第九話 池田屋騒動
六月の夜は、湿りを含んだ熱がゆっくりと石畳に降りてくる。
京の路地は、灯の数で表情を変える。灯が多ければ人も多い。だが、この夜に限って、灯は多く、声は少なかった。声が少ない町は、別の音を孕む。紙の擦れる音、帯の結び直される音、息の拍が合わない音――合図だ。
新選組は、いつもと同じ半歩で歩き、いつもと同じ順番で呼吸を合わせ、刀は最後に置くと胸に決めていた。けれど、今夜だけは、その最後がすぐ隣まで来ているのが分かった。足の骨で分かる。喉の奥で分かる。
「池田屋」
その名が、影の中でひそやかに置かれたのは、宵の八つ少し前だった。
山崎烝の紙は薄く、しかし、紙が薄いほど墨は沈む。
――『長州ノ者、池田屋二集ル。火薬、油、合図ハ三度。橋、御池ノ裏。』
紙には血はついていない。だが、血の代わりに明日の一行が乗っている。紙を増やすために、今夜は刀を置く。順番を変えないまま、最後の場所へ辿り着く。
八木邸の土間で湯の音が跳ね、女主人が盃を差し出す。
「どうか……どうか、無事で」
近藤勇は深く頭を下げ、「斬らずに済めば、それが一番」と静かに返した。
土方歳三は盃を口に運ばず、指先で冷たさだけ確かめ、所定の位置に非情を置き直す。
「非情は、情の番人」――胸の奥でだけ言葉が鳴る。聞かせない言葉ほど骨を硬くする。
旗は、今夜は置いてゆく。
誠の布は風で折れる。折れて戻るまでの間に、誰かの命が風に攫われる。旗は心に畳み、拍で支える。心の旗は折れない。折れない旗を持って、彼らは四条から三条へ、御池へ抜ける裏の筋に入った。
*
池田屋の間口は広くない。
だが、広くない場所ほど音は遠くまで届く。畳が軋む音、盃が触れ合う乾いた音、紙の束が卓の脚でわずかに擦れる音。
見える拍は表の梯子段に、見えない拍は裏の井戸端に、退路の拍は路地の角に置く。
土方が影の位置に立ち、井上源三郎が門を抑え、原田左之助が“横の拍”を受け持つ。
近藤は表。
沖田総司、永倉新八、藤堂平助が続く。
「走らない。――息を合わせる」
近藤の声は低く、よく通る。声は拍だ。拍が脚へ移る。脚は階へ移る。階の上の畳で、刃の角度が決まる。
襖の隙間。
男たちの影。
長州の袖。土佐の裾。越前の帯。京に潜んだ町の者の柄。
言葉は大きい――「御所炎上」「中川宮幽閉」「容保斬り捨て」。
そして、大きい言葉の間に、小さな段取りが挟まる――「火薬は十」「油は四斗」「合図は三度」「橋の下」「御池裏」。
沖田は目で数え、耳で刻む。合図は間だ。三、二、一――沈黙。沈黙の質が合図になる。
「――今」
土方の声が、影で合図する。
襖が、音もなく滑る。
灯の火が一度だけ揺れ、視線がこちらに向く。
「御用改、新選組!」
声が先。
刀は最後。
しかし今夜、その最後は、声のすぐ後ろに立っている。
最初の刃は、空気を割る紙の音に似ていた。
沖田が“斬らない構え”から“斬る構え”へ半歩で移る。半歩が命の差になる。
最短で手首を断ち、刃はすぐに引き、畳の目へ血を落とさぬ角度で払い、また構えを沈める。
永倉は笑いで間合いを潰す。笑いに刃を向けさせ、刃の重みで相手の膝を奪う。
藤堂は軽い足で横を抜け、背へ回る。
「名を!」
近藤の声が刃の間から通る。
「名、だと?」
嘲り。
嘲りは、刃より脆い。
刃が嘲りを断ち、嘲りは床の埃と混じる。
油紙の匂い。
硝石。
煤。
束が卓の下から転がり出る。
沖田は踏まず、拾う。紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
懐へ入れると、喉が焼けた。焼けた喉は嘘をつかない。
咳が、喉の奥で跳ねる。
咳は敵だ。だが、今は味方にもなる――肺の拍が刃の拍を速める。速い拍は短い歌を作り、短い歌は刃を迷わせない。
「総司!」
永倉の呼ぶ声が、灯の火に合わせて跳ねる。
沖田は振り返らない。代わりに笑う。
笑いは拍。
拍は心臓。
今夜、心臓は早い。
早い心臓は、刃の角度を細くする。細い角度は出血を少なくする。少ない血は、座の明日を大きくする。
梁が低い。
低い梁は、槍に不利だ。
原田は入口で“見せる槍”に徹する。突かない槍は、拍になる。影の中へ走ろうとする足を、音で止める。
井上は門の拍を一定に保ち、外のざわめきを座へ入れない。
土方は影で順番を握り続ける。
「退路、塞げ。――島田、影」
島田魁は大きな体で小さく動き、走る拍を肩で崩す。
「御用の顔の内」
井上の声が低く落ちる。名を問う。
名を言えぬ沈黙は、今夜は火の匂いがする。
土方は刃を見せるだけで止める。刃は見せるだけで効く夜がある。今夜は、その夜だ。
階上、刀の歌は短い節で続く。
「御所を――」「やめろ!」
言葉の尾を、刃の始まりが断つ。
沖田は、刃の間で吐息を整える。
整えるたびに、胸の奥の液体がざわつく。
――いける。
いけると自分に言い聞かせる速度で、刃は二手、三手を刻む。
視界の端が白い。白いのは、灯のせいか、肺のせいか。
もう一手――そこで、からだの中の何かが、ふいに外へこぼれた。
鉄の温度。
口の端に、錆の味。
吐血。
それは音をほとんど伴わず、襟の内側を静かに濡らした。
沖田は、笑った。
笑えば若い者に「まだ大丈夫」と伝わる。
大丈夫ではないことを、最初に知るのは自分で良い。
半歩下がり、半歩横にずらし、刃を受けて流し、相手の肩へ軽く触れ、膝を折らせる。
汗が冷たい。
喉が焼ける。
目が、少し遠い。
だが、拍は乱さない。拍が乱れれば、刃は隊から離れる。離れた刃は、帰ってこない。
「総司!」
今度は近藤の声だった。
声は刃の下を走る。
沖田は頷く代わりに、もう一人の手首を断ち、構えを沈めた。
次の瞬間、世界の音が一度だけ遠くなる。
遠くなった音の中で、自分の心臓の拍だけが、至近距離で鳴る。
拍は速い。
速い拍は、倒れる前兆だ。
沖田は、ほんの半拍だけ目を閉じ、そして――倒れた。
*
「総司が倒れた!」
藤堂が叫ぶや否や、永倉が前へ出る。
「下がるな! 歌を短く!」
歌――刃の節回しのことだ。
長い歌は美しいが、今夜は要らない。短い歌を重ねる。短い歌は、相手の足から力を抜く。
藤堂は横の間から肩口を浅く裂き、相手の目を刃へ釘付けにし、永倉の突っ込みへ道をつけた。
「名を!」
近藤が問い続ける。
名のない刃は、夜明けに残らない。名のある刃だけが、紙の上で位置を与えられる。
「長州――」「土佐――」「越前――」
名を吐く者。
名を吐けぬ者。
吐けぬ沈黙を、刃は沈黙のまま断つ。
階段の下から、援軍の拍が上ってくる。
土方だ。
「囲め!」
声は短い。
短い声は、刃の合間に入る。
「退路の拍、塞げ!」
島田が影で動き、井上が門を押さえ、原田が“見せる槍”で横を封じる。
土方は刃を抜くが、刃で語らない。
語るのは順番だ。
語りを終えてから、刃だけが静かに落ちる。
落ちた刃は、血に溺れない角度で抜かれる。
抜いた後の静けさだけが、刃が通った証になる。
沖田は薄く目を開けた。
視界の端で、誠の字が壁の上に見えた気がした。
旗は、今夜は置いてきたはずだ。
置いてきたはずの旗が、胸の内側の壁に揺れている。
「総司、息を整えろ」
土方の声が遠い。
遠い声は、倒れる身にはちょうどいい。
倒れた体は軽い。軽い体は、稽古で積んだ拍のところまで自然に戻る。
戻った拍の上で、総司は笑って頷き、血の味をごまかすように唇を舐めた。
刃の歌は短く、等間隔で続く。
「もうええ! 逃げるぞ!」
誰かが叫ぶ。
逃げる拍は、早い。
早い拍には、横の拍が効く。
原田が槍で“見せて”押さえ、永倉が笑いで間合いを潰し、藤堂が脇から足を刈る。
井上は門を三拍だけ開け、三拍で閉じる。
開く三拍を知らない者だけが外へ出る。
出た者は、外の拍で止まる。
土方が裏の井戸端で、退路の拍をもう一段固めた。
「紙を拾え」
山崎が、血に濡れた細巻を懐へ入れる。紙は、明日の命だ。
紙を拾い終えてから、刃が一度だけ鳴り、歌が途切れた。
*
夜の音が、ゆっくり戻ってくる。
遠くで犬が一声だけ鳴き、すぐに黙る。
池田屋の梁は、戦いの前より低いように見える。
低く見えるのは、刃の歌の余韻のせいだ。
畳の目に、湿りの斑点。
灯の火は小さく、油は半分以上残っている。
残った油は、運がこちらに傾いた証だ。
「……終わったか」
近藤が刀の紐を締め直し、土方が頷く。
「印を置く」
山南が座に間に合うよう、その場で覚書を起こす。
――『元治元年六月五日 池田屋ニ於テ尊攘派ノ密議ヲ挫ク。火薬・油・合図ノ証、押収。』
紙はまだ乾かない。
乾かぬ紙の上で、印の赤が静かに広がる。
その赤は血ではない。だが、血の代わりに立つ覚悟の色だった。
「総司」
土方がしゃがみ、沖田の額に触れる。
「息は?」
「あります」
沖田は笑う。
笑うと、胸が軋む。
軋む音は、誰にも聞こえない。
聞こえない音ほど長く残る。
「落ちるな。拍だけ、握っていろ」
「握ってます」
「握れているうちは、隊から離れない」
短いやり取り。
言葉は、刃の後始末のようなものだ。
外で、京の夜が、やっと自分の音を取り戻し始めた。
町の息が、怖れと安堵の間で揺れ、揺れがやがて畏れに変わる。
「新選組が、池田屋で」
「長州を斬った」
「誠の旗が、見えないのに揺れた」
噂は走り、走る噂ほど足が速い。
翌朝には瓦版が踊り、文字は誇張され、刃は神話になる。
しかしその神話の裏で、血で血を洗う連鎖が芽吹いていることを、彼らは知っていた。
*
夜が明ける前に、会津の目付へ控を回す。
町奉行所へは『巡察日記』を、寺社には『座控』を。同文異表。言い回しを変え、芯は同じ。
「御用の顔の内にて、乱を鎮む」
土方の言葉は乾いて、よく通る。
目付は頷き、「旗は見せれば折れる。見せずに効かせよ」と短く言った。
「旗は心に」
近藤が返す。
誠の字は、朝の光の中で、まだ布には出されない。
出さずに効かせる――それはこれからの報復の風に備えるためでもあった。
八木邸へ戻る道。
井上が肩で息をしながらも、若い者の帯を結び直す。
「結び目が緩むと、拍が乱れる」
永倉は笑い、「拍が乱れると、刃が喜ぶ」と茶化し、原田は「槍は見せると効く」と肩を回す。
藤堂は袖の血を広げない角度で絞り、山崎は懐の紙に指を添えて温度を確かめる。
沖田は、歩幅の半歩を保って歩き続けた。歩けば咳は出ない。立ち止まれば出る。
立ち止まらない。
隊の拍は歩いている間だけ、一つに重なる。
八木家の門をくぐると、女主人が無言で茶を差し出した。
茶は熱い。
熱い茶は、刃の後の喉に効く。
近藤は礼を言い、土方は紙束を机に置き、山南は墨を磨る。
「座を持つ」
近藤の声で、皆が膝を揃える。
『局中法度』が読み上げられる。
法度は内へ向けた刃だ。
刃を外へ向けた夜ほど、内へ向ける条は重くなる。
「私闘・賭博・乱妨狼藉、堅く禁ず」
「隊の命令に背く者、軽重三段に処す」
「隊を脱する者、切腹」
土方の声は、氷ではなく、冷えた水の温度を持つ。
冷えた水は、喉を焼かない。喉の温度を正す。
今夜、喉は焼けている。
焼けた喉へは、冷えた水が要る。
「武士である以上、規律なくして生きられぬ」
土方は繰り返す。「旗を布に出さぬ夜も、旗は心にある。旗を守るのは、内の刃だ」
沈黙。
沈黙は、合意の形をしている。
井上が「承知」と低く、永倉が「望むところ」と短く、原田が「槍はまっすぐ」と笑い、藤堂が「拍を忘れない」と頷く。
沖田は「稽古を増やします」と笑い、袖の中に薄い咳を沈めた。
*
朝が来ると、京の色は一度に変わった。
嘲りは消え、畏れが濃くなり、やがて頼りが混じる。
頼る目は危うい。
頼られすぎれば、旗は風に攫われる。
土方は、頼りと畏れの境の均し目を測り続ける。
「座を増やす」
山南が『座控』の枠を広げる。
祇園、木屋町、島原、寺社、問屋仲間、町奉行所下役――紙で斬れる夜を増やす。
外で刃を重ねた夜ほど、内では紙を増やす。
それが、組の呼吸だ。
昼下がり、祇園の年寄が静かに言った。
「拍が分かりましたえ」
「分かれば、待てます」
近藤が返す。
「待てる町は、強い」
年寄は頷き、扇をたたんだ。「けど、風は変わりまっせ。長州は黙りまへん」
土方は目を細くする。「黙らぬ相手に、紙は効く。効かぬ夜は――」
言葉はそこで切れた。
切り口は、二人の間で同じ形をしている。
*
池田屋の夜は、勝利の名で呼ばれ始めた。
勝利は、負債も連れてくる。
瓦版は新選組を英雄にし、誠の字を紙面の上で踊らせる。
踊る字は、血の匂いを薄める。
薄まった匂いは、別の血を呼ぶ。
長州の若者は、悔しさと怒りを胸に戻り、別の夜の段取りを始める。
「御所」
「蛤御門」
「会津」
耳慣れた場所の名が、火の字と一緒に呟かれる。
血で血を洗う道が、静かに準備を始めた。
その前兆は、小さいところに現れる。
噂の間が、少し早い。
油の売り声の節が、少し硬い。
寺の鐘の余韻が、少し短い。
山崎は耳でそれを拾い、紙へ落とす。
土方は地図で点を増やし、線を細くし、拍の網を密にする。
井上は帯を結び直し、永倉は笑いを一段低くし、原田は槍を“見せる”角度を一度深くする。
藤堂は若者の目に残る熱を冷やす言葉を探し、沖田は稽古の拍を増やして咳の拍を薄める。
薄めた拍は、夜の端で効く。
夜更け、八木邸の梁がゆっくり呼吸する。
旗は今夜も鳴らない。
鳴らない旗の代わりに、紙が微かな音を立てる。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
明日の一行のために、今日の刃はあった。
刃を鞘に戻した後は、紙を増やす番だ。
土方は『夜警次第・改』に小さく一行を足した。
――『大事ノ後ニコソ、拍ヲ乱スナ。勝チノ夜ニ、最モ紙ヲ増ヤセ』
勝ちの夜に紙を増やす。
それは、負けないためではない。
負け方を小さくするためだ。大きな負け方は、旗を折る。
旗が折れれば、町の息が止まる。
息が止まれば、紙は読まれない。
紙が読まれなければ、明日の一行は消える。
*
池田屋の翌々日、庭の砂に小さな血の色がまたひとつ落ちた。
法度に背いた若い者――勝ちの夜は、人の中の油断を呼ぶ。
油断は、内へ向く刃でしか断てない。
座は短い。
山南が条を読み、土方が処置を告げ、近藤が名を呼ぶ。
男は最初に抗い、次に沈み、最後に受ける。
「……申し訳、ございません」
謝罪の拍は、刃の拍と同じ速度に落ちる。
「切腹を命ずる」
土方の声は乾いた水のように落ちた。
庭の風は、旗の位置を変えない。
内の刃は、外の勝ちを旗にするための手間だ。
手間を惜しまない顔は、長持ちする。
長持ちする顔は、町の拍に溶ける。
その日の夕暮れ、祇園の女将が格子の向こうで言った。
「誠の字、心に見えます」
「見えない方が、折れません」
沖田が笑う。
笑うと、胸が少し温かい。
温かさは、咳の拍を緩める。
緩んだ拍は、隊の拍に重なる。
重なった拍は、旗を支える棒になる。
*
夜、近藤と土方は縁に並び、暗い庭を見た。
「勇」
「うむ」
「今夜の勝ちは、明日の紙になる。明後日の刃にもなる」
「分かっている」
「紙を増やす。座を増やす。旗を布に出さない夜を伸ばす」
「出す日が来る」
「出す日が来る」
短い言葉の間に、長い沈黙がある。
沈黙は、覚悟の形をしている。
覚悟は、声に出すと折れることがある。
折れないように、胸の骨に沈めておく。
「総司は」
「息は整っている。笑っている」
「笑いは拍だ」
「拍があれば、旗は折れない」
ふたりはそれ以上言わなかった。
言葉を増やす夜ほど、人は後ろを振り返る。振り返る背に、刃は要らない。
今は前だけ見て歩く夜だ。
前には、次の風が待っている。
*
池田屋騒動――そう呼ばれるようになった夜は、京の町の記憶の中心に座を占めた。
夜が大きければ大きいほど、その周囲に小さな影が増える。
影は噂の間に入り込み、心の湿りを吸って増殖する。
長州の若い者は、悔しさを燃料に蛤御門の名を囁き、薩摩は沈黙を装いながら風向きを測る。
会津は槍の列を固め、町奉行は紙を重ね、寺社は鐘の打ち方を半拍遅くする。
前兆は、もう至るところにある。
前兆は、ほとんど音を立てない。
音を立てないものほど、恐ろしい。
新選組は、紙で斬る夜を増やし、座で斬る昼を増やし、刀で斬る瞬間を短くした。
短い刃は、長く効く。
長く効く刃は、血の匂いを薄める。
薄まった匂いは、別の血を呼ぶ。
その悪循環の輪の外側に、順番を置き直す仕事がある。
紙を先に、声を次に、刀を最後に。
非情は情の番人。
恐怖と規律は日常を守る殻。
殻の内側で、人の息は温かい。
温かい息がある限り、旗は心で揺れ続ける。
椿の葉が一枚、夜の硬い地面に落ちた。
音はしない。
だが、その落ちたという事実だけが、確かに座の中央に置かれる。
近藤は刀の紐を締め直し、土方は紙を一枚増やし、山南は印を用意し、沖田は笑い、永倉は肩を鳴らし、原田は拳を握り、藤堂は帯の結びを確かめ、井上は戸を開ける。
冷たい夜の空気が座敷に流れ込み、火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに拍へ戻った。
拍は歩幅に移り、歩幅は町に刻まれ、町に刻まれた拍の上で、誠の旗が見えないまま、はっきりと、揺れ続けた。
――池田屋の勝ちは、紙で読み継がれ、刃で語り継がれ、そして、人の息で保たれる。
勝ちの重さを、誰よりもよく知る者たちは、次の夜のために、今日の昼を使い切る。
昼の紙を増やしながら、夜の刃を短くしながら。
その手間こそが、組を名で終わらせず、名で生かす唯一の道なのだと、皆が知っていた。