第十四話 再征の太鼓、引き潮の足音(後篇)
鐘の音は、乾いているのに、どこか濡れて響いた。
西本願寺の大屋根の下で、新選組は「軍」に近づくための最後の縒りを加えていた。紙は太り、列は締まり、声は拍に落ちる。剣の柄は磨かれ、鉄砲の銃床は肩でなく踵で受けられるよう癖づけられ、隊列は呼吸ひとつで形を変える。
紙の上に描かれた順番は、もはや訓令ではなく、身体の節になりつつあった。
土方歳三は、区画の角に立って風を読むのが癖になった。兵具庫に続く回廊の曲がり角、厩の脇を抜ける細い風、調練路の石畳で反射して戻ってくる逆風。風は、紙の余白からも出入りする。
『兵站控・一本化』の最終稿に、彼はさらに小さな条を足した。
――「顔の席次、雨夜の別。銭の箱は座の内、刃は座の外。名は末尾、刀はその末尾。」
墨が乾くあいだ、冷えた水の温度が紙の上に残る。乾いたとき、温度は文の芯に沈み、読んだ者の胸をひと拍だけ低くする。
鉄砲伝習は、実地に移った。
長崎帰りの渡世者が持ち込んだ古い蘭書、江戸の講武の写本、会津から回ってきた口伝――それらを土方は「順番」に翻訳した。
装填の拍は二つ、狙いの呼吸は三つ、号令の間は半拍を置く。
「声で撃たない。息で撃つ」
沖田総司が、若い者の耳に口を近づけて囁く。「息の出口が狭くなると、目も狭くなる。目が狭くなると、刃の出番が早くなる」
咳は、冬の底で深まったり、ふいに浅くなったりする。浅く見せる術は身についた。だが、浅く見せるたびに、胸の奥の拍がひとつ余計に使われる。
「総司、息の拍は残しとけ」
井上源三郎が帯を結び直し、結び目の固さで笑う。「結び目が拍だ」
永倉新八は鉄砲を“怖がる”顔をした若い隊士をからかい、笑いで恐れを薄め、原田左之助は槍を持たぬ手で肩を叩き、藤堂平助は軽い声で重い荷の担ぎ方を配る。
軍の形は、剣豪の個の輝きを消すのではない。個の拍を、隊の拍へ移す術だった。
捕者の夜も、形を変えた。
倒幕の文は地下を走り、金は帳面を素通りし、人は座の外でいきなり消える。
山崎烝は紙の「匂い欄」に新たに「湿り気」「煤け」「油光」「蝋**」の段を増やし、島田魁は影のまま横の足を崩す。
「座に来ぬ手は、座を持っていく」
土方は『闇働ノ条』に添え書きした。「見えぬ働きには、見える座を先に置け。名は聞かず、気配を聞け。気配で紙を起こし、紙で顔を呼び、顔で銭を動かし、銭で刃を遠ざける。」
座に来た者は、たとえ敵筋であっても、拍の上に乗る限り、斬りにくくなる。
斬りにくくすることが、剣の価値を上げる――紙の刃はそう書いてある。
講和の噂は、前線から遅れて届き、届くたびに匂いを変えた。
恭順の芝居、赦免の条件、兵の引きどころ。
「戦わずに済むなら、それでいい」
沖田は笑う。子らの前では、とりわけ明るく笑う。木刀の先で紙風船をつつき、半歩で止まり、目で止まり、声で止める。
しかし、土方は笑わない。
「戦わずに負けるなら、最悪だ」
同じ言葉を、同じ温度で何度も置く。置くたびに、紙の上に小さな柱が一本ずつ立っていく。
柱は、屋根を支える。
屋根は、雨をしのぐ。
雨の中で、剣を傘に替える術はもう手に入った。だが、嵐が来れば、傘は骨だけでは持たない。骨に、柱が要る。
その柱の一本として、名の話は避けられなかった。
「近藤勇」の二字は、すでに旗の芯であった。
けれど、由緒と格式という外形の棒を足す必要は日に日に増し、会津の顔、町の信用、寺社の礼、蔵屋敷の帳尻――皆がそれを求めた。
「名跡に入るか、入らぬか」
夜の座で、幾度めかの話が出る。
土方は、水の分け前を量るように言葉を置く。
「名は器だ。器が大きくなれば、水は増える。だが、漏れる口も増える。漏れ口の番は、結局、人だ。人は、温度だ。温度は、疲れで奪われる」
「疲れは、笑いで薄まる」
沖田が笑って返し、永倉が「なら毎晩飲み放題だ」と肩を鳴らし、原田が鼻を鳴らして「槍は見せるだけで効く」と茶を飲む。
笑いは拍。
拍は、隊の心臓。
心臓の温度は、名の重さを支える最初の棒である。
西本願寺への移転は、旗を高く掲げずに済む代わりに、見られることを受け入れる場でもあった。
「監視される器」――土方の言は、紙の端に残ったまま消えない。
回廊の影から、たしかに目が増えた。
城方の目、寺社の目、町の目、商家の目、諸国の目。
目が増えるほど、顔の順番が大事になる。
顔の順を違えると、紙は乾かない。
乾かぬ紙は、風に捲れ、噂に変わる。
噂は、剣より速く走る。
噂が先に着いた地で、剣は遅刻になる。
遅刻の剣は、正しさを持っていても、温度を持っていない。
その噂の先に、講和の実があった。
長州は恭順の姿勢を整え、条件は軽く見せられ、諸藩は安堵の吐息を紙の上に落とす。
京の空気は、いっそうきな臭く、しかし静かになった。
静謐は、嵐の前の礼儀だ。
鐘の音が、乾いた冬空に遠く響く。
引き潮の足音が、さらに遠のく。
潮が引けば、浜の形が露わになる。
露わになった石に足をとられぬよう、歩幅を半歩にする。
半歩は、斬らない構えの基本だ。
斬らない構えは、刃を鈍らせるのではない。刃を最後に置く場所を守るのだ。
市中地下戦は、その静けさの中で濃くなった。
文が動き、金が流れ、人が消える。
捕者をもってしても捕まらない「働き」が増える。
土方は、座の拡張で応じた。
寺社の別当を「座主」に見立て、蔵屋敷の勘定を「帳の番」に置き、問屋の年寄を「顔の証人」に据え、橋の袂に合図の間を変える小屋を置く。
「刃を遠ざけるための屋根だ」
彼は、屋根の柱の位置を石畳に白線で引き、合図の拍を一段早めた。
雨が来ても、屋根はすぐ立つ。
屋根が立てば、刃は要らない夜が増える。
要らない夜が増えるほど、刃は重くなる。
重くなった刃は、価値を増す。
近藤の名は、いよいよ器を求める段に入った。
会津からの斡旋は、旗の正統を支える棒になりうる。
町の信用は、布の湿りを保つ。
寺社の礼は、棒の節を増やす。
蔵屋敷の帳尻は、屋根の瓦を整える。
土方は、紙の余白にもう一度だけ小さく書いた。
――「器に入る水は増えるが、漏れる口も増える。」
彼の目は、その「漏れる口」に番を置く者の名を順に数え、最後に自分の指を折った。
番は、外ではなく、内に立つ。
前線から、講和の文が確報として届いた。
「兵、還るべし」
文字は軽いふりをしているが、紙は重かった。
重い紙は、地面に接する面積が広い。
広い面積は、摩擦になる。
摩擦は、火を生む。
火は、順番を焼く。
焼け跡で、旗は布に出ず、胸の骨の裏で揺れた。
沖田は、その揺れに合わせて柄の感触を確かめ、咳を袖に沈めた。
「斬らずに済むなら、それでいい」
そう言った笑いは、今夜は少し小さい。
小さい笑いは、拍だ。
拍は、隊の心臓。
心臓が温かい限り、旗は折れない。
鐘が鳴った。
西本願寺の鐘は、乾いて遠く、細く長い。
鐘の音は、柱音を呼ぶ。
柱音――屋根のどこかで、目に見えぬ重みがわずかに移動し、木が低く応える音。
土方は、耳でそれを聞いた。
「……一本、足りない」
紙の上で立てた柱は、まだ数が足りない。
数ではないのかもしれない。質かもしれない。
質とは、名であり、顔であり、順番であり、温度であり、そして――覚悟だ。
その晩、土方は印をひとつ捺し損ねた。
気づいて戻り、改めて印を置く。
赤は血ではない。
だが、血の代わりに立つ覚悟の色だ。
印が乾くまで、指先の冷えが痛む。
痛みは、歩幅を半歩にする。
半歩は、斬らない構えの拍だ。
拍は、隊の心臓。
心臓が温かい限り、旗は折れない――が、風は、濡れぬまま強くなっている。
名の決断は、翌朝の座で告げられた。
近藤は、膝を正し、短く言った。
「器を受ける。皆で支える」
土方は、うなずいて答える。
「器が大きくなれば、水は増える。漏れる口も増える。番を増やす」
番――それは、紙であり、座であり、顔であり、銭であり、そして、刃である。
刃は最後。
最後に置くと、決めた。
長州再征という太鼓は、胴の皮が乾かぬまま打たれ、音は抜け、講和の名で引き潮に呑まれていった。
引き潮の浜に、新選組は柱を立て、屋根を拵え、剣を傘に替える術を磨いた。
剣の研ぎは済んだ。
だが、剣が斬るべきものは、まだはっきりと姿を見せない。
見せないものに斬りつければ、順番が焼ける。
焼けた順番の上で、旗は折れる。
折らせないために、紙を増やし、座を広げ、顔を並べ、銭を動かし、柱を立て、屋根を支え、拍を身体に入れる。
それでも――鐘の余韻の端に、見えない亀裂の音が混じった。
沖田は、その音に眉を上げ、笑ってみせた。
笑いは拍。
拍は、隊の心臓。
心臓が温かい限り、旗は折れない。
土方は、紙を一枚増やした。
『西本願寺軍中次第・付記』
――『勝チノ設計ニ参レ。片付ケノ座ニ安住スルナ。紙ノ上デ先ニ道ヲ出セ。道ノ上ニ顔ヲ並ベ、顔ノ陰ニ銭ヲ置ケ。刃ハ最後。』
墨は遅く乾き、乾くまでに、冬の光が一度、紙の白の上で跳ねた。
鐘が、また鳴る。
乾いた音は、遠くまで届き、戻ってくる。
戻ってきた音は、柱を撫で、屋根の内側を這い、旗の布の裏で小さく震え、胸の骨の裏で拍に変わる。
拍は歩幅に移り、歩幅は道に刻まれ、道に刻まれた拍の上で、新選組はなお、確かに、進んだ。
太鼓は遠のいた。
引き潮は長くなった。
だが、低い光は足もとを照らし続け、屋根は濡れをはじき、柱は音もなく重みを受け、剣は最後のまま鞘に収められていた。
――嵐が来る前に、順番を守り切れるか。
答えは、まだ紙の上に置かれたまま、乾く音だけを立てている。