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第十三話 上洛の影、下坂の光(前篇)

 冬の籠もる匂いが薄れ、川面の冷気がほどけはじめたころ、年号が改まり、慶応の二字が瓦版に黒々と踊った。

 言葉は旗のように風を受ける。新しい元号は、その風の向きを変える合図でもあった。江戸、京、大坂――三つの座で、目に見えぬ手が駒を置き直す。駒の足音は遠いのに、新選組の耳には地面の下で響く拍が確かに増えて聞こえた。


 「将軍家茂公、再び上洛か」

 近藤勇の声は、低く、重く、いつも通りだった。変わらぬ声ほど、変わる世には頼りになる。

 土方歳三は、紙の上の線を一本増やした。

 『路次警護・江戸—大坂—京 仮編』

 線は細く、曲がり角に小さく印がつく。宿場、渡し、関。馬の数、駕籠の替え、警護の隊列、見える拍と見せない拍。

 「江戸から京だけが道じゃない。下坂が要だ」

 土方は筆を置き、火皿の煙を見た。「大坂城下の整備と“座の配り直し”。剣の前に、紙だ」


 「紙ばかり増やすとな」

 永倉新八が肩を鳴らし、笑い声で座の角をまるくする。「いざって時に刃を鈍らせやしないか」

 「鈍る刃は、元から刃じゃない」

 土方は言葉を短く落とした。「剣の価値は、出番を減らすほど上がる。見せる拍で済ませろ。斬らずに通すのが勝ちだ」

 原田左之助は槍のない手で空を突き、「槍は見せるだけで効く日がある」と笑った。

 沖田総司は、袖に咳を沈めながらも、目の色を明るく保った。「旗の構えは大坂でも使えます。人が多い町ほど、拍が揃えば騒ぎは小さくなる」


     *


 大坂は、京とは違う匂いがした。

 川の匂い、銭の匂い、油と魚と味噌の混じった現実の匂い。

 蔵屋敷が立ち並ぶ川端では、大八車の軋みと帳尻の声が、刀の音よりも遠くまで通る。天満、船場、道修町。問屋の看板は風向きを読み、商家の梁は潮目に合わせて鳴る。

 新選組の旗は、ここでも布には出さない。誠の字は胸の骨の裏で揺れ、その前にまず名札が出る――「会津預所御用改」。商都の理屈に合わせる小さな化粧は、旗を折らないための鞘だ。


 大坂の警衛は三つに割られた。

 ひとつは、蔵屋敷と回漕の目付。米と銭の流れを見張る拍を置く。

 ひとつは、問屋筋の仲裁。口と口、帳尻と帳尻のあいだに拍を入れ、刃の代わりに印判を置く。

 ひとつは、浪人の流入抑止。橋のたもと、川端の小路、宿問屋の裏に見えない拍を敷き、名のない足を座へ連れてくる。

 土方は、ここでも紙を増やした。

 『大坂巡察・座控』『回漕見分・聞書』『仲裁決着・記録』『浪人見分・名寄』――そして、薄い冊子に『剣の及ぶ範囲』『交渉で済む範囲』と題を入れた。

 「金で済むものは金で済ませる」

 彼は言った。「剣の出番を減らすことが、剣の価値を上げる」


 最初の試しは、蔵屋敷の紛失米だった。

 帳尻は合うのに、米が一筋、どこかで細る。

 山崎烝が鼻で匂いを追い、「香」「油」「汗」に加えて「糠」の段を作ると、堀の匂いが混じった。

「夜の回漕で、ひとすくいずつ抜く手だ」

 土方は即座に座を敷き、問屋、回漕、長屋の名を紙に並べた。

 席に銭箱を一つ置き、「剣で払えば、銭の血が出る。銭で払え」と静かに言う。

 蔵屋敷は目を伏せ、回漕は額に汗を浮かべ、長屋の頭は膝に額をつけた。

 銭が移り、印が押され、ため息が座の隅でほどける。

 刃は、ひとつも歌わなかった。

 「紙は、明日の命を一行ぶん長らえる」

 山南敬助の言は、ここでも生きていた。


 二つ目の試しは、問屋筋の仲裁だった。

 荷為替の期と為替手の名義で、古い怨みが一気に膨らむ。

 永倉は笑いで「お互いさま」を作り、藤堂平助が若い声で期の延べ方を提案し、井上源三郎が結び目の固さで顔を立てる。

 土方は触れ状の文言を三通、同文異表で用意した。

 町奉行へは「秩序」、蔵屋敷へは「信用」、問屋へは「顔」。

 顔が立てば、紙は早く乾く。

 乾けば、刃は最後まで鞘の中で眠る。


 三つ目の試しは、浪人だった。

 橋の上で座り込み、故郷の藩名を大声で語り、頬に風の匂いと酒の匂いを張り付けている。

 原田は槍を見せて「横の拍」を押さえ、島田魁が影のまま肩で走る足を崩す。

 沖田は笑いで間を取り、名を求め、座へ連れていく。

 座の上で、銭が一枚、二枚、渡る。

 「金で済むものは金で済ませる」

 土方は、繰り返す。

 銭は、刀の血を薄める。

 血が薄まれば、紙の字が濃くなる。


     *


 子どもらの声は、川風より軽い。

 大坂の町の裏庭で、木刀を握った子らが、沖田の真似をして半歩を踏み、目の高さを揃える。

 「刀は最後!」

 沖田が笑うと、声が一斉に跳ねた。

 咳は、ここでは深くない。

 深くないように見せるのが、彼のうまさでも、無理でもあった。

 「斬らずに済む拍が一番強い拍です」

 沖田は言い、木刀の先で紙の鳥を空へ跳ばしてみせた。

 子らは歓声をあげ、誠の字の下で遊ぶ。

 笑い声は、京の焼け跡の記憶から一時、心を遠ざけた。

 永倉は豪快に笑い、原田は槍の形だけ空へ描き、藤堂は拍手の拍で輪を大きくする。

 井上は、帯を結び直す。子の帯も、隊の帯も、結び目が拍だ。


 だが、上は静かでない。

 薩摩と長州の影は、ここ大坂でも濃くなっている。

 彼らは露骨に剣に頼らない。

 文書、外交、資金、世論。

 戦わずして勝つ道を敷きはじめた。

 土方は、その匂いを紙の隙間で嗅ぎ取っていた。

 「われらは、勝った場の片付けばかりやらされる」

 夜更け、座のあとで、土方は低く言う。「勝ちの設計に参らねば、最後は剣で払う勘定が大きすぎる」

 近藤は、ゆっくり頷いた。

 「会津へ建白を出す。上洛路の配備だけじゃない。下坂での世論の拍、寺社の鐘の間、商家の顔――これを合わせて、旗の湿りにする」

 「旗は、布だ」

 土方は短く返す。「布は、人の温度でしか保てない。温度の役を、俺たちがやる」


 『建白草稿』は、京での言い回し、大坂での言い回し、江戸での言い回し――三通に割れた。

 同文異表。芯は同じ。

 「剣の行政」を補う筆の行政。

 巡察、礼式、座、紙、そして金。

 金は、旗の棒になる。棒があれば、布は折れない。

 その代わりに、棒は折れるとき、音が大きい。

 音が大きいとき、人は顔を伏せる。

 伏せた顔の温度は、紙では足りない。


     *


 大坂城の石垣は、潮の匂いの中で乾いていた。

 城は、江戸の声を伝える鼓膜であり、京の息を量る秤でもある。

 物見の上で、土方は風を測った。

 川から上がる湿り、船溜りの匂い、蔵屋敷の軒に溜まる重み、寺の鐘の遅れ――拍のわずかなずれ。

 「風下で火は速い」

 彼は地図に点を打ち、「商家の裏に紙、寺社の門に声、橋の袂に座、城下の辻に銭箱」と書き込む。

 「銭箱?」

 藤堂が笑う。

 「剣で止まらぬ足は、銭でも止まる」

 土方は肩をすくめた。「銭で止まれば、紙が効く。紙が効けば、刃は最後のままだ」


 城中の小座敷で、老中奉書の文言が回った。

 「上洛路次、下坂の配備、町奉行と連携、会津預所へ一任」

 言葉は固い。

 固い言葉は、隙を嫌う。

 隙を埋めるのは、顔だ。

 土方は、小さな顔絵図を紙の端に描いた。

 町奉行の下役、蔵屋敷の勘定、小祠の神職、問屋の年寄、川口の棟梁、船頭の親分、島原の年寄――顔の座。

 顔で繋げば、紙は早く乾く。

 乾けば、旗は布に出さずに揺れる。


 扇町の茶屋で、土方は顔を揃え、「順番は変えない」とだけ言った。

 紙で斬れ。

座で斬れ。

 最後に、刀で斬れ。

 「剣の及ぶ範囲は狭める。代わりに、紙と銭と顔の範囲を広げる。剣を傘に替える」

 茶碗の湯気が、ふっと揺れた。

 茶の温度は、人の温度と同じだ。

 温度で守る夜が、いちばん長持ちする。


     *


 噂は、銭のように速い。

 「将軍様のご気色、芳しくない」

 「江戸で療養か」「下坂で見舞いか」

 町の口は、心配と皮肉の間を行き来する。

 城下の空は明るい。

 遠くで雷の音がするようだ。

 沖田は、空を見上げた。

 「晴れてるのに、降りそうだな」

 土方は短く返す。

 「降るさ。降らせないために、傘を用意しておく」

 傘――紙、銭、顔、礼式、順番。

 剣で止める雨は、体に沁みる。

 傘で止める雨は、風の向きまで教える。


 沖田の咳は、夜に深く、昼に浅い。

 子らと木刀を振るときは、浅い。

 座で紙を捌く間は、浅い。

 静かな寝所で目を閉じると、深い。

 彼はそれを隠す術をすでに持ち、隠すことの危うさも知っていた。

 「総司、休め」

 井上が帯を結び直しながら言う。

 「休むのも稽古です」

 沖田は笑い、「拍を崩すわけには」と続けた。「崩れた拍は、隊に伝わる」

 「伝わってもいい拍と、伝わっちゃいけない拍がある」

 永倉が茶碗を煽って笑う。

 「そいつの見分けが、稽古の先にある」

 土方が短く言って、紙を一枚増やした。

 『大坂・夜警次第 降雨ノ節』――灯の減らし方、人のまとめ方、橋の封じ方、舟の回し方。雨の拍にも順番がある。


     *


 夜、船場の小さな揉め事が大きくなりかけた。

 荷為替の誤りをめぐり、二つの問屋の古傷が顔を出す。

 「昔、あの時、あの場で――」

 過去の言葉は、たやすく刃に変わる。

 沖田は笑いで間を埋め、藤堂は「今ここ」を口に乗せ、井上が二人の帯を結び直し、永倉が「座に乗せろ」と腹で押す。

 土方は、二つの銭箱を並べた。

 「昔の分は、銭の上に置け。今の分は、紙の上に置け」

 銭箱の蓋は厚い。

 厚い蓋は、刃の先を鈍らせる。

 鈍らせている間に、印が並び、ため息が座の端へ逃げる。

 「……助かった」

 年寄の小さな声が、茶の湯気に溶けた。

 「剣の行政」は、刃の角を丸め、銭で湿らせ、紙で支える行政だった。


 別の夜、川口で浪人の一団が船頭を脅す。

 「今夜の舟を貸せ。明朝の風を見に行く」

 「風は誰のものでもない」

 船頭の声は低いが、数が不利だ。

 原田の肩が影から入り、槍を見せる。

 「舟は刃を嫌う。刃は舟の上で役立たずだ」

 土方が現れて、静かに言った。「舟の上で役立つのは、銭と名だ」

 浪人の鼻が鳴り、名が出ない。

 銭の話が出る。

 銭は、舟を動かし、刃を鞘に戻す。

 舟の板が軋み、夜の川に小さな拍が刻まれた。


     *


 書院に灯がともる。

 『建白』の清書が仕上がった。

 「路次警護の配備」「下坂の拍の配置」「寺社・商家・蔵屋敷の顔の連絡」「世論の触れ状の文言」――剣の出番を減らすための剣。

 近藤は筆を置き、墨の艶を見た。

 「会津へ、送る」

 土方は頷き、封を施した。

 封の糊は、温度で乾く。

 温度は、人の手からしか出ない。


 封を上座に預け、二人は天満橋に出た。

 川風は、まだ冷たい。

 「勇」

 「うむ」

「降る」

 「降る」

 短い言葉の間に、長い沈黙が置かれる。

 沈黙は、覚悟の形をしている。

 覚悟は、声にすると折れることがある。

 折らぬために、二人は言葉をそこに置いたまま、川面を見た。

 川は何も答えない。

 答えない代わりに、橋脚に小さな音を刻み続ける。

 拍は、水にもある。


     *


 大坂の空は、翌日も明るかった。

 明るいのに、遠雷はやまない。

 薩摩の使者が誰それの書院を訪れ、長州の文がどこそれの座敷に届いた、という話が、風の背であちこちを走る。

 「戦わずして勝つ道」が、紙の下で太くなる。

 土方は、紙の余白を指で押さえた。

 余白は、嘘の居場所でもあるが、先の手の居場所でもある。

 先の手を紙で先に埋める。それが、「剣の行政」の次だった。

 『触れ状・改』――御用改めの言葉の順を、さらに一段、柔らかくする。

 「名→用向→座→紙→顔」

 顔を最後に置く恋の文のような順番は、商都にはよく効いた。

 顔の名で紙が早く乾き、紙が乾けば、刃は鞘の底で眠る。


 沖田は、日暮れの路地で空を見上げた。

 晴れている。

 晴れているのに、降りそうだ。

 「総司」

 土方が並ぶ。

 「傘は用意した」

 「うん」

 「傘で足りぬなら、屋根を拵える」

 「屋根は、誰の名で」

 「旗の名で」

 短い言葉は、胸の骨に沈む。

 骨は、旗を支える棒だ。

 棒が折れぬうちに、風向きを変える術を覚えねばならない。


 「総司、子らの稽古はどうだ」

 「拍が、よく揃うようになりました。斬らない構えのまま、目で止まる」

 「目で止まるなら、銭で止まる」

 土方は笑い、「銭で止まれば、紙が効く」と続けた。

 「紙が効けば、旗は折れない」

 「旗は、布だ」

 「布は、人の温度だ」

 ふたりはそれ以上、言わなかった。

 言葉が足りない夜は、風が語る。

 風は、橋脚を撫で、川面に小さな波を置いていく。

 波は、拍だ。


     *


 その夜、八木邸から持ち込んだ座が、船場の片隅で開かれた。

 『下坂御用控』の第一回。

 町の年寄、船頭の親分、蔵屋敷の勘定、寺社の別当――小さな顔が、薄い卓の周りで膝を揃える。

 近藤は旗の名を出さない。

 代わりに、顔を並べる。

 「皆さまの顔の間に、紙を置かせてください」

 土方は、紙の角を撫で、「紙の上で、刃を遠ざける」と言った。

 「遠ざかった刃は、軽くない」

 年寄の一人が呟く。

 「軽くありません。価値が上がります」

 土方の返しは短い。

 短い言葉は、長く効く。

 座の終わりに、皆が一度だけうなずいた。

 うなずく拍が揃えば、町は屋根を持つ。


 座を出ると、空気が湿り、匂いが重くなった。

 遠雷が、ひとつ、近くなった。

 「降る」

 土方が言い、近藤が頷き、沖田が笑った。

 笑いは拍。

 拍は、隊の心臓。

 心臓が温かい限り、旗は折れない。

 ただ、雨脚は、人の思いよりも、いつも速い。


 橋を渡る足裏に、最初の粒が当たった。

 粒は小さい。

 小さいうちに、傘はよく効く。

 大きくなれば、屋根が要る。

 屋根が足りなければ、刃が要る。

 刃は最後。

 最後を、最後のままに保てるか――

 その問いが、慶応の空の下、下坂の光の中で、濡れずにまだ燃えていた。

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