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第十四話 再征の太鼓、引き潮の足音(前篇)

 乾いた冬の空に、鐘の音だけがよく通った。

 西から抜けてくる風は、音を細く、遠くへ運ぶ。

 長州再征――その二字四字が、瓦版の墨より前に、人の口の中で音になっていた。

 太鼓はまだ目に見えない。だが、音だけは先に来る。石垣の裏、路地の角、寺社の軒。小さな拍の集まりが、京の底で絶えず脈を打った。


 幕府は、形を整えようとしていた。

 第一次征長の不始末――失策の上に、今度こそ威を立てる。

 布告は固く、言葉は長く、印判は多い。

 だが、土方歳三は紙を手にとって、軽さのほうを先に見抜いた。

 諸藩の足並みは揃わず、朝廷の支持は微妙、薩摩は傍観のような顔つきで座の外側に座り、笑いの角度で内情を示した。

 「太鼓は打たれているが、胴の皮が乾いていない」

 土方は紙の端で指を拭い、短く言った。


 新選組は、京の治安に加えて、後方の連絡、捕者、兵站整理という、見えにくい仕事を増やされた。

 見えにくい仕事ほど、刃の出番は遅い。

 遅い刃は、価値を上げる。

 価値が上がれば、旗は折れにくい。

 理は、紙の上では美しい。

 紙の外では、風が理を薄くする。


     *


 「移る」

 近藤勇の声は低く、微塵も揺れなかった。

 三条屯所は手狭で、膨れ上がった座と紙と人の息をこれ以上は畳めない。

 西本願寺――広い境内、長い回廊、深い軒。

 「広いのは、息継ぎのため。広いのは、監視のためでもある」

 土方は、地図を広げ、境内に区画を引く指を速めた。

 稽古場、兵具庫、厩、調練路。

 調練路は四角くなく、拍に合わせて曲がり、折れ、止まる。

 「隊列訓練、鉄砲教育、書付の流れ――一本化する」

 筆は速く、語は短く、芯は重かった。


 引っ越しの朝、鐘の余韻がいつもより長く聞こえた。

 寺の大屋根は、旗を布に出さなくても、心の旗を高く揺らす。

 だが同時に、木鼻の影に潜む目は増え、廊の床は誰の足音がいつ通ったかをよく覚える。

 「器に入る水は増えるが、漏れる口も増える」

 土方は、区画を引き終えた紙の端に、その一句を小さく書き添えた。

 器は、人を形づくる。

 形は、風に抵抗を生む。

 抵抗は、音を立てる。

 音は、遠くへ届く。

 遠くへ届く音は、時に敵を呼ぶ。


 兵具庫の鍵は二重に、帳面は一冊に。

 鉄砲の手入れは、刀の油と違う油を要する。

 「肩で撃つな。踵で撃て」

 原田左之助が若い者の背を押し、永倉新八が笑いで恐れを薄くした。

 「刀は最後だが、鉄砲は前の拍に来る」

 井上源三郎が静かに言う。「順番は違えど、拍は同じ」

 山崎烝は、火薬の匂いに「湿り」の欄を増やし、山南のいなくなった余白に、細い線で新しい段を作った。

 座の声も、変わってゆく。

 「軍隊の形に染める」

 土方は短く言い、軍中法度の角を指で一度撫でた。

 撫でる手つきは、鞘に刃を返す手つきに似ている。


     *


 征長の前線から届く便りは、遅く、重く、湿っていた。

 拙速。迷走。講和の噂。恭順の芝居。赦免の条件。

 紙は遠くの温度を伝えにくい。

 伝えにくい温度は、匂いに混じる。

 「戦わずに済むなら、それでいい」

 沖田総司は笑って言い、袖で咳を一つ沈めた。

 笑いは拍。

 拍は、隊の心臓。

 「戦わずに負けるなら、最悪だ」

 土方は笑わない。

 笑わない言は、刃の背で立つ。

 刃の背は、冷えた水の温度を保つ。

 冷えた水は、喉を焼かない。

 焼かない喉で、次の紙を増やす。


 市中の倒幕は、地の下を流れた。

 文書が動き、金が流れ、人が消える。

 「斬ってはならぬ顔の見分けが難しくなる」

 山崎が言い、土方が頷く。

 法度は機能する。

 だが、法度は「見える行為」を裁く刃であり、「見えない働き」を斬るには鈍い。

 鈍い刃は、紙を増やすことで磨けることもある。

 増えた紙は、風で捲れることもある。

 捲れた紙は、敵の指にも触れる。

 触れられた紙は、温度を失う。


     *


 西本願寺の広間に、列が引かれた。

 歩幅、歩数、止足の角度、号令の間。

 刀の練度ではなく、体の拍を揃える訓練が増える。

 「刀は最後。歩は最初」

 沖田の声は明るい。

 明るさは、刃の角を丸めない。ただ、座の湿りを保つ。

 「鉄砲は、息の拍を短くしがちです」

 沖田は若い者へ言葉を添え、「深呼吸で、短い拍を長くし直す」と示した。

 咳は、冬に深く、春に浅い。

 浅い日は笑い、深い夜は黙る。

 黙る間に、拍は胸へ沈む。

 沈んだ拍は、刃の歌を短くする。


 兵站の帳面は、土方の字で太らされた。

 米、塩、油、火薬、弾丸、手拭、草鞋、背負子。

 入・出、受・払、日・刻、名・顔。

 「顔の欄を忘れるな」

 土方は繰り返す。「顔は返しの速度だ」

 顔で返れば、紙は早く乾く。

 紙が乾けば、座は崩れない。

 座が崩れなければ、刃は最後に置ける。


     *


 名の話は、火皿の炎が低くなるころに持ち上がった。

 近藤勇――多摩の百姓の倅として生まれた男が、堂々と武門の先頭に立ち続けるために。

 由緒、格式、旗印の正統。

 名跡は、器である。

 「器に入る水は増えるが、漏れる口も増える」

 土方は、昼に書いた一句を夜にもう一度、声で置いた。

 「名は器だ。器は人を形づくる。形は風に抗する。抗えば、音が立つ。音が立てば、狙われる」

 近藤は黙って聞き、やがて短く笑った。

 「重さが欲しい。重い名は、軽い嘘をへし折る」

 土方は頷きつつ、紙の端を押さえた。

 「重さは、支えも要る。支えは、人だ。人は、温度だ」

 沖田が笑いで温度を足し、井上が結び目を固め、永倉が大声で軽さを散らし、原田が肩で横の拍を押さえ、藤堂が若さで空気を換え、山崎が耳で風を読む。

 「名は、皆で背負う」

 土方の言は、冷えた水の温度で落ちた。


 周囲も、名を求めた。

 会津は「顏の立つ名」を、町は「信用の降りる名」を、寺社は「礼に合う名」を、蔵屋敷は「帳尻に載る名」を。

 名は、鍵でもある。

 鍵は、門を閉じも開きもする。

 鍵を回す手が迷えば、門は半開きになる。

 半開きの門は、風を呼び、紙を捲り、火を引き込む。

 火は、順番を焼く。

 焼け跡に名だけが立っても、温度は戻らない。


     *


 捕者の夜は、寺の影が深い。

 倒幕の文は、今や金の匂いで包まれている。

 「斬ってはいけない顔」が、帳場と座敷の間に増えた。

 山崎は影で合図の間を数え、島田魁が肩で逃げ足の横の拍を崩し、沖田が笑いで刃の出番を遠ざける。

 「座に乗せる」

 井上が低く言い、土方が短くまとめる。

 しかし、座に来ない手がある。

 座に来ない手は、紙の下を行く。

 紙の下を行く手は、匂いで追うしかない。

 匂いは、薄く、遠い。

 薄く、遠いものを斬る刃は、法度ではない。

 法度は、座の上の刃だ。

 座の下へ、刃は届きにくい。


 土方は、補条を立てた。

 『闇働ノ条』――「名」「顔」「銭」「紙」のいずれかが触れない働きについて、座の延長で扱う例規。

 「見えない働きには、見せる座を当てる」

 見せる座――名を先にしない、顔を先にしない、気配を先にする座。

 気配に紙を合わせる。

 紙に顔を後置きする。

 顔に銭を添える。

 銭で止まれば、刃は最後だ。


     *


 兵の調練は、日に日に軍に近づいた。

 足音は揃い、掛け声は息に落ち、鉄砲は肩でなく踵で支えられた。

 「隊列は、刃より強い」

 土方は稽古場の隅で、数字を見た。

 歩数、間、列の幅、鉄砲の装填時間、掛け声の長さ。

 数字は嘘をつかない。

 数字は、恐れも慰めない。

 慰めない代わりに、紙の上で重なる。

 重なれば、習いになる。

 習いは、旗の棒だ。

 棒があれば、布は折れにくい。

 折れにくい布は、風に逆らえる。


 若い者は汗を流し、年のいった者は声で支えた。

 永倉は豪快に笑い、原田は槍の見せ方を磨き、藤堂は軽い手で重い荷を分け、井上は結び目を締め直し、沖田は咳を袖に沈め、山崎は匂いの欄を増やし、土方は紙を増やし、近藤は旗を心に立てた。

 その旗は、布に出されない。

 布に出されない旗ほど、温度を要る。

 温度は、人からしか出ない。

 人は、疲れる。

疲れは、夜に深く、朝に浅い。

 浅い朝に、鐘が鳴る。

 鐘は、引き潮のように、心の底を少しだけ冷やす。


     *


 長州からの風は、いつの間にか匂いを変えていた。

 講和。

 恭順。

 赦免。

 字面は柔らかい。

 柔らかい言は、刃を鈍らせる。

 鈍った刃は、旗を守る棒になれるときと、ただ折れるだけのときがある。

 土方は、紙の隅を強く押さえた。

 「戦わずに負けるなら、最悪だ」

 言は短く、重く、冷えた水の温度を保っている。

 近藤はうなずき、顔をひとつひとつ思い浮かべるように目を閉じた。

 「勝ちの設計に、我らを混ぜてもらう」

 建白の文言は、江戸と京と大坂で同文異表に整えられ、顔の順番が入れ替えられ、芯だけが残った。


 薩摩は、傍観の角度を保ちながら、紙で風を折る術を増やしている。

 戦わずして勝つ道。

 紙で動かす兵。

 金で湿らせる火。

世論で石垣を柔らかくする。

 土方は、逆に硬さを紙で足した。

 『触状・改々』――「順番の誓い」を末尾に置く。

 ――紙で斬れ。座で斬れ。最後に、刀で斬れ。

 味方への誓いが、敵への示威になる夜もある。

 示威は、温度で折れる。

 温度は、笑いで上がる。

 笑いは、沖田に任せればいい。

 沖田は、まだ笑える。

 笑うと、咳が少し温かくなる。


     *


 西本願寺の広い庭で、冬の陽が一度だけ柔らかくなった午後、近藤は土方を呼んだ。

 「名のことだ」

 土方は、うなずいた。

 「重い名を背負う覚悟は、ある」

 近藤の声は、旗の棒のように真っ直ぐだった。

 「名は、器だ」

 土方は同じ言葉で返す。

 「器が大きければ、水は増える。増えた水は、遠くまで届く。だが、漏れる口も増える。漏れ口の数だけ、番が要る」

 「番は、いる」

 近藤は短く笑い、「皆でやる」と続けた。

 皆――それは、旗の布の内側で温度を分け合う者たちの名だった。


 遠くで鐘が鳴った。

 乾いた冬空を、音がよく走る。

 鐘は、引き潮の足音に似ていた。

 潮は、見えないうちに、確実に減り、絶妙のところで止まり、また戻る。

 この冬の京の潮は、引くばかりに思える。

 引き潮は、浜の形を露わにする。

 露わになった石は、踏めば痛い。

 痛みは、歩幅を小さくする。

 歩幅が小さくなれば、刃は届きにくい。

 届きにくい刃は、紙を増やす。


     *


 夜半。

 稽古場で、沖田は柄の感触を確かめていた。

 柄巻の湿り、鍔の冷え、鞘の口の細り。

 剣の研ぎは済んでいる。

 だが、剣が斬るべきものは、まだ姿を見せない。

 「総司」

 背から土方の声。

「斬らずに済む夜は、長く効く」

 「はい」

 「だが、斬る夜は、必ず来る」

 「はい」

 短い返事の間に、咳が一つ、音もなく沈んだ。

 沈んだ咳は、拍の底で鳴り、布の内側の旗を震わせた。


 土方は、柄に触れた沖田の手を眺め、紙を一枚差し出した。

 『軍中次第・西本願寺』

 ――集合の間、抜刀の間、再装填の間、伝令の距離、旗の位置、退路の拍。

 沖田は目で読み、胸で覚え、笑って言った。

 「刀は最後」

 土方も笑った。

 笑いは拍。

 拍は、隊の心臓。

 心臓が温かい限り、旗は折れない。


     *


 その頃、前線から講和の文がさらに増えた。

 条件は軽くない。

 軽くないのに、軽いふりをする文がある。

 軽いふりの文は、紙の上でよく滑る。

 滑った紙は、座の外へ落ちる。

 落ちた紙に、刃の影が差す。

 「戦わずに負けるなら、最悪だ」

 土方は、同じ言葉を同じ温度で繰り返し、同じ場所に同じ印を置いた。

 印の赤は血ではない。

 だが、血の代わりに立つ覚悟の色だった。


 嵐は来ない。

 来ないのに、静謐だけが増える。

 西本願寺の鐘が、夜気のなかで乾いた音を残し、遠くへ細く伸びる。

 引き潮の足音が、またひとつ遠のく。

 遠のくほど、砂は広く見え、足元の貝は増える。

 拾えば光る。

 光れば、目につく。

 目につけば、狙われる。

 旗は布に出さず、胸の骨の裏で揺れた。

 揺れの拍は、隊の心臓と合っていた。


 次の朝、土方はまた紙を一枚増やした。

 『兵站控・一本化』

 ――口と口、帳尻と帳尻のあいだに拍を置け。

 ――銭で止められる夜は、銭で止めろ。

 ――名は最後。刃は、さらにその最後。

 筆は止まらない。

 止まらない筆の影で、見えない太鼓が少しだけ近づいてくる音がした。


 ――引き潮の先で、太鼓の胴は乾くか。

 ――乾かぬまま打てば、音は抜けるか。

 ――音が抜ければ、旗は折れるか。

 問いは、紙の上に置かれたまま、まだ答えを呼ばない。


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