第十二話 山南、風の背に
冬の底は、声を吸う。
八木邸の梁は、凍てた空気をゆっくり吸い込み、また吐き出す。その呼吸に合わせるように、囲炉裏の火はときおり青い舌を立て、炭の赤がひそやかに脈を打った。
山南敬助は、筆を置いたままの指を交差させ、膝の上でそっと組む。手は冷えている。冷えは皮膚から骨へ、骨から心へと、気づかれぬ道筋で入り込む。紙の白は十分に乾き、墨の黒は十分に沈んでいるのに、胸のどこかに水気が残っている。水気は言葉をにじませ、理を曇らせる。
この数か月で、紙は増えた。『局中法度』『局中心得』『軍中法度』『夜警次第・禁門編』。条は研ぎ澄まされ、座は重ねられ、拍は体に入った。勝ちは紙で読み継がれ、刃で語り継がれ、人の息で保たれてきた。
けれど――
池田屋から禁門へ、勝利のあとに残ったのは、勝ち鬨の余韻ではない。
山南の胸に沈殿したのは、士としての倫理の軋みであった。
密偵の拷問。容赦ない取り締まり。捕者の斬罪。路地で伏せる市井の怨嗟。
会津公の命は正しい。御用の顔は守らねばならない。だが、正しさが人の顔を失う瞬間を、彼は幾度も見た。
正しさは、ときに刀だ。
刀は、鞘を失うと、ただ冷たく光る。
**言**は、その光の温度を測る鞘であり、布であり、息である。
彼の筆は、刃の背で言を支え続けてきた。だが、この冬、刃の重みが言を押し潰しはじめている気がしてならない。
「……理に、叶っているのか」
山南は、囲炉裏の火に目を落としたまま、胸の内で問う。
自分は剣で世を立てたいのではない。理によって世を保ちたい。
ならば、ここにいる自分は、理に叶っているのか。
条を増やし、拍を刻み、刀を最後に置かせるために、筆を取ってきた。
だが、最後のはずの刀が、いつの間にかより近い場所に立ってはいないか。
紙で斬り、座で斬り、最後に刀で――その順番は守られている。
それでも、紙の背が冷え、座の拍が硬くなり、人の息が短くなる夜が増えた。
紙が冷えれば、言が死ぬ。
言が死ねば、刀だけが残る。
戸口のほうで足音。
「総長」
沖田総司の声が柔らかく落ちた。
山南は振り返り、目を細めた。
「……よく眠れたか」
「はい。眠る前より、いくらか」
袖に沈めた咳の熱は、まだ手首に残っている。
沖田は囲炉裏の火を覗き込み、笑った。「火は拍ですね。燃える拍と、息の拍が合うと、音がきれいです」
「拍ばかり言うようになったのは、歳三の病だな」
山南も笑った。笑うと、胸の水気がわずかに動く。
「病は、移ると治ることがあるのです」
沖田の冗談に、山南は首を振り、筆の横に置かれた紙束へ指を伸ばした。
法度の改め稿。細目の追加。礼式の順。褒賞・譴責の運用。
すべて正しい。すべて必要だ。
しかし――温度が、足りない。
「総長」
沖田が声を低くした。「張り詰めすぎると、旗の布が裂けます」
「裂けぬように、鞘を整えている」
「鞘は、心です」
山南は返さない。
返さない言葉は、胸の骨に沈み、骨を硬くする。
「……稽古を見に行こう」
立ち上がると、冷えが膝から腰へ、腰から背へ上がってきた。冬は、背中で噛む。
*
庭では、若い者が旗の構えを繰り返していた。
足の半歩。目の高さ。呼吸の深さ。手首の緩み。
「刀は最後!」
沖田の声。
声は拍。
拍は、隊の心臓。
山南は、井上が帯を結び直す手元を見やり、永倉が笑いで間合いを潰すのを眺め、原田が槍を“見せる”角度を脳裏で合わせるのを見た。
規律は生きている。組は動いている。
それでも――
山南の耳には、別の音が混じる。
夜の囁き。
「拷問」「密偵」「斬罪」「怨嗟」。
囁きは、風の背に乗って、座の端へ忍び込む。
紙を増やすほど、風は紙の隙間を探す。
隙間から入った風が、言の火を、ひと息に弱らせる。
「総長」
山崎烝が影のように近づいた。
「記録、揃いました」
差し出された帳面には、匂いが記されている。「香」「油」「煤」「汗」。
匂いの言葉は、事実の骨に肉を置く。
山南は頷き、頁を繰りながら、ふと問うた。
「烝。『座で止まるはずの夜』が、『刀まで行った夜』の割合、ここ三旬で変わったか」
山崎は目を伏せ、短く答える。「増えました。火の後は、どうしても」
禁門の変。
火は、順番を焼く。
焼け跡の上で、人は早足になる。早足の拍は、刃を呼ぶ。
山南は帳面を閉じ、息を深くした。
深い息は、胸の水気を、ほんのわずかに暖める。
*
夜。
八木邸の座敷に、冷たい沈黙が落ちた。
土方歳三が、淡々と控を配る。
「斬罪、明朝」
短い言葉。
短い言葉ほど、長く効く。
捕えた者――火薬の横流しに関わった町人の手引き。
座は尽くした。紙は尽くした。
それでも届かぬ夜がある。
届かぬ夜の次に来るのは、刀だ。
「……理は、どこにある」
山南の胸の中で、言が問う。
理は座にある。紙にある。顔にある。
だが、刀の影の下では、言は声を細くする。
細い声は、冬の風の背に、簡単に攫われる。
近藤勇は、座の中央で目を閉じた。
「紙で斬れ。座で斬れ。最後に、刀で斬れ」
いつもの順番。
いつもの声。
その声の終いに、躊躇が、針先ほど混じった。
誰も言わない。
誰も、言えない。
言えば、刃になる。
刃にしたくない言は、胸の骨にしまっておくしかない。
座が散じる。
土方が廊に立ち、山南の横に並ぶ。
「……冷えるな」
「冬だ」
「冬は、旗を布に出さない」
「出せば、折れる」
言葉は短い。
短い言の間に、長い沈黙がある。
沈黙は、覚悟の形をしている。
覚悟は、声にすると折れることがある。
折らせぬために、二人は言葉をそこで止めた。
*
その夜の更けの底で、山南は筆を置いた。
紙の端に、白が残る。
白は、余白だ。
嘘の余白を残さぬことを、彼は誰よりも強く唱えてきた。
しかし今、彼は真実の余白に手を触れている。
人の心が、条の内側で居場所を失いそうになる、その狭間。
条が刃として機能するほど、鞘としての温度が要る。
温度を保つ者は、誰か。
自分なのではないか――そう思ってきた。
だが、人は、自分の胸の火で、自分を温め続けることはできない。
囲炉裏の火ですら、炭を足さねば消える。
山南は筆を懐に納め、静かに立ち上がった。
畳の目が一つ、もう一つと、足の裏に流れてゆく。
柱の陰で、沖田が待っていた。
「総長。夜の稽古は、いかがです」
「よかった。拍が、よく合っていた」
「拍が合えば、旗は折れません」
「……旗は、布だ。布は、人の温度でしか保てない」
沖田は笑った。
笑いは拍。
拍は、隊の心臓。
心臓が生きているかぎり、旗は折れない。
それでも、笑いのすぐ後に、彼は袖に咳を沈めた。
咳の音は小さい。小さいほど、深い。
「総長」
沖田はふと、目を細めた。「……どこかへお出かけですか」
山南は、答えなかった。
答えられない言は、刃だ。
彼は、沖田の肩に手を置き、「君は、拍を頼む」とだけ言った。
沖田の瞳の奥に、薄い翳りが走った。
「総長」
呼び止める声を背に、山南は、風の背へ身を預けた。
*
脱走。
局中法度で、最も重い。
山南は、それを知っている。
知った上で、夜の壬生を歩いた。
雪の残る路地は、光を持たない。
雪は冷たさの匂いを持っている。
その匂いの上を、彼は音を立てずに進んだ。
どの筋を通れば目に触れず、どの角で風を避け、どの寺の鐘の下で一拍置けば足音が消えるか――地図は、彼の胸に入っている。
歩くたびに、紙の頁が一枚ずつめくられるような気がした。
積み上げた紙。書いてきた条。重く、正しく、冷たい紙。
紙の間には、いつも湿りが要る。
今夜、その湿りを自分が与えられない。
その事実だけが、彼の足を前へ推した。
「山南総長」
影から声。
山崎烝だった。
彼は、敵ではない。味方でもない。
監察。
「戻りましょう」
山南は、薄く笑った。
「烝。君は、良い耳を持っている」
「耳が良くても、足は止められません」
「そうだ」
山南は、雪の上に視線を落とした。
「止められるのは、心だけだ」
山崎は、長く息を吐いた。
「名を、紙に」
その一言が、風の背を止めた。
名を紙に。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
彼は頷いた。
「……戻ろう」
*
連れ戻されたのは、まだ夜が明けきらぬ刻だった。
八木邸の座敷に、白布。
香。
短刀。
座は、いつもより低く、静かに立てられていた。
近藤勇の顔色は、冬の空の色に似ている。
「総長」
言葉は短い。
短い言葉ほど、胸に残る。
山南は、静かに頭を垂れた。
「組を捨てたのは、己の弱さゆえ。裁きを」
近藤は唇を噛み、土方は目を閉じた。
友であり、知恵であり、橋であった。
だが、友誼を秤に乗せれば、法度は軽くなる。
法度が軽くなれば、旗は折れる。
旗が折れれば、町の息が止まる。
止まれば、紙は読まれない。
紙が読まれなければ、明日の一行は消える。
「介錯は、私に」
沖田総司が進み出た。
声音は明るい。
明るさは、刃の角を丸めない。
ただ、座の湿りを保つ。
近藤は頷き、土方は短く目を伏せた。
土方の筆跡は、きわめて冷静だった。
「規律は顔色で曲がらぬ」――そう書いてあるわけではない。
だが、全員がそれを読んだ。
*
座の準備は、美そのものだった。
白布の中央に香。
炭の火を弱く。
灯を一つ、半歩だけ遠くへ。
紙の上で刃が迷わぬよう、畳の目を揃え、縁の線を真っ直ぐに。
山南は、膝の前に置かれた短刀の刃文を見つめ、やわらかく笑った。
「総司」
「はい」
「誠という字は、刀の上に言と書く」
沖田は深く頷いた。
「刀だけになれば、言は死ぬ。言だけなら、刀は錆びる。両方を持て」
「持ちます」
「拍を、忘れるな。拍は、隊の心臓だ」
「忘れません」
袖の中の咳は、今夜は深くない。
深くないのは、意志のせいか、冬のせいか。
山南は目を閉じ、息を調える。
息は、拍だ。
拍が、静かに、内へ沈む。
外の廊では、土方が拳を固めて立っていた。
張り詰めた静けさに、梁が呼吸を合わせる。
規律は、組を守る。
同時に、心を失わせる。
彼はそれを知っている。
知ってなお、刃を最後に置く役を引き受けている。
非情は、情の番人――胸の内で、言葉が乾いた水の温度で繰り返される。
非情を持つ者は、先に傷つく。
傷は、見えないところにできる。
座敷で、山南の声が落ちた。
「御用の顔にて、申し上げる。このたびの科、余人にあらず、我にあり。条は曲げず、顔は折らず。――これ、誠のため」
近藤の目に、光が一度だけ揺れた。
その揺れは、すぐに拍へ戻る。
沖田が一拍置き、「……承知」と低く答えた。
刃が落ちた。
静寂が座敷を満たす。
香の煙が細く、真っ直ぐに上がり、梁の下でふっとほどけた。
山南敬助の名は、その細さの中で、長く、まっすぐに残った。
*
終いの座。
紙が広げられ、印の赤が置かれる。
赤は血ではない。
だが、血の代わりに立つ覚悟の色だった。
山南の名は、戦の名の列とは別に、座の中央に一行で刻まれた。
――『元治元年 冬 山南敬助、法度ニ殉ズ』
短い。
短いほど、重い。
土方は目を閉じ、順番を心でなぞる。
外で斬り、内で斬る。
内で斬る刃は、法度に宿す。
宿すことで、旗は冷えても折れない。
折れない代わりに、温度が一つ、確かに失われた。
廊の端で、永倉が障子に拳を当てた。
「……くそったれの世だ」
彼の声は、刃の音を持たない。
持たないからこそ、深く通る。
原田は槍の柄のない手で拳を握り、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は静かに戸口を閉めた。
近藤は香を絶やさず、山南の名を心に刻み続けた。
名を刻むことは、紙に印を置くのと同じだ。
印は、乾いてから、長く残る。
沖田は、座の終いで一人になった。
白布の中央の白さは、雪の白さに似ている。
雪は、音を吸う。
吸われた音は、心の内で、拍になる。
拍を握っていろ――最期の言葉が、袖の中の咳よりも温かく残っている。
彼は刀の柄を撫で、軽く目を閉じた。
刃の重さは変わらない。
変わったのは、持ち方だ。
言を、刃の上に。
刃を、言の下に。
誠の字を、胸の骨の裏側で、もう一度組み直す。
*
翌朝。
京の空は、薄い鉛の色をしていた。
壬生の路地に、雪は細く残り、足音は柔らかく吸われる。
新選組の名は、町の口でさらに重くなった。
「武勇の象徴」
「恐怖の代名詞」
その二つが、同じ息で言われる。
温もりと硬さの配合が、わずかに変わったのだ。
山南の一行が、隊の芯をさらに硬くし、同時に、ほんの少し温度を奪った。
硬い芯は、折れにくい。
温度の足りない芯は、孤独だ。
土方は、紙を一枚増やした。
『局中法度・付記――殉条』
条の末尾に、短い一句。
――『法度ヲ守ルハ、人ヲ守ルニ同シ。人ヲ守ルハ、法度ノ温度ニ由ル』
墨は乾くのに時間を要した。
乾くまでの間、土方の指先は冷えた水の温度を保ち続けた。
非情は、情の番人。
番人は、門の外に立つのではない。
門の内に立ち、寒さを引き受ける。
近藤は、座の前で短く言う。
「焦らない。息を合わせる。刀は最後」
声は、昨日よりも少し低い。
低さは、芯の硬さから来る。
皆がうなずく。
うなずく拍が、隊の心臓に重なる。
心臓は、確かに生きている。
ただ、温度が一つ、抜けている。
抜けた温度の名を、誰も口にしない。
名前は、紙にある。
紙は、座の中央に置かれている。
置かれた紙の上で、印の赤が、静かに、深く乾いていく。
*
その日から、新選組の決断は、速く、鋭くなった。
座で迷う時間は短くなり、紙の角は丸みを保ちながらも芯を増し、刃の歌は短い節を端正に重ねる。
会津の槍列と拍を合わせ、町奉行の控へ同文異表で迅速に送り、寺社には敬の拍で遅れを埋める。
密偵の運用は帳面化され、匂いは数字に添えられ、礼式の順は身体に沈んだ。
勝ちの夜は続く。
だが、笑いは、いくぶん薄くなった。
薄い笑いは、逃げ道ではない。
薄い笑いは、拍だ。
拍は、温度の減りを測る器だ。
器は空になる前に、満たさねばならない。
誰が、どうやって――
答えは、まだ紙の端に書かれていない。
沖田は、稽古で若い者に言い続ける。
「拍で止まる。斬らずに済む拍は、隊の命を長らえる」
声は明るい。
咳は、夜に深い。
深い夜ほど、彼は笑う。
笑いは拍。
拍があれば、旗は折れない。
折れない旗の布の内側で、山南の言が息をしている。
言は、刃の上にいる。
刃は、言の下にいる。
字の順番は、変えない。
*
夜更け。
八木邸の梁が、またゆっくりと呼吸する。
香の残りが、紙の上に薄く漂う。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
その一行に、今日は新しい重みが加わった。
山南敬助という名の重みだ。
重みは、旗の棒に移り、棒は布を支え、布は風に折れず、ただ冷たさを覚える。
冷たさは、心で温めるしかない。
心の温度は、人の息で上がる。
息は拍。
拍は、隊の心臓。
心臓が温かい限り、旗は揺れる。
揺れる旗の下で、彼らはまた、紙を増やし、座を整え、刀を最後に置く。
非情は、情の番人。
番人は、孤独だ。
孤独は、誇りの別名でもある。
椿の葉が一枚、凍てた庭石に落ちた。
音はしない。
だが、その落ちたという事実が、座の中央に確かに置かれた。
近藤は刀の紐を締め直し、土方は紙を一枚増やし、沖田は笑い、永倉は肩を鳴らし、原田は拳を握り、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は戸を閉める。
火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに拍へ戻った。
拍は歩幅へ移り、歩幅は町に刻まれ、町に刻まれた拍の上で、見えない誠の旗が、なお、確かに、揺れ続ける。
その旗の布の縁に、誰にも見えないほど細い、欠けが生まれていることを、皆、どこかで知っている。
かけた縁は、いずれ言の温度で綴じられるか、刃の歌で切り離されるか。
答えは、まだ夜の底にある。
山南の名が、その底で静かに光り、風の背に、いつまでも、乗っていた。