第十三話 上洛の影、下坂の光(後篇)
雨脚は、思いのほか速かった。
夕刻の商家の軒がいっせいに傘の骨を鳴らし、橋の上は早足の拍で埋まる。川面を打つ粒は大きく、最初に音を失い、次に匂いを連れてくる。油、湿った木、紙、銭。大坂の雨は、京の火とちがって、物の名で濡らす。
「屋根を拵える」
土方歳三は、短く言った。
屋根とは、つまり座だ。
座は、濡れた人の上に被さる布であり、紙であり、顔であり、順番である。
彼は『下坂御用控』の二冊目を開き、雨天用の臨時座次を書き足した。
――橋脚・辻・船溜・蔵屋敷・寺社の五点を小屋に見立て、顔の主を座主として置く。
――触れ状は同文異表、寺社筋には「人心」、蔵屋敷には「信用」、町奉行には「秩序」、問屋には「顔」を先に。
――金箱は座の隅、刃は座の外。刃は最後。
――雨脚の強さを三段に分け、合図の間を変える。
「拍が乱れなければ、雨は流れる。流れれば腐らない」
筆を置きながら、土方は独りごちた。
降りしきる中、天満橋の下で最初の座が開く。
年寄の顔が三つ、船頭の肩が二つ、蔵屋敷の勘定が一人、寺社の若い別当が一人。
近藤勇は、旗を布に出さない。
名札だけが机の角に置かれる――会津預所御用改。
「この雨は、町を洗う雨だ。洗う間に、名を並べる」
近藤の声は、雨と同じ調子で落ちた。
土方は、銭箱の蓋を開けた。中身を見せるためでなく、音を聞かせるためだ。
銭の音は、雨の音に混じるとやわらぐ。やわらいだ音は、人の肩の力を抜く。
「剣で止めれば、雨は血になる。銭で止めれば、水のままだ」
年寄は扇で雨をはじき、「御用の顔の内で」とうなずいた。
その夜、二つの風が競った。
ひとつは、薩摩が回す紙の風。
「上洛は遅らせよ」「京の治安は騒がしい」「城下は大坂に置き、政は江戸で」――文は柔らかく、世論という名前で人の耳に入る。
もうひとつは、新選組が張る逆触れ状の風だ。
土方は、触れ状・改のさらに改を用意した。
「路次の配備は整い、寺社の拍は揃い、蔵屋敷の信用は紙で結ばれ、問屋の顔は座で立つ。上洛は足の速い順に」
同じ芯に、別の衣。
江戸筋には「将軍の威」、京筋には「宮中の安」、大坂筋には「商家の信用」。
雨の夜に貼られた紙は、朝の風で乾く。乾くまでの間に、顔が口に乗せてくれる。
*
雨脚が強まると、浪人の影が濃くなる。
橋の上で足を止め、宿問屋の軒で声を張り、蔵屋敷の裏で焚きつける。
「将軍の上洛路は危うい」「護りは薄い」「会津の槍は鈍ろうた」
言は、刃になる。
沖田総司が笑いを置き、名を求め、座に乗せる。
名のない声は外で消え、名のある声は中で沈む。
「刀は最後」
沖田は、濡れる子らの頭を撫で、木刀の先で、傘の真似をしてみせる。
「斬らずに済む拍が一番強い拍です」
咳は、雨の夜に深い。
深さは、袖の中で止められる。
止められるうちは、拍は揃えられる。
永倉新八は、濡れ鼠のようになりながら、船場の辻で笑った。
「おいおい、濡れた刃は滑るぜ」
笑いは拍。
笑いの拍で、刃の角度が浅くなる。
原田左之助は槍を“見せ”、島田魁が肩で横の足を止める。
藤堂平助は若い声で「座を変えましょう」と提案し、井上源三郎が結び目をもう一度固くする。
座は、雨の夜にこそ効く。
土方は『雨夜座控』を起こし、合図を二拍に変えた。
雨は、拍を早める。
早くなった拍に、座の拍を合わせるだけだ。
*
大坂城中の小座敷。
上座の文机に、江戸からの書付、京からの返し、薩摩からの使者の言葉――紙の往還が積み上がっている。
近藤と土方は、同文異表の別を三度確認し、言葉の角を丸め、芯を太くした。
「御所の拍」「城の拍」「町の拍」――三拍一致を謳う文言は、相手によって順序が変わる。
会津へは「御所→城→町」。
町奉行へは「城→町→御所」。
商家へは「町→御所→城」。
順番を変えても、芯は同じ。
刀は最後。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
城の廊に、医師の足音が絶えない。
家茂公の容体は、良いと悪いのあいだで揺れているという。
「ご気色、芳しからず」
囁きは、雨の音に混じって広がった。
土方は、筆の先で余白を押さえた。
余白は、不安の居場所でもある。
不安は、刃を早める。
早くなった刃を止めるのは、顔と順番だ。
顔を並べ、順番を書き、屋根をつくる。
評議のあと、近藤は廊の欄干にもたれ、雨の柱を見た。
「勇」
土方が並ぶ。
「この雨が上がれば、道を出す。上洛の道だ」
「道は、紙の上に先に出しておく」
土方は答える。「紙で道を出せば、足は迷わない」
「足が迷わねば、刃は遅れる」
ふたりの言葉は短く、拍は合っていた。
*
実務は、雨でも乾いてゆく。
路次警護の索引ができ、隊列の紋所が統一され、駕籠の交代は息の合図に変わった。
山崎烝は『路次見分日記』の欄外に、橋の材質、敷石の段差、宿の廊の幅、寺の鐘の余韻の長さまで書き込む。
「匂いと同じで、道にも匂いがある」
彼は言った。「濡れた石は足を早める。早まった足は、刃を呼ぶ」
土方は『雨天路次次第』に、雨の拍の緩急を記す。
強雨――橋脚に座。
驟雨――辻に顔。
霧雨――紙を前に。
「銭で済むものは銭で。銭の雨は、人を殺さない」
永倉が横から茶々を入れた。「銭が降るなら、俺が先に拾う」
座は笑い、笑いは拍。
拍は、紙に温度を戻す。
*
薩長の風は、やみそうにない。
薩摩は、火を使わずに人を動かす術を増やし、長州は、影を太らせることに長けている。
「戦わずして勝つ道」
土方は、逆風の匂いを嗅いだ。
匂いは、紙の間からもれる。
「逆触れ状」をさらに一段、深くした。
論点の順を増やし、否定から入らず、先取りで入る。
「騒擾の兆しがあれば、座で吸う。火は、座で湿る。湿れば、燃えない」
文の末尾に、短い一句。
――『刀は最後』
それは、敵への示威ではなく、味方への誓いだった。
町の年寄は、首を傾げ、やがてうなずいた。
「御用の顔の内に、儲けはあるんかいな」
土方は、即座に答える。
「ある。信用の名で、時間の形で」
信用は、銭より遅い。
遅いが、雨に強い。
年寄は扇で雨を払い、笑った。「信用は、屋根やな」
「屋根だ」
土方は短く笑い、紙を一枚増やした。
*
雨の最中にも、祭はある。
天満宮の縁日。
傘の花が境内に咲き、子らは紙風船を追い、飴売りの声が鈴の音と重なる。
沖田は、木刀の柄を手拭で拭き、旗の構えを見せた。
「斬らない構えのまま、目で止まる。目で止まれば、声で止まる」
目と声の間に、拍がある。
拍は、隊の心臓。
子らの心臓は速い。
速い心臓に、半歩を教える。
半歩は、雨の上で滑らない。
滑らない半歩は、大人の刃を鈍らせる。
永倉は笑い、原田は飴屋と腕相撲をし、藤堂は紙風船を高く弾ませ、井上は子の帯を結び直す。
山崎は、噂の拍を拾い集め、紙へ落とした。
「上洛は、あるか」「ないか」「遅れるか」「早まるか」
答えのない問いは、座へ連れていく。
座は、答えのないものの置き場でもある。
*
夜半。
大坂城の濠に、雨は細くなり、遠雷だけが残った。
近藤は、封印された『建白』を前に、短く祈るように目を閉じた。
祈りの内容は、順番でできている。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
その順番を、旗の棒にもう一度縒り合わせる。
土方は欄外に、さらに一句を書き添えた。
――『剣ヲ傘トナス日多ケレド、剣ハ剣タルコトヲ忘レルナ』
剣を忘れれば、傘は破れる。
剣しか見なければ、雨は血になる。
封が落ち着いた頃、使番が走った。
「江戸より急報!」
座が起き、紙が動き、顔が揃う。
家茂公の容体の噂は、ついに噂を超えつつあるという。
水の中で、歯車が早く回る音がする。
早く回る歯車は、名を噛む。
名を紙に載せ、拍で守り、刃で守る準備を――。
近藤は、掌で机の端を一度だけ叩いた。
「腹を据える。上洛の影が実体になる前に、道を出す。下坂の光で照らす」
光は、紙の白だ。
紙の白は、朝が来る前に強い。
*
翌朝、雨は上がった。
川は濁り、匂いは重く、店の軒先に干された紙が風に鳴る。
『触れ状・改』が町に広がり、信用の屋根がいくつも増えた。
橋の上の足は半歩に戻り、辻の声は短く、座の笑いは薄く温かい。
剣の行政は、雨をくぐり抜け、刃の出番をまたひとつ遅らせることに成功した。
「剣の価値は上がった」
土方は、『褒賞控』に声と紙の勝ちを細かく記した。
刃の勝ちは短く、声の勝ちは長く、紙の勝ちは深い。
深い勝ちは、雨に強い。
だが、風は止まっていない。
薩長の紙の風は、京の方角から絶えず吹き込む。
見えない盤の上で駒は進み、城と御所と町の間の線は、時おり薄くなる。
薄くなった線を、紙で太らせる。
紙で太らせる間に、人の温度を足す。
温度は、沖田の笑いであり、井上の結びであり、永倉の声であり、原田の肩であり、藤堂の軽さであり、山崎の耳であり、土方の冷えた水であり、近藤の誠だ。
それでも、空は晴れているのに、どこかでまた雨音がする。
「降るさ」
土方は、何度でも同じ調子で言う。
「降らせないために、傘を用意しておく。傘で足りなければ、屋根を拵える。屋根でも足りなければ、刃で柱を立てる。刃は最後」
近藤は頷き、川面を見た。
川は応えない。
応えないかわりに、拍を刻む。
拍は、隊の心臓。
心臓が温かい限り、旗は折れない。
*
夕刻、道修町の薬種問屋で、ひとつの評議が開かれた。
将軍の御進発に合わせ、京への「手前持ち」の薬と食の手配、下坂からの支えを担う座だ。
土方は、銭と紙と顔の三拍子で会を回した。
銭――相場を今だけ一段押さえ、信用で差を埋める。
紙――出荷の順番を拍で回し、遅配は座で吸う。
顔――名で運ぶ。名は、雨に強い。
年寄が頷き、蔵屋敷の勘定が印を置き、船頭の親分が楫を引く手を見せた。
「これで、道は白くなった」
土方は紙を畳み、近藤に差し出す。
白い道は、朝の光でいちばん強い。
評議のあと、沖田が空を見上げる。
「晴れてるのに」
「降りそうだな」
ふたりの言葉は、少し笑いを含んだ。
笑いは拍。
拍が合えば、怖れは薄くなる。
薄くなった怖れの隙間に、覚悟が入る。
覚悟は、声にすると折れることがある。
折らせぬために、ふたりは言葉をそこで止めた。
*
夜。
『建白』の返しはまだ届かない。
だが、道はもう、紙の上に出ている。
江戸から大坂へ、下坂で力を溜め、京へと上る。
橋に座、辻に顔、蔵屋敷に紙、寺社に拍、問屋に銭。
剣の行政は、雨中でひとつの形を得た。
薩長の紙の風に対し、紙で風を返す術も、見え始めた。
新選組は、剣を傘に替える術を学び、その傘の骨に刃を仕込むやり方を覚えつつある。
傘は人を濡らさない。
刃は柱になりうる。
柱は、屋根を支える。
屋根の下で、人は眠れる。
眠れる町は、強い。
眠りにつく前、土方は一枚だけ紙を増やした。
『下坂記・覚』
――『勝チノ設計ニ参レ。片付ケダケヲ命ゼラル夜多シ。紙ノ上デ勝チノ座ヲ作レ。旗ハ布。布ハ温度』
墨は、乾きが遅い。
遅い乾きは、焦りを削る。
削れた焦りの跡に、冷えた水が残る。
冷えた水は、喉を焼かない。
焼かない喉で、最後に刀の名を、胸の中だけで呼ぶ。
――刀は最後。
その一句は、雨が上がっても、上がらなくても、同じだった。
椿の葉が一枚、橋の欄干から落ち、濁った水面に音もなく沈んだ。
音はしない。
だが、沈んだという事実だけが、座の中央に置かれる。
近藤は刀の紐を締め直し、土方は紙を一枚増やし、沖田は笑い、永倉は肩を鳴らし、原田は拳を握り、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は戸を閉め、山崎は耳で次の風を探った。
火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに拍へ戻る。
拍は歩幅に移り、歩幅は道に刻まれ、道に刻まれた拍の上で、見えない誠の旗が、なお、確かに、揺れていた。
上洛の影は長く、下坂の光は低い。
だが、低い光ほど、足もとを確かに照らす。
その光の中で、新選組は、剣の行政のもう一段深い形を、手の中に覚えはじめていた。