが、冷えが残る。

 冷えは、入口の風を出口へ変えやすくする。


 帰り道、土方は伊東に言った。

 「順番を崩す時は、刃の番を先に立ててから崩せ」

 伊東は笑う。

 「崩したから、刃が短くて済みました」

 正しい。

 正しい言ほど、危うい。

 危うさは、旗の布に見えぬ傷を作る。傷は、入口の風で広がる。


     *


 日を改めて、近藤は座の中央に言葉を置いた。

 「旗は折らぬ。順番は守る。誠は、皆の誠だ」

 皆――それは、温度の名寄せだった。

 井上の結び、永倉の笑い、原田の肩、藤堂の軽さ、斎藤の沈黙、山崎の耳、島田の背、沖田の半歩、土方の冷えた水、近藤の棒。

 棒があるかぎり、布は折れにくい。

 だが、棒はしなる。

 しなりは美しく見える。美しいものほど、裂けやすい。


 夜半、伊東は灯を落として庭を見た。

 「誠の旗――よい名だ」

 「だが、誠は、誰の誠か」

 問いは、今度は誰かの胸に届いた。

 胸の温度が、一度だけ下がる。

 温度が下がれば、旗はよく揺れる。

 揺れは美しい。

 美しい揺れは、兆しだ。


     *


 兆しは、さらに二つ、形になる。

 一つは、順番の文言に混じった読点。

 伊東の書き物には、従来より読点が増えた。息継ぎにやさしい文だ。呼吸は楽だ。だが、楽な呼吸は、走らせる。

 紙の上で走る呼吸は、座の上で走る足を呼ぶ。

 走る足は、刃の出番を早めたがる。

 早まる拍を抑えるのは、番の役目だ。番は増え、疲れも増えた。


 もう一つは、御陵ということばの響き。

 「御陵の警固」――敬いの音をまといながら、そこには微かに別の旗の匂いがあった。

 「新政の棒」「宮の側の棒」――言い替えは美しい。美しさは入口だ。

 入口が二つあれば、人は選ぶ。

 選ぶ時、秤は役立つ。秤は、伊東が得意とする道具だった。


 土方は、紙を一枚増やした。

 『入口出口覚 改』

 ――「入口は増やすほどよいにあらず。増やせば番が増える。番は人。人は温度。温度は疲」

 ――「出口は閉じるにあらず。選ぶ」

 ――「選ばせる座は、刃より鋭い」

 墨は遅く乾き、乾くのを待つ間に、西本願寺の鐘が一度、低く鳴った。


     *


 春の風が、唐門の金具を薄く冷やした朝、土方は沖田と並んで本堂の縁を歩いた。

 「総司、風をどう見る」

 「入口が増えました。どれも涼しい」

「寒くはないか」

 沖田は笑った。

 「僕は、傘を差します」

 「傘は、骨が要る」

 「骨は、皆で持ちます」

 短い会話の間に、沖田は袖へ咳を落とした。

 副長は見ぬふりをした。見ぬふりは、温度だ。温度のやり取りは、旗の布の下でなければできない。


 境内の外で、ひとつの小座がまた開く。

 灯ではなく、夕明。

 詩ではなく、道。

 棒ではなく、秤。

 その席で、若い者の頬の角度が、ほんの少しだけ変わった。

 変わった角度は、すぐには誰の目にも触れない。

 だが、番の鼻にだけ、薄い油の匂いとして残る。


 「――御陵衛士」

 誰かが冗談めかして言った。

 笑いは起きなかった。

 笑いが起きぬ冗談は、兆しだ。

 兆しは、名になる前に、布の裏で拍になる。

 拍になったものは、やがて足になる。

 足は、道を選ぶ。


     *


 その夜更け、近藤は刀の紐を締め直し、土方の机に置かれた紙束に指を置いた。

 「歳。旗は折らぬ」

 「折らせぬ」

 「入口は保つ」

 「番を置く」

 「出口は……」

 「選ぶ」

 言葉は短い。

 短い言葉は、長い沈黙を伴う。

 沈黙は、覚悟の形をしている。


 行燈の火が小さく揺れ、障子の外で風が割れた。

 割れた風の片方は涼しく、片方は冷たい。

 涼しさは人を集め、冷たさは人を散らす。

 集まりと散りの拍が、薄くずれた。

 そのずれこそが、分かれ道の前兆であった。


 西本願寺の鐘が、もう一度、遠くで鳴った。

 音は乾いているのに、どこか濡れていた。

 濡れは雨ではない。言の湿りだ。

 言は刃ではない。だが、向きを変える。

 向きが変われば、順番も変わる。

 順番が変われば、旗は折れる。

 折らせぬために、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れる――それでも、嵐は来る。

 嵐は止められないかもしれない。

 だが、選ぶことはできる。

 どの入口を保ち、どの出口を閉じ、どの道へ半歩を踏み出すか。

 その半歩が、のちに誰かの名で呼ばれる別れの最初の音であることを、いまはまだ、紙の上の墨だけが知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ