第十一話 法度の刃、心の鞘
夏の熱はまだ湿りの底で燃えていた。
禁門の黒煙が風に薄まってからも、京の町の空気は煤の匂いをやめない。瓦はひしゃげ、土壁は裂け、人の声はいつもより低く、短い。
新選組の名は、口に出す者の背を伸ばし、同時に背を縮めた。
「お陰で」と言う声と、「あんたらのせいで」と言う視線が、同じ路地の陰で交差する。
勝ちの夜は、いつもそうだ。熱が引くほどに、内側の音が大きくなる。軋みという音だ。
土方歳三は、八木邸の座敷に紙を積んだ。
紙は重い。重いほどよく斬れる。
『局中法度』『局中心得』『軍中法度』――三つの題が、白の上で黒く立っていた。
彼は江戸から持ち出した武家法の冊子の角を撫で、余分を削り、芯を残し、即製の軍に合う形に刃を仕立て直してゆく。
一、私闘・私曲、堅く禁ず。
一、主命に違背する者、軽重三段に処す。
一、金銭を無断に借用すること、御法度。
一、衣服、携行品、行列の順、徒歩・馬上・戦闘の作法、条々。
一、戦功の記は、座にて定め、嘘の余白を残さず。
一、酒席は制す。盃の往来は拍に従い、拍を乱す者は座の外へ。
筆は淡々と進む。
進むたびに、紙の白がひとつ狭くなる。
狭くなる白の分だけ、人の自由も狭くなる。
だが、それでいい。旗を折らないために、先に己を縛る――土方は心の中で繰り返した。
「歳三」
近藤勇が縁で呼んだ。
「うむ」
「厳しすぎやしないか」
土方は首を横に振る。
「名が立てば、寄るのは力だけじゃない。甘えも、虚勢も、讒言も、皆だ。刃を鞘に収めるのは心だが、心を支えるのは規律だ」
近藤は黙って座に戻り、紙の端に目を落とす。
紙には、赤い印の余白も、まだ残っている。
「副長の言う通りですよ」
沖田総司が笑って肩を竦めた。
「剣の稽古だって三日空けば腕が鈍る。規律も同じです。拍を身体に入れ続けないと、歩幅が散る」
袖の中に薄い咳を沈める音が、小さく、短く。
笑みは崩れない。笑いは拍。拍があれば、刀は最後に置ける。
山南敬助は、土方の文書に目を通していた。
学殖ある参謀の指は、文字の棘を優しく丸める。
「厳格は結構。ただ、士の心は“道理の納得”が必要です」
彼は筆先で軽く紙面を叩いた。
「条文の背に、われらが守るべき顔の姿が要る。会津公の名か、京の治安か、あるいは――近藤の誠か」
土方は、短くうなずいた。
「顔は、座に置く。条は、その座を守る鞘だ」
*
朝の座。
板戸が開き、涼しい風が一度だけ入り、すぐに湿りに変わる。
山南が読み上げる。
『局中法度』――声は静かで、よく通り、角のない言い回しで芯を残す。
土方は補条を配り、行列順の板図を見せ、巡察路の区割りを新しい拍で刻む。
御所周辺は会津と拍を重ね、祇園・木屋町・島原は“見せる拍”と“見せない拍”を交互に。
目付――監察の役を明確に。山崎烝が中心、島田魁が影を支える。
伍長制度を敷き、組の拍を小さく分け、乱れた拍が全体へ伝わらぬようにする。
密偵の帳面は、匂いまで記す欄を設ける。「香」「油」「煤」「汗」。
御用改めの礼式は、言葉の順を決める。「名→用向→座→紙」。
褒賞と譴責は明朗にし、戦功の記録は、嘘の余白を作らない記法で統一する。
酒席の順は、拍で厳禁とし、「芹沢の夜」を再び呼ばぬように、笑いの角度まで定める。
永倉新八が腕を組んだ。
「紙の刀で斬れるのかよ」
毒を含ませた声に、沖田が笑う。
「斬れますよ。何度も見たでしょう。紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。刀は、その一行のための最後の手段です」
原田左之助は鼻で笑い、「槍は見せると効く」と指で穂先の角度を空に描いた。
井上源三郎は若い者の帯を結び直し、「結び目が拍だ」と低く言った。
近藤は皆の顔を見渡し、最後に腹を括った。
「誠の旗は重い。だが、その重みを支えるのが法度なら、わしが先に守る」
山南が微かに笑い、土方は印を押した。印の赤は血ではない。だが、血の代わりに立つ覚悟の色だった。
*
実務は、刷新された。
巡察は時計の歯車のように回り出し、区割り地図は毎朝の座の中央に置かれ、拍の変更は小札にして各伍長へ渡る。
目付は、ただ睨む役ではない。見る拍と見せない拍を持つ。「見える監察」「見えない監察」。
山崎は、「聞き書き」の書きぶりを教えた。問う順番、聞く間の長さ、沈黙の使い方。
「沈黙は、同意の別名になることがある。ただし、座の外では罪にもなる」
彼の声は小さいが、芯があった。
『戦功帳』には、余白がなくなった。
「誰が」「どこで」「どの拍で」「どう止めたか」。
刃だけでなく、声や紙や拍も功として記す。
「拍で止めた夜は、血を減らした分だけ大功だ」
土方がそう定めると、若い者の目に新しい居場所ができた。
刃以外の居場所――声、紙、拍。
居場所を与えられた者は、旗を持つ手に力が入る。
酒席は、座の延長とみなされた。
盃の往来、歌の節、笑いの角度――拍に従い、「拍を潰す笑い」を禁じる。
「笑いは軽いが、軽さは逃げ道じゃない。軽さは拍だ」
沖田は盃を人へ渡す時、必ず目を見て一拍置いた。
その一拍が、人を救う夜もある。
*
法度が刃である以上、試し斬りのような夜がある。
最初の事件は、小さな嘘だった。
ある若い隊士が、禁門の折の奮戦を誇張して戦功帳に書き足そうとした。
「ここで斬った」「あそこで助けた」――言葉は大きい。
山南は筆先で余白を押さえ、「ここは拍で止めた」と静かに訂正した。
「嘘の余白を残さない」
土方は声で補った。「余白は、次の嘘を呼ぶ。嘘は、旗を折る」
若い隊士は最初は反発し、やがて目を伏せ、最後に頭を下げた。
「……その拍を、忘れていました」
忘れた拍を思い出させるのが、紙の刀の仕事だった。
二つ目は、酒の拍だった。
祇園の角で、見回りの帰りの二人が、誘われるまま盃を重ね過ぎた。
笑いは拍を軽くし、軽い拍は足をふらつかせ、ふらつきは御用の顔を崩す。
座は短い。
山南が条を読み、土方が処置を告げ、近藤が名を呼ぶ。
譴責、減俸、座の外での奉仕。
「勝ちの夜ほど、拍は乱れる。乱れた拍は、内で斬る」
土方の声は、冷えた水の温度をしていた。
三つ目は、金だ。
戦後の混乱は、金を軽くする。
会計の出納に曖昧が生まれ、貸し借りの言い分は、すぐに顔へ食い込む。
『金銭貸借控』が作られ、名・額・利・期・保証の五欄が決まり、無断借用は法度により重く罰することになった。
「金は重い。旗の布の重さと同じだ」
井上が若い者に言い、山崎が貸出の余白に薄く小さな字で「顔」と記した。
顔が守れれば、旗は折れない。
*
議論は、座の内にある刃と鞘の対話だった。
山南と土方。
刃は進み、鞘は形を正す。
「条を増やせば増やすほど、心の居場所が狭くなる恐れがある」
山南は穏やかに言う。
「居場所は、条の内に作る」
土方は静かに返す。
「条は、心のためにある。心を締め出すための条は、条の名に値しない」
「では、条の背に“顔”を描き続けましょう」
山南は微笑む。「われらが守るべき顔――会津公、京の治安、そして近藤の誠」
「誠は、紙に出すには重い字だ」
土方の目は小さく笑った。「出すのは、最後だ」
沖田は、二人の間で笑いを置く。
笑いは潤滑。
潤滑は、刃も鞘も傷まず動くために要る。
「副長は刃、総長は鞘。僕は拍」
沖田は冗談めかして言い、袖の中に咳を沈めた。
咳の拍は、夜に深い。
深い拍ほど、笑いで薄める。
永倉は毒づく。「紙の刀で斬れるのかよ」
だが、斬れると知っている。
自分の目で、何度も見た。
紙は人の背を伸ばし、刃は最後にだけ短く歌う。
原田は槍の角度を脳裏で調律し、「槍は見せると効く。見せないで効くのは紙の方だ」と肩を回した。
*
稽古は、法度の鞘に刃を無理なく出し入れするための手間だった。
沖田は“斬らない構え”を拡張し、“旗の構え”と名付けた。
「旗を布に出さない夜でも、心に掲げられる構えです」
足の半歩、目の高さ、呼吸の深さ、手首のゆるみ――拍を身体に入れる。
「刀は最後」
この一句は、稽古の合言葉のままだ。
若い者の腰が落ち、肩の余計な力が抜け、目が動いて、耳が開く。
「拍で止まる」
沖田は何度でも言う。
咳はときどき、言葉の間に落ちた。
落ちた咳を拾い上げるように、笑いが置かれる。
笑いは拍。
拍は隊の心臓。
心臓が温かい限り、旗は折れない。
土方は、稽古場の端で、数字を見ていた。
巡察の歩数、座の時間、誓紙の数、譴責と褒賞の比。
数字は嘘をつかない。
数字を紙に置くと、嘘の余白が狭くなる。
余白が狭いほど、刃の出番は遅くなる。
*
礼式も変わった。
御用改めの場での言葉の順は、「名→用向→座→紙」。
先に名を問う。名のない刃は、朝の一行で居場所を失う。
用向を告げ、座へ連れてゆく。座の上で紙が効く。紙が効けば、刃は最後の最後にだけ短く歌う。
寺社筋へ向けては、別当の顔に敬の拍を置く。
「人の顔に拍を置けば、紙が早く乾く」
山南の言葉は、紙の匂いと一緒に広がった。
『褒賞控』には、声が載り始めた。
刃の勝ちだけでなく、声の勝ち、紙の勝ち、拍の勝ち。
「勝ちは血が少ない夜の数。負けは順番を違えた回数だ」
土方の言葉に、若い者の背は自然に伸びた。
*
事件は、座の整えを試した。
祇園の辻で、長州の残党が密かに集まるとの報。
新選組は拍を二重に敷き、「見せる拍」と「見せない拍」を交互に置いた。
近藤は声で前を固め、井上が門の拍を守り、永倉が笑いで間合いを潰す。
山崎は影で合図の間を数え、島田が逃げ足の横の拍を肩で崩す。
座はその夜、路上に敷かれた。
「名を」
「御用の顔の内」
「紙で」
「座で」
刀は、一度も歌わなかった。
歌わなかった刃のかわりに、紙の重みが増えた。
別の夜、小さな脱走未遂があった。
若い隊士が、戦の恐怖と譴責の重さに耐えかね、夜陰に紛れて出ようとした。
法度に照らせば、切腹。
座は重くなる。
近藤は目を閉じ、土方は口を結び、山南は紙に手を置いた。
「条は条。だが、道理の納得がいる」
山南は言った。「なぜ彼の足は夜に向かったのか。どの拍で躓いたのか。拍の修繕をせずに刃だけ置けば、旗は冷える」
土方は長い沈黙ののち、うなずいた。
「軽重三段の内で、中」
譴責と奉仕、法度読合の先唱、夜間見回りの増。
若い者の目から、石のようなものが落ちた。
落ちた音はほとんどしない。
だが、落ちたという事実だけが、座の中央に残った。
*
山南の筆は、土方の刃に鞘を合わせていった。
条の角は丸まりすぎず、芯は硬いまま。
「厳格は結構。ただ、顔が先だ」
会津公の名、御用の顔、京の治安、近藤の誠。
それらを条の背に一つずつ貼り付けるように、山南は裏打ちの紙を重ねる。
「顔が見えれば、士は道理を納得する」
土方は、表情の砂利を一つ落とした。
「お前の紙は、湿りが良い」
「湿りは、人の手でしか保てません」
ふたりは笑った。
笑いは、刃と鞘の間の油だ。
だが――沖田は、山南の目の翳りを薄く感じていた。
条を整え、座を増やし、紙を重ね、拍を刻むほどに、山南の瞳の奥に音のない波が立つ。
「誠の旗は、誰かの体温で温めなければ冷たくなる」
その“誰か”の名を、沖田は心の中でいくつも挙げては、笑いで隠した。
笑えば、胸の奥の咳が少し温かくなる。
温かくなれば、拍は乱れない。
乱れない拍の上に、翳りはうっすらと乗り続けた。
*
秋のはじめ、夜の試しが行われた。
土方の発案で、虚の火急――抜き打ちの寄合。
合図は三度、間は短く、灯は半分落とす。
誰がどの拍で座に入り、紙をどの順で回し、声がどこに立ち、刃をどこに置くか。
「紙の刀の、試し斬りだ」
永倉が笑い、原田が槍を見せずに握り、井上が門の拍を構え、藤堂が横の間を塞ぐ。
山崎は影で合図の間を数え、山南は裏打ちの紙を準備する。
沖田は若い者の背に「半歩」を貼り付けてゆく。
座は、見事に立った。
声が先、紙が次、刃が最後。
試しの夜は、一本の刃も歌わずに終わった。
終わりの座で、土方は短く言う。
「順番は、刃より重い」
近藤はうなずき、山南は微笑み、沖田は笑い、皆の胸の内で誇りが音もなく膨らんだ。
しかし、山南の目の翳りも、同じ夜に濃くなった。
刃を研ぎすぎれば、鞘に返しにくくなる。
鞘は、心だ。
心は、旗の布だ。
布は、風で折れる。
折れないために、誰が温めるのか。
山南は夜更けに一人、紙の束に手を置いた。
紙は冷たい。
冷たい紙の上で、指の腹だけが温かい。
その温かさが、足りるかどうか。
彼の瞳の奥の波は、返し波の形をしていた。
*
町も、法度の刃と心の鞘を見ていた。
祇園の年寄は、拍の地図を指で辿り、「座が増えましたな」と言った。
「座が増えれば、紙が効く」
土方は頷いた。「紙が効けば、刀は最後に置ける」
年寄は扇で自分の頬を扇ぎ、「けど、人は紙で笑わへん」と笑った。
笑いは人でしか保てない湿り。
湿りは、組の役目だ。
沖田は盃を一つ受け取り、一拍置いて返す。
その一拍で、年寄の目尻の皺が深くなった。
町奉行の下役は、控の紙をめくり、「嘘の余白が減った」と鼻を鳴らした。
「減らした」
土方の返しは短い。
「余白は、次の嘘を呼ぶ。次の嘘は、旗を折る」
下役は笑い、「紙の匂いが増えた」と言った。
紙の匂い――湿りと墨の混じった匂いは、血の匂いを薄める。
薄まった匂いは、別の血を呼ぶ危うさも併せ持つ。
それでも、紙を増やすしかない夜がある。
それが、今だ。
*
内は、刃を向ける場所でもある。
法度の読み合わせは毎夕刻となり、条を一点ずつ声に出す。
井上の柔い声、永倉の硬い声、原田の太い声、藤堂の軽い声、沖田の明るい声。
声の拍は、納めの音に似ている。
納めの音は、刃の音ではない。
座の終いの、火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに戻る音だ。
ある夜、讒言が座の端に落ちかけた。
誰それが金を抜いた、誰それが戦功を盛った――口の形だけの声が、湿った畳の上を滑る。
山南は、そこで笑った。
「条の背に、顔を置きます」
彼は紙を開き、言い分を書面に移し、「名」を求め、「座」に乗せた。
名を持たぬ讒言は座に入らず、紙の外で消えた。
土方は、山南の筆に鞘の光を見た。
鞘は、刃を守るためにある。
*
秋が深まり、夜気の冷たさが旗の布に似てきた。
近藤は、一日の終いにいつもと同じ言葉を置く。
「焦らない。息を合わせる。刀は最後」
土方は、紙を一枚増やす。
山南は印を用意し、沖田は笑い、永倉は肩を鳴らし、原田は拳を握り、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は戸を閉める。
火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに拍へ戻る。
その拍がある限り、旗は心で揺れ続ける。
だが――夜が更け、皆が散じた後、座敷に残る音が一つあった。
紙を撫でる、優しい指の音。
山南の指だった。
彼は、規律の刃が鞘へ無理なく返るかどうかを、何度も試すように紙の端を撫でた。
撫でるたびに、紙の白がわずかに光り、指の温度が少し下がる。
温度の落ちるという事実だけが、彼の胸の奥に残る。
彼は知悉していた――刃を研ぎすぎれば、鞘に返しにくくなるということを。
そして、鞘を硬くしすぎれば、刃は斬れなくなるということを。
その均し目は、人の中にしか引けない。
沖田は、その音に気づいていた。
廊下の向こう、灯のない角で彼は立ち止まり、咳を袖に沈め、笑って声をかけた。
「総長。紙の音は、刃の音より、僕は好きです」
山南は驚いたように顔を上げ、薄く笑った。
「紙は、明日の命だからね」
「はい」
「だが、紙が冷たくなる夜がある。旗も、冷たくなる」
「旗は、誰かの体温で温めます」
沖田は答えた。「総長の体温は、旗の布に合います」
山南は、少しだけ目を伏せた。
「いつまで、かな」
言葉は短く、やわらかく、危うかった。
沖田は笑って、答えを置かなかった。
答えは、旗の布に触れる指の温度の中にしかない。
*
持続する組織へ――名ばかりの勝者が、名で長く生きるための変態は、ほぼ整った。
紙は増え、座は増え、拍は身体に入り、刀は最後に置かれる。
褒賞は明るく、譴責は冷たく、礼式は整い、密偵の帳面は匂いを記し、御用改めの言葉は順番を得た。
「紙で斬れ。座で斬れ。最後に、刀で斬れ」
この順番は、隊の骨となり、誠の旗の棒となった。
棒があれば、布は折れにくい。
ただし、棒が固すぎれば、布の縁が切れる。
切れ目は、人に出る。
切れ目は、笑いの少ない夜に現れ、咳の深い夜に現れ、紙の冷たい朝に現れる。
土方は、山南の目の翳りに、まだ言葉を置かなかった。
言葉を置けば、たぶん、それは条になる。
条になれば、鞘は硬くなる。
硬くなりすぎた鞘は、刃を外へ押し出す。
外へ押し出された刃が切るのは、たいてい内だ。
内で斬れば、旗は冷える。
冷えた旗は、体温を要る。
体温を誰が差し出すのか――
答えは、まだ座の外、夜の隅に置かれたままだ。
*
夜更け、八木邸の梁がゆっくり呼吸した。
誠の旗は布に出されず、胸の骨の裏で静かに揺れる。
揺れは、拍に合っている。
拍は、歩幅に移る。
歩幅は、町に刻まれる。
町に刻まれた拍の上で、紙が微かな音を立てる。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
その一行のために、法度の刃は研がれ、心の鞘は形を正される。
刃と鞘は、互いの温度を測り合い、均し目を探す。
均し目は、人にしか引けない。
そして、その線を引く者の目に、翳りが差しはじめていることを、皆、どこかで知っていた。
知って、まだ言わない。
言葉は、時に刃だ。
今は、鞘の温度を守る番だ。
椿の葉が一枚、庭石の上に落ちた。
音はしない。
だが、落ちたという事実だけが、座の中央に確かに置かれた。
近藤は刀の紐を締め直し、土方は紙を一枚増やし、山南は印を用意し、沖田は笑い、永倉は肩を鳴らし、原田は拳を握り、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は戸を閉めた。
火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに拍へ戻る。
拍は隊の心臓。
心臓が温かい限り、誠の旗は、心の鞘の中で、折れずに揺れ続ける。
――だが、その鞘の内側に、細く、見えない傷が走りはじめていることを、のちに紙は記すことになる。
その傷の名を、今はまだ、誰も口にしない。
法度の刃は研がれ、心の鞘は温められ、旗は静かに、確かに、揺れていた。