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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第十五話 伊東甲子太郎、風の入口(前篇)

 その日、風が先に門を叩いた。

 西本願寺の長い軒の下、旗は布に出されぬまま胸の骨の裏で揺れていたが、揺れの拍が一度だけ変わった。足音より先に、言の匂いが来たのだ。

 僧の草履が石畳を掃き、門番が名を取る。

 「伊東甲子太郎」

 北辰一刀流の遣い手、儒をよくし、口舌は滑らか。紙に書けば、これだけで人となりの輪郭が立つ。だが、輪郭の中の芯までは、紙の字だけでは量れない。


 伊東は、礼を尽くして頭を下げ、最初の言葉で風向きを変えた。

 「新選組。京の秩序の棒。誠の旗。――見事です」

 称えた。正面から。

 そして、さらりと次の一行を置いた。

 「これからは、剣より文が勝つ時代」

 挑発ではない。診断だ。

 風は門をくぐり、座の内側まで入り込んだ。


 近藤勇は、口を結び、うなずいた。

 「教養を備えた剣士は、顔になる」

 会津への奏達、町奉行への控、蔵屋敷への書付――どれひとつ、粗くてよいものではない。

 顔は、紙の上で先に立つ。

 土方歳三は、眼の端で風を測る。

 「……秤の眼だ」

 重さを量る眼。忠誠も情も、戦功も評判も、同じ皿に載せて比べる眼。

 それは、便利であり、危うい。


 だが、組は大きくなった。

 大きくなった組は、異物も呑み込む余裕を持たねばならない。

 器に水が増えれば、旗の布は濡れずに済む夜が増える。

 漏れ口が増えることは、番で補えばよい――土方は、自身にそう言い聞かせ、伊東の名を帳面の末尾に置いた。


     *


 伊東はすぐに仕事をした。

 取り調べの口上を整え、上書の文言を磨き、会津への奏達文を格調高く改め、諸役所との折衝に「剣士の礼」を与える。

 言葉は刃ではない。だが、刃の鞘になりうる。

 鞘が良ければ、刃は最後まで鞘に眠る。

 紙が良ければ、座は短く済む。

 短く済めば、血は減る。

 減った血は、旗の布の湿りを保つ。


 『取調口上改』――伊東の筆は、冒頭の句読だけで座を引き締めた。

 名、由緒、居所、用向。

 「脅す言は要らぬ。道理の順を先に示す」

 『上書文言拾遺』――末尾の敬辞に、剣士の姿勢が立った。

 「刃をもって御用にあたり候えども、まず紙をもって御意をうかがい候」

 会津への奏達――同文異表の妙。

 京の句と江戸の句は、一文字違えば匂いが変わる。

 伊東は、その匂いの差を嗅ぎ分け、文の温度を整えた。


 やがて、講義が始まる。

 「筆は刃ではない。刃は最後。筆は、最初」

 若い者が集まり、煤けた灯の下で書を学ぶ。

 「字は顔だ。顔は返しの速度」

 沖田総司も、縁側からそれを見ていた。

 咳は浅く、目は笑っている。

 「拍で書くと、読む者の呼吸も合うんです」

 伊東は軽く頷いた。「拍は、文にもある」

 言葉の中に、同じ合図が見えた。ただ、音が少し違う――柔らかい。柔らかいが、芯は固い。


 伊東の芯は、向きを変える時に音を立てる。

 それは、酒席の端でも聞こえた。

 永倉新八が盃を傾け、耳打ちする。

 「あいつは、斬る前に天秤を振るう」

 原田左之助は笑って盃を空ける。

「斬らずに済むなら上等だ」

 沖田は黙って笑い、観察を続けた。

 柔らかな声の奥に、硬い芯の節がときどき鳴る。

 節が鳴るとき、文は刃より鋭い。


     *


 伊東は、思想を持っていた。

 公武合体ではない。朝廷中心の新政。

 薩長土肥の動きを読み、武家政の退潮を、冷静に言語化する。

 「幕府は自然に、朝廷は必然に。剣は過去を守る。文は未来を呼ぶ」

 言は美しく、よく通る。

 美しい言ほど、危うい。

 危うい言は、旗の布に細い裂け目を作ることがある。

 裂け目は、最初は風しか通さない。

 風が通えば、布はよく揺れる。

 よく揺れれば、美しい。

 美しいまま、薄くなる。


 土方は、番を増やした。

 『口上控』に小注――「言で人を束ねるのは、われらの役。言で人を連れてゆく他の棒を座に立てるな」。

 「旗は割れる」

 彼は、近藤に低く言った。

 近藤はしばらく黙し、やがて頷く。

 「だが、今は使う。京も江戸も、言葉で揺れておる。剣だけでは拾いきれぬ」

 剣の行政は、傘の骨。

 文の行政は、屋根の瓦。

 骨だけでは雨をはじけず、瓦だけでは柱が立たない。

 柱は、順番でできている。

 紙で斬れ。

 座で斬れ。

 最後に、刀で斬れ。

 その順番を、伊東は筆で助け、土方は番で守る――いまのところは。


     *


 西本願寺の器は、風の入口を作るのがうまい。

 伊東は、門のところで、入口をひとつ増やした。

 そこから、涼しさも、寒さも、香りも、塵も入る。

 空気は澄んだ。

 同時に、落ち着かなくなった。

 落ち着かなさは、旗の布に静電のような細いざわめきを乗せる。

 ざわめきは、紙の端にも移る。

 紙がざわめけば、印の赤は遅く乾く。


 ある午後、伊東は取り調べの場に座した。

 座は、見せる座として整えられている。

 名→用向→座→紙→顔。

 伊東は、この順にわずかに息を足した。

 「名は声で、用向は拍で、座は目で。紙は字で、顔は角度で」

 角度――声の高さ、目の線、膝の向き。

 角度がある座は、刃の出番を遠ざける。

 遠ざかった刃は、重くなる。

 重くなった刃は、価値になる。


 夜、灯のしたで、伊東は筆を置き、庭の闇を見た。

 「誠の旗――よい名だ」

 独り言のようだった。

 「だが、誠は、誰の誠か」

 その問いは、まだ誰にも聞こえていない。

 しかし、問われた瞬間から旗は少しだけ重みを増し、揺れやすくなる。

 重さは、布にしなを作る。

 しなのある布は美しい。

 美しい布は、裂けやすい。


     *


 酒席の端で、もうひとつの入口が開いた。

 小さな講義は、やがて小さなサロンになった。

 詩を掲げ、書を比べ、政を談ず。

隊士の中には、伊東を慕う者が現れ、筆を執る者が増える。

 「剣の稽古の後に、筆の稽古」

 沖田は笑って、若い者を背で押す。

 「拍は、剣にも筆にもある」

 だが、永倉は盃の影で眉を寄せ、原田は笑いながらも目を細くする。

 「天秤の音が増えた」

 天秤は、便利だ。

 だが、天秤は、先に置かれると、旗の棒の重さまで量り始める。


 伊東は、薩長の紙の風を、あからさまに嫌わなかった。

 嫌わぬどころか、その風の身のこなしの良さを、言葉で描写した。

 「戦わずして勝つ道。文で人を動かす術」

 彼は腕を組み、うすく笑う。

 「幕府は自然に退く。朝廷は必然に進む。われらは、過渡の棒」

 土方は黙って聞き、紙の端で指を止めた。

 棒は、過渡にも要る。

 要るが、「過渡」と名指される棒は、冷たくなる。

 冷たさは、布の温度を奪う。


 その夜の評議で、土方は補条を増やした。

 『講義之義・座中心得』

 ――「思想は座の外で。座の内は、順番」

 ――「順番を崩す言は、刃に等し」

 ――「刃は最後」

 伊東は目を伏せ、笑い、軽くうなずいた。

 「順番、承知」とだけ言った。

 承知の声は、柔らかい。

 柔らかい声は、風を通す。

 風が通れば、入口は広がる。


     *


 捕者の場で、伊東は刃を遠ざける術を見せた。

 密談の噂が立った茶屋で、座が開かれる。

 永倉が横を塞ぎ、原田が裏口を抑え、島田が肩で横の足を崩す。

 名→用向→座→紙→顔――

 伊東は、顔を先に出した。

 「聞き及ぶところあり。だが、まず顔を立てる」

 順番を崩した。

 崩したのに、座は崩れなかった。

 場がそれを受け入れるほど、彼の声は温度を持っていた。

 温度のある声は、順番を一度だけ逆送りにできる。

 逆送りが効けば、刃の出番はまた遠のく。

 遠のけば遠のくほど、刃は重い棒になる。


 土方は、帰り途で短く言った。

 「……天秤を、座の内で振るな」

 伊東は笑った。

 「振っておりませぬ。目で量っているだけ」

 目で量る――それは、秤より厄介だ。

 目は、座の外でも振れる。


 沖田は、二人の背を見送り、袖に咳を沈めた。

 咳は、夜に深い。

 深い夜ほど、彼は笑いを置いた。

 笑いは拍。

 拍は、隊の心臓。

 心臓が温かい限り、誠の字は布に出さずとも揺れる。

 ただ、その揺れの振幅が、少し大きくなっているのを、彼は感じていた。


     *


 名の話が、再び上がる。

 近藤の器は、いよいよ大きくなるべき時に来ていた。

 由緒、格式、旗印の正統。

 伊東は、紙の上で案内をした。

 「この名なら、礼に叶う。あの名なら、信用が下りる。この名なら、顔が立つ」

 天秤の皿に名を載せ、角度で勧める。

 土方は、一言だけ置く。

 「器に入る水は増えるが、漏れる口も増える」

 伊東は応える。

 「漏れ口は、文で塞げます」

 土方は、紙の端で指を止めた。

 文で塞げぬ漏れ口を、いくつも見てきた。

 塞げぬ口から、風が入る。

 風は、入口を出口に変える。


 夜の回廊で、伊東は庭の闇を見た。

 「旗の誠」

 彼は、ほとんど唇を動かさずに発音し、

 「誰の誠か」

 と続けた。

 問いは、まだ空にしか響かない。

 だが、問いの影は、座の隅に残る。

 影は、人の胸で育つ。

 育てば、答えが欲しくなる。

 答えは、旗の布に書けない。


     *


 冬の底、講和の文が定着し、京の音は一段低くなった。

 低い音は、静謐に似ている。

 静謐は、嵐の礼儀。

 西本願寺の鐘が、乾いた空に長く響く。

 引き潮の足音が遠のくほど、砂は広く、石は多く、貝は光る。

 貝を拾う指は、文字に似る。

 文字は美しい。

 美しい文字は、刃の角度を曖昧にする。

 曖昧は、順番の敵だ。


 土方は、補条にさらに小さな句を足した。

 ――「美は座の外で。座の内は、順番」

 ――「順番の背に、温度」

 ――「温度の背に、覚悟」

 印はゆっくり乾き、乾く間に、伊東の講義が一つ増え、若い者の手習いが二つ増えた。

 増える手習いは、旗の布の湿りになる。

 湿りは、火を遠ざける。

 火が遠ざかるほど、風は入りやすい。


 ある晩、沖田が伊東に問うた。

 「先生。順番は、文にもありますか」

 伊東は笑って、少し考えた。

 「ある。名→用向→座→紙→顔――君たちの順は美しい。だが、世の順は、時に違う」

 「違えば?」

 「変える」

 「誰が?」

 伊東は、庭の暗がりを見た。

 「言が」

 沖田は笑って頷き、袖に咳を沈めた。

 咳は、答えにならない。

 答えにならぬものが、夜を長くする。


     *


 西本願寺の区画は、伊東の風で少しだけ角度を変えた。

 稽古場の脇に「筆合」の座が生まれ、兵具庫の隣に「文庫」の間ができ、調練路の終いに「小講」の幕が張られた。

 紙は増え、声は増え、刃の歌は短くなった。

 短い刃の歌は、重い。

 重い刃の歌は、価値だ。

 価値は、狙われる。

 狙われるほど、入口は出口になりやすい。


 伊東は、門で一度立ち止まった。

 入ってきた風の通り道を、目でなぞる。

「入口は、口でもある」

 彼は、独り言を落とし、灯の下へ戻った。

 灯は、紙を白くし、影を濃くする。

 影が濃くなると、芯が見える。

 芯は、向きを変える時に音を立てる。

 音は、まだ小さい。

 小さい音ほど、遠くまで届く。


 その夜半、土方は紙の端に、薄く一行を加えた。

 ――『入口ハ、出口ニ通ズ。入口ノ番ヲ堅クスベシ。文ノ入口、剣ノ番。剣ノ入口、文ノ番。』

 筆は、わずかに躊躇した。

 躊躇は、人の温度だ。

 温度があるうちは、旗は折れない。

 折れない旗の布の裏で、拍が静かに増えた。


 鐘が鳴り、冬の空気が薄く震えた。

 伊東の言は、まだ座を割ってはいない。

 まだ――だ。

 風は、入口から入る。

 涼しさも、寒さも、香りも、塵も。

 そのすべてを抱えながら、新選組の空気は澄み、そして、落ち着かなくなっていった。

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