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誠の旗、五十の刃 ―新選組血風録―  作者: 妙原奇天


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第二話 芹沢鴨との邂逅

 京の風は、江戸と違って乾いて刺す。

 石畳にからみつく煤の匂い、鴨川の底に沈む冷えの層、町筋を抜ける足音の速さ――どれもが、浪士組を招き寄せておきながら、同時に突き放しているようだった。


 壬生の八木家に屯所を定めて数日。近藤勇は、朝の縁に腰をおろし、濡れ縁をわずかに濡らす露の粒を払った。庭の椿は花の色を深めている。だが、ここは花を眺めるための庭ではない。靴音が土を掘り、木刀が空気を裂き、夜の気配は血の匂いに変わる。

 「勇さん」

 襖の陰から、井上源三郎が静かに現れる。歳の功で、人の声の高さでその日の空模様を読む男だ。

 「今日、会津からの使いが来る。芹沢殿と、その一党も同席なさる由」

 近藤は短く頷き、口の中で言葉を転がした。――芹沢鴨。

 その名は、京の下駄音よりも先に耳に入っていた。水戸の血気、奔放、そして剛。夜更の乱行を見咎めた者は、翌朝にはいなくなる。噂はどれも行き先を持たないまま、壬生の空に溜まっている。


 廊下の向こうで、沖田総司が稽古着の紐を結んでいる。目が合うと、あどけない笑みが返ってきた。

 「すごい人らしいですね、芹沢さん」

 「すごい、の中身だな」

 近藤が言うと、奥から土方歳三が現れた。黒の羽織は皺ひとつなく、視線は刃物のように薄い。

 「すごさは扱い方を誤ると厄介だ。桶が小さければ、水は溢れる」

 「桶を大きくすればいい」

 勇が笑って返すと、土方は口の端だけで笑い、煙管の先を軽く叩いた。


     *


 八木家の座敷は、朝の光を撥ね返して白い。

 会津藩の目付が座を占め、その左右に浪士組の面々が控える。片側には近藤、土方、山南、沖田、井上、永倉、原田――天然理心流の名――もう片側には、芹沢鴨、平間重助、野口健司、そして新見錦ら水戸派。

 芹沢は一目で場を所有した。背はさほど高くないのに、座り方が大きい。膝の開きが獣じみて、背筋は弓のように反っている。額の皺は深く刻まれ、眼は笑っても笑っていない眼だ。

 「会津公御預かりの御用、壬生浪士組――」

 目付が口上を述べる間、芹沢はじっと相手の歯音を数えているように見えた。やがて合図が終わると、彼は朗々と、しかし乱暴に言った。

 「治安は剣でしか戻らん。狼が徘徊する夜に、経文を唱えても朝には齧られている」

 近藤は軽く頭を下げ、「剣は秩序のために」と返す。

 芹沢は鼻で笑う。「秩序は剣の副産物だ。まず剣の威。威があれば、民は黙る」

 威――その言葉は、座にいる者の喉に小石のように引っかかった。土方は瞬きを一度だけして、それきり動かない。言葉に刃を当てて、刃こぼれを確かめている顔だった。


 山南が穏やかな声で口を出した。

 「威は必要でしょう。ですが、威は怖れと紙一重です。怖れは恨みを孕み、恨みは夜陰に化ける。僕らが相手にすべきは、夜陰の顔ではないはず」

 「お前はよく喋るな」

 芹沢の眼が笑った。「言が刀の上だと? 刀の上で踊っていられるのは、刀が鈍らぬうちだけだ」

 沖田がわずかに眉を上げ、永倉が膝の上で拳を握り、原田は槍の代わりに空気を掴んでいる。緊張は音のない合戦のように座敷を走った。


 会は取り繕った調子のまま散じたが、壬生の空はひとつ重くなった。

 「近藤さん」

 引き上げてくる廊下で、土方が低く言う。「あれは風だ。正面から押さえれば、家が軋む。風が抜ける道を考えろ」

 「道?」

 「放蕩の口実を潰し、乱暴狼藉の筋を切る。やつの威が“御用”の枠に収まるように、柵を先に打つ」

 近藤は黙ってうなずく。己の胸のうちで、剣と柵が噛み合う音がした。


     *


 京は、夜に顔を変える。

 夕刻、壬生から三条へと出ると、暖簾が灯を含み、路地の影が濃くなる。木屋町の流れは闇に光り、小間物屋の娘が戸を閉める。

 「今日は下がれ」

 土方が若い者を帰し、沖田と二人だけで通りを歩いた。

 「副長」

「ああ」

 「さっきの座で、芹沢さんは僕たちを試していましたね」

 「試す、というより、自分の使い心地を測っていた。あの手の男は、自分が刀かどうかにしか興味がない」

 「刀?」

 「刀は鞘無しでは生きられん。抜きっぱなしなら、やがて折れる」

 沖田は笑って頷いた。「なら、僕らが鞘ですね」

 土方は返事をしなかった。彼の目は、川べりの一団に止まっていた。酔いの勢いに任せて路地の男を蹴りつける影。荒い笑い。白い息。

 「水戸の連中だ」

 近づくと、ひとりが振り返って、にやりと笑った。

 「おう、壬生の坊ちゃんがた」

 「御用改めだ」

 土方の声は氷のように冷たかった。「乱妨狼藉は御法度。名を名乗れ」

 「名? 芹沢様の威光を知らぬのか」

 刹那、沖田の体が溶けた。雪が風に融けるみたいに、前へ。相手の腕の筋を掴み、手首を返して地面に沈める。刃は抜かない。ただ、低く。

 「名を」

 男の歯が鳴り、夜風が音を攫う。

 「――平間……」

 「重助殿の手の者か」

 土方は短く頷くと、懐から紙片を出して男に見せた。会津の目付の記した“浪士組取締細目”。まだ墨の匂いが新しい。

 「今夜の狼藉は、ここに記す。明朝、芹沢殿に届ける。次は“ここ”では済まない」

 土方の指は紙ではなく、男の眉間を指していた。

 男は舌打ちをひとつ残し、影の群れは水に溶けるように散った。

 「副長」

 沖田が小さく笑う。「紙で斬るのも、悪くない」

 「紙で斬れぬ時は、刀で斬る」

 土方の声は低い。「順番を決めるのは、こちらだ」


     *


 翌日、八木家の座敷に芹沢が現れた。

 「昨夜の話は聞いた」

 彼は座するなり、酒を求めた。朝からの酒。盃は一息で空になる。

 「会津の細目がどうした。紙は紙だ。夜の京は紙では拭えない」

 「拭えません」

 近藤が正面から言った。「拭えないからこそ、まず紙に落とす。筋を立てる。筋が無ければ、俺たちの斬り口はただの乱暴です」

 「乱暴でいい」

 芹沢の声が笑い、座敷の柱が一度だけ鳴った。「乱暴こそ、乱れた世を戻す唯一の言葉だ」

 言い終わらぬうちに、彼は立ち上がり、座敷の端の小箪笥を蹴り倒した。小さな音がはね、引き出しから帳面がこぼれる。紙は白く、空気は乾いている。

 「……昨夜の狼藉は、これで帳消しということに?」

 山南が静かに問うと、芹沢は大きく笑った。

「苦情は明日まとめて聞いてやる」

 土方の眼がわずかに光り、近藤の額の血が温度を上げた。

 その場はそれ以上、荒れなかった。荒らさなかった――と言うべきだろう。だが座の空気は、薄い氷の上を歩くみたいに緊張したまま、昼を過ぎた。


     *


 京の町は、目に見えない境界線で満ちている。

 この辻を一本越えれば長州の影、この角を曲がれば薩摩の息、この寺の回廊には会津の足音――政治の線が石畳の下で光っている。浪士組は、その線の上を歩くよう命じられているのだ。

 夜半、火の手が上がった。場所は木屋町のはずれ。酒蔵の板戸が赤く染まり、男の叫びが風に散る。

 「行くぞ」

 土方の一声に、沖田、永倉、原田が続く。近藤は殿に回って後詰の段取りを指示した。

 火は派手だが、火筋は浅い。誰かが見せるために点けた火――土方は鼻で判じる。蔵の陰に、複数の足音。

 「出ろ」

 声の先に現れたのは、昨夜の面子に別の影が混じった群れ。

 「また壬生の坊ちゃんか」

 「坊ちゃんでも、御用は御用だ」

 永倉の声音が低く沈む。「火付けは斬首。覚悟はあるか」

 「覚悟ならある」

 暗がりから、別の声が割って入った。芹沢だった。

 「火は、恐怖に一番よく効く薬だ」

 「薬は分量を違えれば毒です」

 山南が駆けつけて低く言う。

 「毒で良い」

 芹沢は笑い、袖口で汗を拭った。「毒でしか治らぬ病が、京には蔓延している」

 その刹那、土方が一歩踏み出した。踏む音がひとつ。足の幅が戦の幅になる。

 「芹沢殿。昨夜の記録、今夜の火付け、明朝、会津と町奉行所に届ける。以後、この手の“薬”は御用の外で扱うな」

 「外?」

 「ここは御用の中だ。御用の中の毒は、俺が責任を取る。外で撒くなら、斬る」

 芹沢の眼が、初めて笑うのをやめた。

 沈黙。火のはぜる音。遠くで鳴る町太鼓。

 やがて芹沢は肩を一度だけ震わせ、踵を返した。

 「好きに記せ。紙で腹は斬れぬ」

 影が散る。火は手早く消され、焦げた木の匂いだけが夜に残った。


     *


 翌朝の八木家。

 近藤は帳面の前で筆をとった。会津への報告。夜警の巡回路。火急時の合図。乱暴狼藉の処置。

 筆は刀ほど派手ではない。だが、刀の斬り口を正当化する筋を紙に残すのは、組の心臓の鼓動に等しい。

 「土方君」

 山南が目を上げる。「昨夜の言い回しは、強かった」

 「強くせねば伝わらぬ相手だ」

 土方は目を落としたまま言い、紙に小さく“順”の字を書き添えた。

 「順番を間違えれば、刀はすぐに“ただの暴力”に堕ちる。順を守って暴れる。これが俺たちのやり方だ」

 「暴れるのは、やはり避けられないのだな」

 山南の顔に影が差す。

 「避けられる暴れと、避けられぬ暴れがある」

 土方は筆先を拭い、静かに微笑んだ。「お前は、避けられる暴れをすべて避ければいい。俺は、避けられぬ暴れをすべて引き受ける」

 その言葉は、彼自身の未来への密かな判決でもあった。


     *


 数日をおかずに、芹沢一派の酒宴が開かれた。

 招きは広く、上洛したばかりの浪士ども、町の顔役、商人、芸妓。八木家の座敷は夜更まで笑いと盃で満ち、廊の障子に影が踊る。

 近藤たちは、断り切れずに座の端に連なった。

 「ちと、見物だ」

 永倉が杯を受け、原田が味を確かめる。沖田は盃に指を添えたまま、ほとんど口をつけない。土方は最初から水を所望し、山南は途中で席を外して帳面を見に行った。

 中央で、芹沢が大笑している。芸妓の扇を取り上げ、唄に無体な節をつけ、笑いの狙いを席の弱い者に向ける。笑われる者は笑うしかない。笑っても、笑わなくても、傷になる。

 「おい、壬生の坊ちゃん」

 芹沢が扇をこちらに向けた。「昨夜の火、紙に書いたか」

 近藤は盃を置き、静かに頷く。「書いた。会津にも、町奉行にも」

「よう書いた」

 芹沢はにやりと笑い、扇で座の端の若者の頭をひとつ叩いた。

 「痛いか?」

 若者は顔を強ばらせ、笑ってみせる。

 「笑うな。痛いなら痛いと言え」

 座が凍る。

 近藤が立ち、扇を受け取って畳に置いた。

 「芹沢殿。座は座らしく」

 「座らしく?」

 「乱れれば、座は崩れる。崩れた座は戦になる」

 芹沢はしばらく近藤の顔を見て、それから盃をつかみ、酒を流し込んだ。

 「よかろう。今夜は崩さぬ」

 言葉の最後に、かすかに“まだ”がついていた。


     *


 壬生寺の鐘は、夜の深さを告げるより先に、心の浅さを打つ。

 その夜更、近藤と土方は座敷を抜けて廊に出た。風が酔いを冷やす。

 「副長」

 「うむ」

 「芹沢さんは、俺たちの正面に立っているというより、俺たちの背に回ろうとしている」

 「背か」

 「背は、刺しやすい」

 土方は首だけで頷いた。「背を守るのが、俺たちの順番だ」

 「守り切れるか」

 「守る。守れなきゃ、順番を変える」

 「順番?」

 「背を出さぬように、座の形を変える。連中の放縦を“御用の顔”に巻きつける。縛りすぎれば噛む。緩めすぎれば崩れる。綱の張り具合を見ろ」

 近藤は肩を回し、息をひとつ吐いた。

 「やれる」

 断じる声は、しかしどこか自分にも聞かせている響きだった。


     *


 翌日の昼前、突然の呼び出しがあった。

 先の酒宴で笑いものにされた若い者が、夜明けに井戸で首を括っていたのだという。

 座は一気に冷えた。人が死ねば、笑いは嘘に変わる。

 近藤は遺骸の前に座し、黙礼した。顔はまだ温い。畳に落ちる影の輪郭が、やけにくっきりしている。

 「記す」

 土方が短く言い、山南は筆を取った。

 「誰も、彼の名を笑いで消すことはできない。紙に残す。名を残す」

 沖田は静かに目を伏せ、永倉は歯を食いしばり、原田は拳を握って指の骨を鳴らした。

 芹沢は現れなかった。

 ――現れないというふるまいもまた、威である。

 近藤はそのことを、遺骸の冷えに手をのせながら、痛いほど理解した。


     *


 日が傾くころ、雨が降り始めた。

 壬生の土は水を吸い、庭の石が暗くなる。

 縁に腰かけた近藤の隣に、土方が座った。雨の筋を目で追い、彼は言う。

 「芹沢の威は、民に恐怖を、隊に軋みを、御用に隙を生む」

 「なら、どうする」

 「威を“仕事”に変える。変わらねば、切る」

 近藤は頷いた。

 「切るなら、俺が立つ」

 土方は目を細めた。「順番だ。立つ順は、最後に決める」

 雨脚が強まる。軒に吊るした風鈴が鳴り、濡れた庭に赤い椿がひとつ落ちた。

 落ちる音はしない。だが、落ちたという事実だけが冷ややかに残る。


     *


 夜半、巡察の合図で起こされた。

 木屋町の外れ、茶屋の前に血の筋。争いの跡。

 「斬り合いだな」

 永倉が刀の柄に手を置く。

 「いや、斬り合いに見せた殴り」

 土方が地面に膝をつき、指先で血の広がりを撫でる。「刃の跳ねがない。鈍器だ」

 「誰が」

 「威を見せたい者」

 返事の代わりに、路地の奥で笑い声が弾けた。

 芹沢の影が、提灯の灯りの外に立っていた。

 「おお、壬生の坊ちゃん。夜回りご苦労」

 「御用だ」

 近藤は一歩前に出る。「これ以上の狼藉は、名を貶めるばかりだ」

 「名?」

 芹沢は笑い、前に歩み出て、灯りの縁を踏んだ。

「名を欲しがるのは、まだ若い証拠だ。名より先に、恐れられろ。恐れられれば、名は後からついてくる」

 「恐れられただけの名は、すぐ嫌われる」

 沖田が静かに言った。「嫌われた名は、長く生きない」

 芹沢は沖田の顔を見、ほんの少しだけ目を細めた。

 「面白い目をしている。お前は早く死ぬ」

 沖田は笑って、何も言わなかった。

 土方が前へ出る。「本題だ。今夜のこれは、お前がやったか」

 「俺でないなら?」

 「記す。明日、御用の席に出せ」

 「出さぬなら?」

 「――斬る」

 膝の間に落ちた言葉は、よく研がれていて、光らなかった。

 芹沢は初めて、声を立てずに笑った。そして、背を向けた。

 「明日話そう。火は消した。血も拭え。紙にでも書いておけ」

 影が去る。

 夜は、またひとつ冷たくなった。


     *


 翌朝、八木家の座敷。

 会津の目付と、浪士組の面々。

 芹沢は遅れて現れ、無言で座についた。

 目付が口を開く前に、土方が帳面を差し出す。

 「昨夜の件、名前、時刻、場所、形跡。これが筋」

 目付は帳面を繰り、短く頷いた。

 「以後、狼藉は厳罰に処す。名において」

 その“名”がどの名を指すのか――会津か、浪士組か、芹沢か――座の誰もが、理解していながら言葉にしなかった。

 芹沢は帳面に目を落とし、やがて唇の端をわずかに上げた。

 「紙で斬ると言ったな、副長」

 土方は何も言わない。

 「斬られた傷は、夜、疼く」

 芹沢は立ち上がり、座を出た。

 残された空気は、雨上がりの土の匂いがした。


     *


 その日の午後、近藤は庭で剣を振った。

 振りは高からず、低からず。息は浅からず、深からず。

 刃はまだ、人を斬るために研がれている。だが、斬らずに済む日があるなら、それに越したことはない。

 縁に腰を下ろし、汗を拭うと、山南が膝を進めた。

 「近藤さん。あなたは“誠”という字を、旗に掲げたいのだね」

 「まだ旗はない」

 近藤は笑った。「だが、旗があれば、皆の目の高さが揃う」

 「芹沢さんは、旗を嫌うだろう」

 「旗は、目印だ。嫌う者には目印がいらないかもしれない」

 山南はうなずき、庭の椿を見た。

 「目印は、風で折れることがある。折れたとき、どうする」

 「折れた旗は、畳んで持つ。持って歩けば、また立てられる」

 「誰が持つ」

 「皆で」

 山南は目を閉じた。「皆で、は最も難しい」

 近藤は頷き、柄に手を置いた。

 「難しいことをやるために、ここにいる」


     *


 夜の入口の色になるころ、沖田がふいに咳き込み、袖口を口に当てた。薄い紅が滲んだ。

 「総司」

 近藤が振り返る。

 「大丈夫ですよ」

 沖田は笑って、袖をしっかりと握った。「少し、冷えただけです」

 土方がこちらを見た。目は何も言わない。だが、その沈黙の重さが、言葉の代わりだった。


     *


 芹沢は、いつ、どこで、どれほどの無体を働くのか――予測がつかないこと自体が、彼の威だった。

 だが、その威の輪郭が、ゆっくりと紙に写り取りされていく。

 巡察の地図に、細い朱が増える。

 御用改めの記録に、同じ筆跡の名が重なる。

 若い者の間に、言葉ではない視線の合図が身につく。

 「これが“組”になるということだ」

 土方が呟くと、近藤は静かに頷いた。

 「組にする。乱暴でも、乱戦でもない。“組”に」

 「芹沢殿は、組を嫌う」

 「嫌うなら、なおさら組にする。組は盾だ。盾があれば、誰かの命が一日延びる」

 近藤の言葉は、遠い未来にいる自分に向けられているようにも聞こえた。


     *


 雨は上がり、壬生に月が戻った。

 八木家の座敷には、まだ酒の匂いが微かに残っている。

 この屋敷で多くの笑いと怒号が生まれ、多くの決断がなされ、やがて幾つかの命が終わる――未来の気配は、もう確かにここにいる。

 近藤は縁に立ち、夜の庭を見下ろした。

 「土方」

 「うむ」

 「芹沢さんは、いつか――」

 言いかけて、やめた。

 「順番だ」

 土方が言った。「まだ、その話を口にする順じゃない」

 庭の暗がりで、椿がもうひとつ落ちた。

 音はやはり、しない。


 明日は巡察。

 紙は増える。

 剣の紐は固く結び直される。

 嵐の前の、空気の密度を、全員が肺の奥で感じている。

 風は、まだ吹いていない。だが、吹く。

 吹いたとき、誰が立ち、誰が座り、誰が紙を取り、誰が刀を抜くのか――

 順番は、決められつつあった。

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