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第八話 池田屋への道

 春を引きずったまま初夏に躍り込む京の空は、薄く曇ってもなお眩しい。

 光の粒が石畳に散り、その一つひとつの間に、名もない噂の影が入り込む。尊王攘夷の四字は、いつの間にか“火の字”と同義になっていた。長州を中心に、薩摩の一部、土佐の流れまで混じり合い、町の裏側で計画は増殖する。放火、騒擾、要人の襲撃、そして御所を揺らす大それた目論見。

 新選組は紙を増やし、拍を揃え、刀を最後に置き続けながらも、その“最後”に手がかかる夜が近いのを、足の骨で感じていた。


 土方歳三は、八木邸の座敷で紙の筋を引き直す。

 「見える拍」「見えない拍」「座の拍」――三重に敷いた線の上に、小さな点を置いていく。点には名が付く。小間物屋の次郎兵衛、島原の張り番の女、木賃宿の夜番、油売りの与三、傘の修繕を生業にする男、そして、新選組の監察。

 山崎烝。

 痩せた肩と、目の奥の光。気配を消す術は刃より鋭く、言葉を増やさぬ口は紙より確かだ。


 「山崎」

 土方が呼ぶ。

 「はい」

 「四条から三条へ、御池に抜ける裏の筋。表の拍を避けて歩く奴らが増えた。誰の指か、指で辿れるように」

 「承知」

 「香の匂い、油の匂い、湿った煤。匂いの道も書け」

 山崎は頷く。彼の紙は地図であり、噂の帳簿であり、夜の呼吸の標本でもあった。

 土方は山南敬助を見る。「控の文言は三種。会津、町奉行、寺社。言い回しは変えて、芯は同じ」

 「芯は“拍”」

 山南は微笑し、筆の先で紙の角を一つ丸めた。「角が立てば、人は紙を閉じます」


 午後の巡察へ出る前、沖田総司は若い者に“斬らない構え”をつけた。

 「刀を抜かなくても、間合いは詰められる。目の高さ、息の深さ、足の半歩。――拍が合えば、斬らずに済む」

 笑いながら、袖の中に小さな咳が沈む。

 紅は薄い。だが、その薄さが逆に胸の奥を冷やすことを、総司は言わない。


 その夜、木屋町の端で、いつもより灯が二つ多かった。

 「灯は、人を呼ぶ」

 井上源三郎が低く言い、永倉新八は笑いで場を滑らせ、原田左之助は槍のない手で“横の拍”を押さえる。

 土方は影の位置を変えた。「見せる拍を一度置く。見せない拍は、裏で息をする」

 山崎が路地の暗がりに立ち、視線だけで“後で”を合図する。


     *


 日が変わるごとに、紙は分厚くなる。

 『巡察日記』『密偵覚』『座控』『夜警次第』『法度読合』。

 その隙間に、小さな紙片が混じる。

 ――「四条切通ノ茶屋二而、長州ノ者、文ヲ受トル」

 ――「三条小橋ニテ、油売り、棒ノ中二細巻」

 ――「御池裏、米屋ノ土間ニ、火薬ノ匂イ」

 字は短く、薄い。薄いほど、深い。


 密偵の網は、人の網である。

 人の網は、破れる。

 破れ目を塞ぐのも人で、破れ目を広げるのも人だ。

 土方は“破れ目”の位置を紙に二重線で引き、そこに山崎と、時に島田魁を置く。

 島田は大柄だが、気配を小さく畳むのがうまい。「大きい犬ほど静かに歩ける」という井上の言葉を証明するように、影を踏まずに影の中へ入っていく。


 尊攘派の動きは、長州を芯に、藩の境を越えてゆらゆらと流れる。

 「御所炎上」「要人拉致」「関白幽閉」――物騒な名目が、平然と口の端に乗る。

 「名目が大きいほど、手口は小さく散る」

 土方は地図に点を打ち、「小さな流れを、拍でせき止める」と呟いた。

 拍は、呼吸であり、隊の歩みであり、町の鼓動でもある。

 同じ拍で囲んだ小さな流れは、やがて“座”に変わる。

 座に変われば、紙が効く。


 しかし、紙で斬れない夜が、近づいていた。


     *


 ある夕刻、島原の年寄が目を伏せて言った。

 「張り番の娘が、奇妙な話を聞きましたえ。『御所を一夜で空にする』と」

 山南が筆を止める。

 「言い回しが“大きすぎる”」

 土方が即座に返す。「大きい時は、どこかに“実務の小ささ”が潜む。材料、火、合図、逃げ道――どこに置かれる」

 「合図」

 沖田が小さく言った。「合図は、拍に混じる。拍を乱す音は、耳に残るはず」

 土方は頷いた。「耳で追え」

 山崎が、耳で追う。

 香の流れ、油の売り声、足駄の歯の鳴り、紙の擦れる音。

 “合図”は、言葉ではなく、回数であることが多い。三度、二度、一度――あるいは、間。

 間の位置が、企みの位置だ。


 夜。

 山崎は三条小橋の下で、棒の中から出し入れされる細巻を見た。

 油売りが笑う。「雨は嫌だねえ」

 「今日は降らぬ」

 山崎が短く返すと、油売りの目がわずかに細くなった。

 「降らぬ日ほど、灯が多い」

 言葉は暗号ではない。ただの言葉だ。

 ただ――拍を知っている者同士の言葉は、言葉の外側に意味を作る。

 山崎は頷き、棒の中をすり抜けた細巻の匂いを嗅いだ。

 硝石。

 煤。

 紙。

 「火薬の話を、紙が運ぶ」

 紙は刃にもなる。


 戻った山崎は、土方の前に小さな紙片を置いた。

 『油売り 与三=長州ノ通詞ト懇。今宵、池田屋裏口ニテ落合フ由』

 池田屋。

 蛍の季節に名をよく聞く宿。

 近藤は地図の上で眉を寄せ、山南は手早く控を三通書き、土方は“見せる拍”と“見せない拍”の配分を変えた。


 「総司」

 「はい」

 「裏から入る。“斬らない構え”のまま、目だけで拾え」

 「承知」

 沖田は笑う。「目は嘘をつかないから」

 笑ってから、袖の中に咳をひとつ沈める。

 咳は軽い。軽いほど、心は重くなる。

 だが、心の重さは、拍を乱す理由にはならない。

 乱れた拍は、外に出る。

 外に出た拍は、誰かの命に触れる。


     *


 密偵の夜は、静かで、長い。

 三味線の音、盃の触れ合い、帯の擦れる微かな音。

 池田屋の梁は低く、廊は狭く、声は遠くへ届かない。

 沖田は、灯の影を踏まないように、足の親指で床を確かめながら進んだ。

 襖の隙間から、男たちの影。

 長州の袖。

 土佐の裾。

 京の町方に紛れた者の着物の柄。

 ――「御所炎上」「中川宮幽閉」「関白擁立替」「松平容保斬り捨て」

 言葉は大きい。

 大きい言葉の合間に、小さな段取りが挟まる。

 「火薬は十」「油は四斗」「合図は三度」「橋の下へ」「御池裏から火を」

 沖田は、目で数え、耳で刻む。

 拍を胸の奥で合わせる。

 ――三度。

 ――三度の間。

 間は、紙に書けないが、体に残る。


 戻り路、喉が乾いた。

 乾いた喉は、嘘をつかない。

 庭の影で、山崎が短く頷く。

 「掴めた」

「池田屋」

 「池田屋」

 言葉は二度、拍に合わせて置かれた。

 土方は息を吐き、「紙を回す」と言い、山南は控を三通、小さく折って懐に入れた。

 「勇」

 「うむ」

 「座を明朝に。――だが、座の前に走ることがある」

 近藤は頷き、刀の紐を締め直した。


     *


 翌朝の座は短く、深い。

 新選組の面々は膝を揃え、旗の誠は壁の上で鳴らない。

 山南が読み上げる。

 「尊攘派、今宵、池田屋にて密議。御所炎上、松平容保襲撃の段取り。火薬、油、合図、逃げ道――複数」

 井上が顔を上げ、「夜の拍を二重に」と言った。

 永倉は肩を鳴らす。「三つに割って、三方から」

 原田は短く息を吐いた。「声で止まらねえなら、槍だ」

 沖田は笑う。「声で止めます。止まらなければ、構えで止めます。構えで止まらなければ――」

 「最後だ」

 土方が締める。「順番は違えない。紙で斬り、座で斬り、最後に刀で斬る。――今夜は、最後まで行く可能性が高い」

 沈黙。

 沈黙は、覚悟の形をしている。

 覚悟は声に出さない方が硬い。


 座が散じたのち、土方は山崎と地図を覗き込む。

 「表の通りから入れば、灯が知らせる。裏の井戸端からなら、音が伝わらない」

 「梁は低い。槍は使いづらい」

 原田が唇を歪める。

 「槍は入り口で“拍”にする。突かずに見せる。抜くのは刀」

 土方の指が点を打つ。「ここで“見せる拍”。ここで“見せない拍”。ここに“退路の拍”。」

 沖田がその指を目で追い、足の裏に移す。

 歩幅の半歩が、紙の上で決まる。

 紙の上で決まった半歩は、夜の中でも崩れない。


     *


 日が落ちる前、八木邸の土間で湯の音が静かに跳ねた。

 女主人が湯を注ぎ、盃を差し出す。

 「……どうか、ご無事で」

 近藤は深く頭を下げ、「斬らずに済めば、それが一番」と静かに返す。

 土方は盃を置き、非情を胸の所定の位置に置き直した。

 「非情は、情の番人」

 聞かせる言葉ではない。

 聞かせない言葉は、骨を硬くする。


 夕闇が濃くなる。

 旗は、今夜は置いてゆく。

 布に出した旗は風で折れる。

 折れて戻る間に、誰かが死ぬ。

 旗は心に畳んで持つ。

 心の旗は折れない。

 折れない旗を持って、池田屋へ向かう。


     *


 四条から三条へ、御池へ抜ける裏の筋は、湿った煤の匂い。

 足駄の歯の音が三度、二度、一度――遠くで。

 合図の“間”は、耳に残る。

 新選組は三つに割れた。

 近藤は沖田・永倉・藤堂を伴って、表の梯子段の拍。

 土方は井上・原田・島田とともに、裏の井戸端の拍。

 山崎は先に、影の中を通る。

 「走らない。――息を合わせる」

 近藤の声が低く落ち、拍が隊の脚へ移る。

 足の裏が石の縁を確かめ、袖が音を殺し、鞘が木の角を避ける。


 池田屋の格子の内で、盃が触れ合う音。

 笑い。

 低い声のやり取り。

 紙が擦れる小さな音。

 山崎が戻ってくる。

 「上」

 その一文字だけで、全員が足を一段高く想像する。

 梁の低さ。

 柱の太さ。

 畳の柔らかさ。

 刀の角度。

 すべてが、目に見えない紙に書き込まれる。


 「――今」

 土方の声が、影で合図する。

 近藤が前。

 沖田が続き、永倉が身を伏せ、藤堂が脇を締める。

 襖が、音もなく滑る。

 灯の火が一度だけ揺れ、視線がこちらに向く。

 「御用改、新選組!」

 声が先。

 刀は、最後。

 だが、今夜だけは、最後が近い。

 刹那、沖田の目が、部屋の隅の束に気づいた。

 油紙に包まれた細巻。

 硝石の匂い。

 ――間に合う。

 胸の奥で拍が加速する。

 咳が、喉の奥で小さく跳ねる。


 部屋の中央で、誰かが立ち上がり、刀の柄へ手をかける。

 「名を」

 近藤の声。

 「名、だと?」

 笑い。

 次の瞬間――

 刃が、紙を裂くような音で夜を刻んだ。


     *


 裏の井戸端で、土方は順番を握っていた。

 外の拍。

 内の拍。

 退路の拍。

 「井上、門」「原田、横」「島田、影」

 短い言葉が、足へ落ちる。

 紙は既に回してある。

 座は明日、持つ。

 刀は今、置く。

 非情は、情の番人である。

 情を守るために、今夜は非情が前へ出る。


 井戸端の闇に、足音が三つ。

 土方は刃を抜かない。

 声を先に出す。

 「止まれ」

 足音が一つ減り、二つが躊躇し、三つ目が走る。

 島田の体が影から現れ、走る足の拍を肩で崩す。

 「御用の顔の内」

 井上の声が横から落ちる。

 「名を」

 沈黙。

 沈黙は罪ではない。だが、今夜の沈黙は、火の匂いがする。

 土方はそこで初めて刃を見せた。

 刃は、見せるだけで効く夜がある。

 今夜は、その夜だ。


     *


 表では、刃がついに歌い始める。

 沖田は“斬らない構え”から“斬る構え”へ半歩で移り、最短で手首を断ち、呼吸の拍で相手の勢いを奪い、また鞘へ戻す。

 永倉は笑いで間合いを潰し、藤堂は軽い足で横へ抜ける。

 「油に気をつけろ!」

 誰かが叫び、誰かが足を滑らせ、誰かが畳を踏み外す。

 畳の目が湿り、灯の火が跳ねる。

 沖田の喉が焼け、視界の端が白く滲む。

 ――咳が、来る。

 彼は笑って、咳を飲み込む。

 笑いは、拍。

 拍は、隊の心臓。

 心臓は、今夜は早い。


 刃の間から、紙の束が転がり出る。

 「油」「火薬」「合図」「橋」

 言葉は短く、血で濡れ、墨が滲む。

 沖田は足で踏まず、手で拾い、懐へ入れる。

 紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。

 明日の一行のために、今日の刃はある。


 階段の下から、土方の声が上がった。

 「囲え! 退路の拍、塞げ!」

 声は刃の上を走り、刃は声の下に沈む。

 順番は、今夜も崩れていない。

 崩れていない限り、名は折れない。

 旗は、心で揺れる。


     *


 夜は、まだ深くなる。

 池田屋の梁は低い。

 梁の低さは、刃の角度を変え、息の深さを浅くする。

 浅い息は、拍を速くする。

 速い拍は、刃の歌を短くする。

 短い歌の合間に、声が入る。

 「名を」

 「御用の顔の内」

 「紙で」

 「座で」

 そして、最後に――

 刀で。


 土方は影で非情を握り直し、近藤は正面で声を立て、沖田は笑いで拍を支え、永倉・藤堂・井上・原田・島田はそれぞれの位置で組を保つ。

 山南は、後で書く紙の一行を、今、胸の中で先に刻んでいる。

 ――『元治元年六月五日 池田屋ニ而、尊攘派ノ密議ヲ挫ク』

 年号の紙は、まだ朝を知らない。

 だが、朝の一行は、もうここに置かれている。

 置かれた一行の上で、刃が、声が、拍が、順番どおりに進む。


 “誠”の旗は、今夜は見えない。

 見えない旗ほど、折れない。

 布は風で折れるが、心は拍で持ち堪える。

 拍が乱れなければ、名は残る。

 名が残れば、紙は読まれる。

 紙が読まれれば、明日の夜が一行ぶん、長くなる。


 外の空気が、わずかに冷えた。

 夜の底が近い。

 池田屋の間口に、見えない朝の輪郭が立ち上がる。

 近藤は刀の紐を締め直し、土方は退路の拍をもう一段固め、沖田は笑い、永倉が肩を鳴らし、原田が拳を握り、井上が戸を押さえ、島田が影を踏み、山南はまだ白い紙の上で、最初の一画を心に書く。


 ――歴史に名高い大事件の幕は、もう上がっている。

 幕が上がったことを、まだ町の誰も知らない。

 知るのは、刃の歌が止んだ後に紙を読む者たちだ。

 今夜、ここで、順番は守られたまま、最後の一段だけが深く刻まれる。

 非情は情の番人で、恐怖と規律は日常を守る殻で、殻の内側に、人の息が温かくある――その証文として。


 椿の葉が、どこかで一枚、音もなく落ちた。

 その落ちたという事実だけが、暗闇の中で確かに、拍になった。

 拍は歩幅へ移り、歩幅は刃の角度へ移り、刃の角度は今夜の命の境へ移り、命の境の上で、名のない風が、静かに通り過ぎた。

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