第十話 禁門の変
夏の気は、湿りと熱のあいだで揺れていた。
池田屋の夜から、幾夜も経たぬうちに、京の町の音程は半拍ずれた。
噂は、油を含んだ紙のように軽く、よく燃える。
長州――、その二字はいつしか火の字と隣り合わせになり、路地の影では「御所」「蛤」「門」という三つの音が、唇の中で小さく擦れ合っていた。
新選組は、紙を増やし、座を増やし、刀を最後に置く順番を守ってきた。
だが、この夏のある日、その順番を一歩、前へ詰めざるをえないと、土方歳三の骨は先に知った。
「――風が、違う」
夜の巡察の帰り道、土方は足の裏の温度でそう言った。
山南敬助が筆をとり、地図の上に三つの丸を置く。
「蛤御門、乾の方。」「御所東、清水谷。」「九門筋、要衝。」
丸と丸のあいだに線を引く。線は細く、しかし芯は固い。
見える拍。
見えない拍。
退路の拍。
いつも通りの三重の拍で、いつも通りではない風に備える。
会津藩邸からの使いは、短い挨拶と、固い紙の束を置いた。
「長州、進軍の構え。御所へ出る由。――御用の顔、重々に」
近藤勇は深く頭を下げ、「旗は心に、拍は我らが刻む」と返した。
旗――誠。
布に出すには風が強すぎる。
今朝の旗は、胸の骨の裏側に畳み込まれた。たたむ手つきは、刀を鞘に納める手つきに似ている。
八木邸の座敷に、局中法度が再び開かれた。
土方は、条の角を指で一度撫で、「今日の条は、ここだ」と短く告げた。
「隊を離れ、命令に背く者、軽重三段に処す。――戦場でも同じだ。外で乱れれば、内で斬る」
声は氷ではなく、冷えた水の温度を持つ。
冷えた水は喉を正す。熱は、高ぶりやすい。
永倉新八が拳を握り、「勝ちの夜が続くと、人の中の紐が緩む」と言った。
原田左之助は、槍のない手を握りしめ、「槍はまっすぐ、心は半足」と笑って見せた。
笑いは拍。
拍があれば、歩幅が揃い、歩幅が揃えば、刃は最後まで鞘で待てる――はずだった。
だが、京の空に、新しい音が混じった。
――砲声。
遠い雷のように腹の底を叩き、音が遅れて屋根の棟に乗る。
寺の鐘が半拍遅れて応え、町の犬が一度だけ吠え、すぐに黙った。
土方は紙束をまとめ、声を短く落とした。
「出る。御所へ」
*
元治元年六月五日の夜から続いた緊張は、七月十九日の朝、形を変えて立ち上がった。
空は薄曇り、湿りが多い。
御所の乾にある蛤御門は、名に似ず緊く閉じた貝のように見えた。
会津の槍列が青い影を落とし、薩摩の砲列が黙って舌を噛む。
新選組は、御苑の外縁に置かれた“拍”の一角を受け持つ。
「旗は胸に。紙は懐に。声は控えに。――刀は、最後に」
近藤の声は相変わらず、低く、よく通る。
土方はその横で、路の曲がり角、塀の切れ目、溝の蓋の段差まで、地図の上で指の腹に移した。
「風下が危ない。火は、下から舐める。火は拍を食う。拍が食われた通りで一番に乱れる」
山南が頷き、控の文言を手早く三通書いた。
「会津」「町奉行」「寺社」。同文異表。芯は一つ。――乱れを拍で抑える。
長州の先鋒が、梁川の方からじりじりと上がってくる。
苗字も家も、布の色も、志の字も、混じっている。
混じるほど、火は速い。
最初の一発は、御所の塀の外で鳴った。
音は乾き、土の匂いを上に持ち上げた。
「走るな。歩幅、半足」
土方の声。
永倉が笑って「半足のまま斬るのは難儀だ」と舌打ちし、原田が「槍は見せる」と門の陰へ回る。
沖田総司は、袖の中に薄い咳を沈めながら、若い者の肩を叩いた。
「斬らない構えのまま、拍だけ上げる。斬らなければならない時が来たら、その拍の上から、半歩で降ろす」
笑うと、胸が温かくなる。
温かさは、咳の拍を薄める。
火は、言葉より速かった。
長州の一隊が、塀際の藪へ火を入れた。
湿りを含んだ葉は、最初ゆっくりと煙を吐き、その煙が風の向きを告げる。
薩摩の砲が応え、砲煙が白く、香のように重なって鼻を刺す。
御苑の土が震え、鳩が一斉に飛び立ち、音が一度、空へ吸われた。
その空が、次の瞬間、黒く垂れた。
黒煙。
御所の屋根の先に、すでに舌を伸ばしていた火は、黒い布を裏から引っ張り上げるように、町の方へ垂れ流れた。
「火だ」
井上源三郎が低く言う。「火の拍が来る」
火の拍――人の息を早め、足を速くし、言葉を短くする。
短い言葉は命令に向く。
「横、塞げ。――原田」
土方の短い指示に、原田が槍で“見せる”。突かない槍は、拍になる。
「裏、抜けるな。――島田」
島田魁が影から出て、影のまま、逃げ足の拍を肩で崩す。
「名を!」
近藤の声が、煙の中でも真っ直ぐ通る。
名は、刃の前に置かれるべきだ。
名のない刃は、あとで紙に載らない。
名のある刃だけが、朝の一行に居場所を持つ。
長州の若者が二人、刀に火の粉を散らしながら走り込んできた。
沖田が半歩、斜に入り、刃を受け、受け流し、相手の手首を浅く切る。
浅さは、座へ連れていくための浅さだ。
だが、今は座が遠い。
遠い座は、火に食われやすい。
永倉が笑いで間合いを潰し、刃の歌を短くする。
「歌は短く!」
歌――刃の節回しのことだ。
長い歌は美しい。戦では要らない。
短い歌は、相手の膝から力を抜く。
砲の音が、門の外で二度続いた。
薩摩の砲列が、黒い風を居どころに戻す合図を打つ。
土方は耳で数え、地図に置いた線を、頭の中で半歩ずらした。
「ここで止まる。ここで押し返す。ここで、退路の拍を切る」
短い言葉が、足へ落ちる。
足は、地面の凹凸を拾い、溝を跨ぎ、倒れた枝を踏まない角度で進む。
拍は、足の裏に宿る。
黒煙の下、御所の瓦が爆ぜた。
火の舌が塀の上から町へ伸びる。
御苑の外、烏丸口の方で、京の家が燃えだした。
瓦版でしか見たことのないほど大きな火の花が、昼の空に咲く。
土方は、歯を食いしばって呟いた。
「火は、刀より人を殺す」
刀は、順番を守らせるために振るう。
火は、順番そのものを焼く。
「勇!」
土方が近藤を呼ぶ。「声を! 拍を!」
近藤は頷き、煙の中で声を張った。
「焦らない。息を合わせる。刀は最後!」
声は拍。
拍は、胸の内側で確かに一つになる。
若い者の足が、走る拍から、半歩の拍に戻る。
戻った拍の上で、刃の角度が整う。
整った角度で、刃は短く歌う。
永倉が一人を切り伏せ、原田が槍で“横の拍”を押さえ、井上が門の拍を守る。
藤堂平助は、煙の切れ間を縫うように走り、敵の横顔を刃で掬い、すぐに身を沈めた。
「藤堂、深く入るな!」
土方の声。
深い刃は、戻る拍が長い。
戻る拍が長い者は、火に呑まれやすい。
浅く、短く。
浅く、短く。
その繰り返しで、戦は進む。
沖田の咳は、煙で増えた。
咳は敵だ。
だが、咳の拍を刃の拍へ重ねることで、短い歌を刻むことができる。
刃が肺の拍で動く。
肺が刃の拍で動く。
不思議な均衡の上で、総司はまだ笑えた。
笑いは拍。
拍は、隊の心臓。
心臓が速ければ、刃は細くなる。
細い刃は、血を少なくする。
血が少なければ、紙が効く。
紙が効けば、明日の一行が増える。
黒煙の向こうで、蛤御門が一度、鳴った。
長州の旗が塀際に翻り、薩摩の砲声がそれを押し下げる。
会津の槍が横を掃き、残った者が北へ走る。
「追うな!」
土方の声が、足を止めた。
「追えば、火に入る。火は、人の勝ち負けを知らぬ」
追わない拍は、勇気が要る。
足が勝手に前へ出そうとする。
その足を、声で押さえ、紙で縛る。
御所の周りは、昼なのに夜だった。
黒煙が空をふさぎ、火の音が風になる。
その風の中で、名が消えていく。
「御所は守る」「京は焼ける」
矛盾は、煙に混じって吸い込まれ、胸の奥に重くなる。
井上が誰にも聞こえないほどの小ささで言った。
「これが戦か」
誰も答えない。
答えは、火に呑まれる。
*
午後。
戦は、押し引きと、燃え広がりの綱引きになった。
長州は御所へ寄せ、薩摩は砲で押し返し、会津は槍で列を固める。
新選組は通りを受け持った。
通りは、戦場の血管である。
血管を塞ぐ仕事は、華やかではない。
だが、塞げば、遠くの刃まで鈍る。
「この角、三拍で閉める。向こう、二拍で開け、二拍で閉める」
土方は拍の数で、通りの呼吸を作る。
井上が門の拍を数え、永倉が笑いで間合いを潰し、原田が槍で見せ、藤堂が抜け道を塞ぐ。
山崎烝は、火の匂いと人の匂いを嗅ぎ分け、火の流れ図を紙の端に描いた。
「ここで火が止まる――風向き、塀の高さ、溝の深さ」
土方はひと目で理解し、短く頷く。
「紙は刃の上。火は紙の上。――順番を間違えるな」
黒煙の下、人が倒れた。
名を呼ぶ前に、火の粉が顔を覆う。
若い隊士の一人が、膝から落ちる。
永倉が手を伸ばし、原田が肩を抱え、井上が額に触れる。
「……名を、紙に」
井上の声は、ほとんど祈りの形をしていた。
山南が紙を開き、震えない手で一行を増やす。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
だが、今日の命は、火で削られていく。
削られた分だけ、紙は重くなる。
重くなった紙を、土方は胸の内側で支えた。
「内で斬る」
自分に向かって言う。
「外で勝った夜ほど、内で斬る」
法度の刃は、内へ向けてこそ、旗を守る。
夕刻。
火は少し、沈んだ。
風が変わり、黒煙の垂れ幕が御苑の上へ押し戻される。
薩摩の砲が、湿りを含んだ空気の中で鈍い音を残し、長州の列が崩れる。
「退く拍が来る」
土方が言う。
退く拍には、横の拍が効く。
原田が槍で横から押し、永倉が笑いで肩から力を抜かせ、藤堂が足を刈り、井上が門を三拍で開け、三拍で閉める。
開けた三拍を知らない者だけが外へ出る。
出た者は外の拍で止まる。
止める声は短い。
短い声は、刃の合間に入る。
御所の周りの一日は、そこでやっと終わりに向かい出した。
日暮れという言葉が、煙の向こうで形を取り戻す。
その形の中で、勝敗が、やっと人の言葉になった。
「勝ちは、こちら」
会津の目付は短く言い、印の赤を紙に置いた。
赤は血ではない。
だが、血の代わりに立つ覚悟の色だった。
*
夜。
御所の周囲に、焼け跡が広がった。
炭になった梁、ひしゃげた釘、黒く光る瓦、臓物のように露出した土壁。
焼け臭は、衣の内側まで入り込み、取れない。
女が泣く。
子の声が掠れる。
男の目が、燃え残りの灰の上で、恐れと憎しみを交互に結ぶ。
新選組の名は、その視線の中で**「武勇の象徴」と呼ばれ、同時に「恐怖の代名詞」**に変わっていった。
象徴は、布の上では軽い。
代名詞は、口の中で重い。
重くなった言葉の重みを、肩で受ける者は、夜に眠れなくなる。
八木邸へ戻る道で、近藤は刀の紐を締め直し、土方は紙を胸に押し当てた。
「座を持つ」
近藤の声は、まだ戦の中の低さを残していた。
座は短い。
山南が『局中法度』の角を撫で、条を読み上げる。
「私闘、賭博、乱妨狼藉、堅く禁ず。――戦の夜こそ、内を乱さぬこと」
土方が続ける。
「旗は心に。紙は増やす。勝ちの夜にこそ、紙を増やす」
永倉は肩を鳴らし、原田は槍の穂先を心の中で磨き、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は若い者の帯を結び直す。
沖田は、笑った。
笑いは拍。
拍は、隊の心臓。
心臓が生きているかぎり、旗は折れない。
ただ、胸の奥の咳は、今夜はいつもより深かった。
深い咳は、夜の底に沈み、朝まで出ないふりをする。
「――名を、読み上げる」
山南の声が、座の空気を一度で変える。
戦で倒れた者、火に呑まれた者、煙に窒息した者。
名前は、短い。
短い名前ほど、重い。
土方は目を閉じ、順番を確認する。
外で斬り、内で斬る。
内で斬る刃は、法度の条に宿す。
条を読んでから、紙に印を置く。
印の赤は、血ではない。
だが、血と同じところで乾く。
*
翌日。
京の町は、起き上がる代わりに、燃え残りの上に座った。
祇園の年寄が、新しい扇を古い煤で曇らせながら言う。
「助けに来やはったんや。――それでも、人は燃えました」
「火は、刀より人を殺す」
土方は同じ言葉を、今度は声に出して言った。
年寄は頷く。「旗は見えへん方が、折れへん」
「旗は心に」
近藤が返し、山南は控を三通、同文異表で書く。
寺社の別当は、鐘の打ち方を半拍遅らせ、「人の息に合わせる」とだけ言った。
町奉行の下役は、「紙は効いた」と短く言い、「紙の匂いが残っとる」と鼻を鳴らした。
紙の匂い――湿りと墨の混じった匂いは、血の匂いを薄める。
薄まった匂いは、別の血を呼ぶ。
それが、運命の歯車の音であることを、新選組はまだ言葉にしなかった。
言葉にすれば、歯車が早まる気がしたからだ。
土方はその夜、紙を一枚増やした。
『夜警次第・禁門編 火ノ後ニコソ、拍ヲ乱スナ』
墨を含ませ、最初の一画に力を入れる。
勝ちの夜ほど、拍は乱れやすい。
乱れた拍は、旗を折る。
旗が折れれば、町の息が止まる。
息が止まれば、紙は読まれない。
紙が読まれなければ、明日の一行は消える。
明日の一行を残すために、今日の夜に刃を短くする。
短い刃は、長く効く。
永倉がぽつりと言った。
「俺たちの名、誠の名、これからは“怖い”って声と一緒に呼ばれる」
原田が応じる。「怖い名は、逃げ足を止める。止めた足の分だけ、紙が効くなら――」
「効かせる」
土方が言った。「効かせるために、内を斬る」
沖田は、笑った。
笑ってから、袖の中で咳を一つ、深く沈めた。
沈めた咳は、朝には忘れたふりをする。
忘れたふりの上で、稽古の拍を増やす。
増やした拍は、若い者の足に残る。
*
禁門の変は、瓦版の字を大きくし、寺の鐘を重くし、町の息を浅くした。
その名は勝ち負けの印と一緒に読まれ、新選組の字と並べられて、二つの異名を得た。
「武勇の象徴」。
「恐怖の代名詞」。
象徴は、人の背を伸ばす。
代名詞は、人の背を縮める。
伸び縮みの間で、人は疲れる。
疲れた人の拍は乱れ、乱れた拍は夜の端で火を呼ぶ。
その火を、紙で吸う。
吸いきれない夜は、座で吸う。
座でも吸えない時だけ、刀で吸う。
順番は、変えない。
御所の塀の影には、まだ黒い煤が残っていた。
黒の上に、白い紙が置かれる。
山南の筆が走り、印の赤が載る。
赤は血ではない。
けれど、血と同じところで乾く。
乾いた後に残るのは、一行。
『元治元年七月十九日 禁門ニ於テ乱ヲ鎮ム』
この一行は、刃の歌より短い。
短いが、長く効く。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
夜更け、八木邸の梁がゆっくり呼吸する。
旗は鳴らない。
鳴らない旗の代わりに、息がある。
息は温かい。
温かい息があるかぎり、誠の字は、胸の骨の裏で折れない。
折れない字を支えるために、彼らは手間を惜しまない。
外で斬り、内で斬り、紙を増やし、拍を刻み、刀を最後に置く。
非情は、情の番人。
恐怖と規律は、日常を守る殻。
殻の内側で、人の息は温かい。
椿の葉が一枚、焼け跡の黒の上へ落ちた。
音はしない。
だが、その落ちたという事実だけが、座の中央に確かに置かれた。
近藤は刀の紐を締め直し、土方は紙を一枚増やし、山南は印を用意し、沖田は笑い、永倉は肩を鳴らし、原田は拳を握り、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は戸を開けた。
冷たい夜の空気が座敷へ流れ込み、火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに拍へ戻った。
拍は歩幅に移り、歩幅は町に刻まれ、町に刻まれた拍の上で、見えない誠の旗が、はっきりと、揺れ続けた。
運命の歯車は、確かに速くなった。
音は静かだが、確かだ。
速くなった歯車の歯は、人の名を噛む。
噛まれた名を紙に載せ、載せた名を拍で守り、拍で守れぬ夜は、刀で守る。
それ以外の道は、どこにもなかった。
だから彼らは、毎朝旗を畳み、毎朝そっと広げ、毎夜、順番を確かめる。
紙で斬れ。
座で斬れ。
最後に、刀で斬れ。
――そして、刀を鞘に戻したあと、もう一度、紙を増やせ。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
その一行のために、禁門の夜はあった。