第七話 新選組、旗揚げ
冬の底は去りきらず、しかし光は明らかに長くなっていた。
壬生の朝は、紙を透かすような淡い白さで始まる。八木邸の座敷に敷いた白布の中央に、一字――誠――が再び、濃く、ゆっくりと立ちあがった。
山南敬助が筆を置き、息を整える。墨は寒さに粘りを増し、布の繊維へ深く食い込む。
「布は風で折れる。折れたら、畳んで持つ」
土方歳三は心のうちでいつも同じ言葉を反芻していた。だが今朝、この布は折れまい。折らせぬための支えは、紙と拍と、そして決意で固めてある。
座の端に、町奉行所からの控が重ねて置かれていた。会津藩目付の印判、町奉行の花押――読めば乾いた官の匂いがする紙だが、今朝に限って、その匂いが頼もしい。御用の顔が借り物の仮面から、彼ら自身の素顔へ移る日であった。
「――新選組」
近藤勇が、布の前で低く言った。局長として初めて、皆の胸を同じ方角へ向ける声。
「今日より、旗を掲げる。町奉行、会津様の庇護のもと、京の治安を担う。拍は今までどおり、刀は最後。紙で斬り、座で斬り、最後に刀で斬る――順番は変えない」
「副長」
呼ばれて土方が一歩進む。
「法度を」
山南が『局中法度』の清書を掲げる。紙面には、幾たびも推敲の跡が沁み、角が丸く、芯は硬い。
一、隊士、私闘・賭博・乱妨狼藉、これを堅く禁ず。
一、勝手に金銭の貸借をなすな。
一、隊務に背き、命令に従わざる者は、軽重三段に処す。
一、隊を脱する者、切腹。
一、名は紙に記し、名なき申立ては座に入れず。
土方の声は淡々として、しかし、刃の裏の冷たさを孕む。
「武士である以上、規律なくして生きられぬ。旗を布に掲げた以上、我らの非情は、外でなく内に向く。顔を守るために、先に己を縛る。――異論は、座で」
沈黙。
沈黙は、同意の形をしている。
沖田総司が軽く息を吸い、笑った。「拍を、稽古の前にも置きます。『斬らない構え』を、今日から“旗の構え”と呼びましょう」
笑いが薄く広がる。恐れを逸らしもせず、軽く受け止める笑いだ。
その日の午の刻、八木邸の表に、新しい立札が据えられた。
【新選組屯所】
白地に太い墨。立札の影が石畳に真っ直ぐ落ちる。
茶屋の主が遠目に見て肩をすくめ、「看板の字は“誠”より読まれやすおす」と言い、年寄が「あれは“看板”で、こっちは“旗”や」と笑った。
笑いの角は、少し丸い。紙の湿りが、町の硬さを少しずつ柔らげている。
*
午後、会津藩邸へ。
表門前、槍が列を成し、青い羽織が冬の光を跳ね返す。
新選組は二列で進む。歩幅は半足。早い者が遅くし、遅い者が早くする、その間の半足。合うか合わないかだけが強さになる。
目付の前で、近藤が両手をつき、頭を下げた。
「本日より、我ら“新選組”、京の治安維持の任、仰せつかりたく存じます。御用の顔は、我らの顔でございます」
目付は短く頷く。「町奉行所とも息を合わせよ。“御用”は顔だけではなく、手足の拍でもある」
「拍は、こちらで刻みます」
土方の返しは乾いて、よく通った。
控の紙が受け渡される。印の赤は、血の代わりに立つ色であることを、彼らは学んでいた。
帰り道、木屋町の川面が薄く光り、橋の上で子らが手を振る。「誠の旗!」
沖田が笑って振り返す。「風で折らないように、拍で支えます」
子らは意味を分からずに笑い、笑い声が川に落ち、流れた。
*
法度が紙から体へ入るには、日数ではなく量が要る。
土方は夕刻の寄合で、職掌を細かく割った。
「一番組――永倉新八、頭取。二番組――原田左之助、頭取。三番組――沖田総司、頭取。井上は組の拍を整える“帯”だ。山南は“紙”の番。俺は“順番”を守る。局長は“声”で拍を刻む」
「拍を乱す者は?」
誰かが訊く前に、土方が続けた。
「まず紙で斬る。次に座で斬る。最後に刀で斬る。――順番を違えた時だけ、組が折れる」
永倉は拳を握り、原田は槍の柄のない手を握りしめ、沖田は「斬らないための稽古を増やします」と笑った。
笑いは軽い。しかし、軽さは逃げ道ではない。軽さは拍だ。重さを運ぶための拍。
翌朝からの巡察は、看板の字が変わっただけではないことを、町に見せる仕事になった。
祇園の夜回りは、角を一つ手前で曲がる――見せすぎない見張り。
木屋町の巡りは、橋の両端で合図を置く――声の届く距離の保持。
島原へは、座の時間を予め紙にし、遅刻の目安を“拍”で書く――「遅れ三拍、退座」。
「三拍?」
若い者が首を傾げる。
「三歩分の呼吸だ」
土方の説明は短い。「人の機嫌は拍で測れる。怒りは早い拍、商いは中の拍、謝罪は遅い拍。――まず息を合わせろ」
紙は増える。
『巡察日記』『座控』『訴訟受覚』『夜警次第』、そして『局中法度・補条』。
山南は墨を磨り、角を落とし、芯を残す。
「紙で斬れる夜が増えるほど、刀で斬る夜は遠のく」
彼の筆は、夜中にもしばしば止まらなかった。
*
旗揚げから三日。
夜半、四条通りの端で騒ぎがあった。
「長州の袖の者が、呑み屋で暴れてる」「看板を折った」――口々の報せが重なり、風に火の粉が混じる。
新選組は二手に割れて向かう。
「刀は抜かない。声で拍を置く。――俺が前」
近藤の声は低く、速く、役を与える。
井上が「後ろの拍」を受け持ち、永倉が「横の拍」を受け持つ。
沖田は路地へ回り、退路の拍を押さえる。
土方は、見えない位置に立つ。順番を動かす役は、見えないところに立つしかない。
店先で、若い侍が盃を握って吠える。「会津の犬ども!」
返す言葉は、短いほど刺さらない。
「御用の顔の内だ。名を」
近藤の声。
「名だと?」
侍の笑いは鋭い。
「名を言えぬなら、紙にする」
土方の声は影から落ちる。
侍は盃を投げ、走る。
沖田が道を半歩塞ぎ、刃ではなく体の角度で止める。
「拍を合わせてください」
若い侍は、言葉の意味を理解する前に、勢いを削がれた。
永倉が軽く肩を押し返し、井上が店主に頭を下げる。
「看板の件、紙で弁済します」
紙が、その夜の刃の代わりになった。
翌朝、町奉行所へ『巡察日記』が上がる。
奉行の下役が読み、鼻を鳴らす。「筋は通ってる。乱暴が減れば、文句は出ん」
「減らす。増やさないための紙は、こちらで用意する」
土方の返しに、下役は目尻で笑った。「紙の匂いが街道まで流れれば、斬る匂いは薄まる」
匂いは、町の記憶の形だ。
紙の匂いで塗り替える。それが、新選組のやり方だった。
*
旗が布に出たときから、内にも風が吹く。
法度の厳しさは、刀の刃と違って、毎日触れる冷たさがある。
脱隊――切腹。酒乱――減俸または切腹。賭博――厳罰。私闘――絶対に許さぬ。
「きつすぎやしませんか」
若い者が小さく言った。
土方は頷く。「きつい。だからこそ、旗が折れない。やわい規律で守れる旗は、最初の風で飛ぶ」
沖田が横から笑う。「きつい分、拍で息を合わせます。苦しい拍は、息が揃うと楽になる」
永倉は歯を見せ、「苦しいのは稽古でいくらでも」と肩を鳴らし、原田は「槍はまっすぐ、心は半足」とふざけて見せる。
笑いが、張り詰めた座をほんの少し緩める。緩んだから崩れるのではない。緩められるところまで張った糸だけが、長持ちする。
やがて――法度は、避けようのない血を呼ぶ。
『私用で夜間に抜け出し、酒場で乱妨狼藉。検束に応じず仲間を殴打』
紙に記された一行は、軽い。だが、軽い一行ほど深い。
座は短い。
山南が条を読み上げ、土方が「処置」を告げ、近藤が「名」を呼ぶ。
男は震え、最初は言い訳を持ち出し、やがて沈黙し、最後に笑おうとした。笑いは形にならず、消えた。
「切腹を命ずる」
土方の声は冷たくない。温かくもない。刃の温度を持たない声。
座の空気がわずかに震え、障子の紙が小さく鳴った。
翌朝、庭の砂に新しい色が一つ加わる。
若い者の目がそれを見、見てから地面を見る。
法度は、旗を守るために内を斬る。
誰も口にしないが、その斬り口の痛みは、外での刃より長く残る。
夜、土方は紙を一枚増やした。
『法度読合 毎夕刻、条を一点ずつ声に出すこと』
声は拍。
声に出した法度は、体の内側へ沈む。
井上が柔らかい声で読み、永倉が硬い声で読み、原田が太い声で読み、沖田が軽い声で読む。
読み終えた後の沈黙は、刀の“納め”と同じ音がした。
*
旗揚げから十日。
御所の北で不審な集会――という密報が会津から落ちる。
「夜半、烏丸口の裏手。上洛中の某藩士ら、文書のやり取り」
紙は簡潔だが、匂いが濃い。
「拍を整える」
近藤の言葉で新選組は散開し、見える拍と見えない拍を二重に敷く。
山南は筆を持ち、会津・町奉行・寺社の三方に同文異表の控を用意。
土方は路の角を地図に起こし、退路の影を“半歩”で塞ぐ。
夜気は薄い霧を含み、鼻先が湿る。
集会の気配は、灯の数で分かる。灯が少し多い。
「名を」
近藤の声が、霧の中でもまっすぐ届く。
返事は鈍い。
「名が出ぬなら、紙にする」
土方の声が、霧の輪郭を固める。
紙の筋を先に敷く。刀の筋は、最後。
侍の一人が抜きにかかる。
沖田が半歩、斜に入り、構えの角度だけで刃を止める。「拍を合わせてください」
斬り合いにならない。
斬らせない構え。
永倉が笑いで間合いを詰め、原田が“横の拍”で押さえ、井上が後ろの拍を守る。
十息のうちに、集会は座に変わる。
座の上では、言葉が刀より効く。
言葉の最後に、紙が置かれ、印が押され、灯が一つずつ消される。
夜は、終わった。
戻り路、土方は旗を見なかった。
風に鳴る布の音は、耳に入っていたが、見れば心の中の何かを緩める気がした。
緩めない。
非情は、情の番人である。
情を守るために、非情が立つ。
順番を違えなければ、情は死なない。
*
町の目は、日に日に変わった。
嘲りは薄く、計る目が増え、やがて「預ける目」が混じり始める。
「昨夜、祇園で客が刀を見せびらかしましてな」
年寄が回状に小さく書いて寄越す。
「まず紙で叱る。紙で足りなければ座。座でも足りなければ――」
土方の返しに、年寄は頷き、言葉を継がない。
言い切らないところに、結び目が生まれる。
結び目は、ほどけにくい。
旗の誠は、子どもたちの口で丸くなった。
「まこっと」
間違った発音に、沖田が笑い、「それでいい」と頭を撫でる。
「正しい声より、同じ拍で言う声の方が、旗には効く」
彼の咳は、昼間にはほとんど出ず、夜に小さく袖へ沈んだ。
出ない夜の方が、不安は深い。
だが、笑顔は崩さない。笑いは拍。拍は隊の心臓だ。
*
旗揚げの月の終い、町奉行所で座が持たれた。
町奉行、会津目付、新選組の三者。
「御所周辺、夜の拍が整ってきた。――次は、東山の寺社筋」
奉行の言葉は乾いているが、褒める匂いが微かに混じる。
「寺社は“顔”が多い」
目付が言う。「顔の数だけ拍がある。拍同士を重ねる仕事だ」
「紙でやります」
山南が控を差し出す。
「紙が先、声が次、刀は最後」
近藤が繰り返す。
土方は座の端で、寺社筋の路の線を頭の内で引き直す。
――見せる拍。
――見せない拍。
――座の拍。
それぞれの線を細く引き、重ねて太くする。組にする。
戻りの道で、永倉がぽつりと言った。
「“新選”って名、他所の耳にはどう聞こえるんだろうな」
「新しく、選ぶ」
井上が穏やかな声で返す。「毎朝選び直す、ということやろ」
「旗は毎朝畳み直し、毎朝広げる」
近藤が笑った。「名は遅れてくる。けど、遅れてきた名は強い」
土方はなにも言わなかった。言葉は、座で使うと決めている。
道の端で、椿の葉が一枚、音もなく落ちた。
*
春のはじめ、空の色が少しだけ薄くなる日、壬生の町角に小さな事件が起こった。
賭場上がりの若者が懐を狙われ、路地で揉み合いになった。
新選組が到着する前に、町の若い衆が相手を取り押さえ、立札の方角を指した。
「ここへ連れてったらええ」
拍が、町の中で自走しはじめた瞬間だった。
井上が頭を下げ、原田が肩を掴み、永倉が「名を」と問う。
名を問われた男は、最初は笑い、次に目を泳がせ、最後に名を言った。
紙が出る。
紙が人を縛るのではない。名が人を自分へ縛る。
名の重さに気づく町は、強い。
その夜の寄合で、土方は紙を一枚、座の真ん中に置いた。
『旗揚月 成り行き控』
紙には、斬らずに済んだ夜の数が刻まれている。
「刀を抜かずに済んだ夜は、拍の勝ち。紙の勝ち。座の勝ち」
土方の声は低く、乾いて、よく通る。
「勝ち負けじゃない。――と、誰かが言うかもしれない。だが、旗を布に出した以上、“勝ち負け”という言葉を置く責任もある。『勝ち』は血が少ない夜の数だ。『負け』は、順番を違えた回数だ」
永倉が顎を上げ、「負け数、ゼロで行こうじゃねえか」と笑い、原田が歯を見せ、「負けたら槍の穂が錆びる」と応じる。
沖田は「負けそうになったら、僕を見てください。笑ってたら、まだ大丈夫」と若い者に言った。
笑いは軽いが、そこに誇張はない。笑いの拍は、旗を真ん中で支える棒のようなものだ。
*
夕暮、土方はひとりで壬生寺へ歩いた。
参道の石に日が残り、鐘の音がまだ昼の余熱を抱いている。
旗が布に出てからの日々を、土方は数える。
紙は増え、座は増え、拍は身に入り、刀は鞘にある時間が延びた。
非情は、相変わらず胸の奥の一定の場所に置いてある。取り出すときは、迷わない。その代わり、滅多に取り出さない。
風が少し強くなる。
旗の布が遠くで鳴る。
鳴りは、拍に合っている。
「旗は、誰のものでもない」
土方は心の中で言った。「旗は“組”のものだ。俺の非情も、俺のものではない。組のものだ」
その言葉は、声に出さない方がいい種類の言葉だった。
声に出さない言葉は、胸の骨に沈み、骨を硬くする。
*
旗揚げの月末、新選組は初めて“見せて斬る”場を持った。
『私闘の咎により、切腹』
座は長くない。
町の顔役、寺社の別当、問屋の帳場、祇園・木屋町・島原の年寄が、座敷の隅に席を持つ。
見せるための座。
見せるための斬り。
土方は息を整え、順番を最後まで握る。
近藤は声を、山南は紙を、井上は座の拍を、永倉・原田は外の拍を守る。
沖田は、斬らない構えを見せてから、刀の位置を半歩だけ変えた。
旗の字は壁の上の方で揺れず、座の視線は低く、まっすぐだった。
血が多くなく、声が少なく、紙が厚い。
その夜の終いに、祇園の年寄が小さく会釈した。「拍、分かりましたえ」
拍は、伝わる。
伝わった拍は、次に自走する。
自走する拍は、旗の布の代わりに町の風になる。
*
文久四年は、やがて元治となる。
年号の紙は改まるが、やることは変わらない。
旗は毎朝畳み直し、毎朝そっと広げる。
紙は増え、声は拍を刻み、刀は最後に置かれる。
町の目は、嘲りと計りを通り過ぎ、頼りの色を帯びる。
頼る目は危うい。
頼られすぎれば、旗は布ごと風に攫われる。
土方は、その均し目を測り続ける。
山南は、紙の角に小さく「息」と書き、すぐに拭う。
井上は若い者の帯を結び直し、永倉は笑いで恐れを散らし、原田は槍の穂先を心の中だけで磨き、沖田は袖の中に咳を沈める。
近藤は、声で拍を刻む。
「焦らない。息を合わせる。刀は最後」
その三つは、新選組の朝の合言葉になった。
夜更け、八木邸の梁が、ゆっくりと呼吸する。
布の旗は、暗闇で鳴らない。
鳴らない代わりに、座の紙が微かに音を立てる。
紙は、明日の命を一行ぶん長らえる。
その一行のために、彼らは今日を使い切る。
新選組という名は、今や、町の口に乗り、川面に映り、寺の鐘に混ざる。
旗の字は、試され続けるだろう。
試しは、こちらの順番では来ない。
それでも、順番を守る。
紙で斬り、座で斬り、最後に刀で斬る。
非情は情の番人であり、恐怖と規律は日常を守る殻であり、殻の内側で人の息は温まる。
椿の葉が一枚、静かに落ちた。
音はしない。
だが、落ちたという事実が、旗の下で新しい拍となって広がる。
近藤は刀の紐を締め直し、土方は紙を一枚増やし、山南は印を用意し、沖田は笑い、永倉は肩を鳴らし、原田は拳を握り、井上は戸を開ける。
冷たい夜の空気が座敷へ流れ込み、火皿の炎が一度だけ揺れて、すぐに拍へ戻った。
拍は歩幅に移り、歩幅は町に刻まれ、町に刻まれた拍の上で、誠の旗が見えないまま、確かに揺れ続けた。