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第一話 浪士組の旗揚げ

 文久三年正月の江戸は、例年よりも風が冷たく感じられた。

 大川の水面を走る風が、町の屋根瓦を震わせ、火消しの纏の上で鳴った。武家屋敷の長い白壁の影には、まだ正月飾りの松が立っている。だが、そこに宿る晴れやかさは、どこか借り物のように薄い。町人も武家も、心の奥に不安を抱えていたからだ。


 ――京が荒れている。

 その噂は、大店の店先から裏長屋の井戸端まで、あらゆる場所に広がっていた。尊皇攘夷を唱える浪士たちが徒党を組み、公武合体を推し進める幕府の使者を襲う。血の雨が降り、刀の光が町を走る。京はもはや「雅の都」ではなく、「血の都」となり果てているのだと。


 そんな折、江戸の町に一つの触れが出された。

 「浪士組募集――将軍家茂公上洛にあたり、京治安の任に当たる者を募る」


 触れを見た瞬間、近藤勇の胸は熱くなった。

 天然理心流の道場を営みながら、士分に取り立てられる道を探し続けてきた日々。農家の倅から出発し、剣一本で立身を果たそうとする自分にとって、これは天から降ってきた機会に違いない。


 「ついに、俺たちの剣を世に示す時が来た」

 そう口にしたとき、土方歳三は眉をわずかに動かした。

 歳三は勇と同郷であり、道場の同志でもある。だがその性質は対照的だった。勇が情熱を燃やし、仲間を率いる器量を持つ一方で、歳三は冷静で、先の先まで見通そうとする。近藤が夢を語れば、土方は必ず現実の冷たさを指摘する。二人の関係は、その緊張感ゆえに強固だった。


 「世に示す、ね」

 土方は煙管の雁首を軽く叩き、吐き出した煙を見やった。

 「だが、江戸の浪士を集めて京へ送るのは、幕府がどこまで本気かも分からん。京は今や修羅場だ。生きて戻れると思うなよ」


 その言葉に、沖田総司が笑った。

 まだ十九の若さ。明るい眼を持ち、病の影など微塵も感じさせない。

 「副長はいつも厳しいことを言いますね。でも、死ぬのを怖がっていたら剣は振れませんよ。僕は行きます。京で思いきり剣を振りたい」


 井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助。

 皆がそれぞれの思惑を胸に抱えながらも、浪士組への参加を決めた。天然理心流の仲間たちが一つの旗の下に集う。そこに高揚と不安がないまぜになった熱が生まれる。


 旅立ちの日、東海道を西へ向かう道は、まだ冬の名残を濃く残していた。

 曇天の下、街道沿いの松並木は枯葉を鳴らし、行き交う人々の肩に冷たい風を押しつける。駕籠に揺られる役人の列、荷を背負う行商人の群れ、そして武装した浪士の一団。その中に近藤たちの姿があった。


 江戸を出て初めの宿場である品川を越えると、道連れの浪士たちが次第に声を大きくする。中には武家の子息もいれば、浪人崩れもいる。酒をあおり、京での出世を夢想する声が聞こえる。だが、その中で近藤一派は慎重だった。

 「剣は飾りではない。京では必ず血を吸う」

 土方の言葉に、永倉は苦笑する。「副長は縁起でもねえな」。だがその目には緊張が宿っていた。


 街道の夜は早い。日が落ちると、旅籠の灯が黄金色に浮かぶ。

 宿場町のざわめきの中、近藤はふと立ち止まり、仲間を振り返った。

 「俺たちがやろうとしているのは、ただの旅ではない。幕府に仕え、剣をもって世を正す。それが浪士組に加わるということだ」

 その声に、仲間の顔が一瞬引き締まる。

 「だが……」と山南が静かに言った。「その正しさが、誰にとっての正しさなのか。それは常に問われることになります」

 近藤はうなずいた。「それでも、俺たちは誠を尽くす。それしかできん」


 京へ近づくにつれ、空気は次第に重くなった。

 大津を抜け、逢坂の関を越えたとき、浪士組の一行は武家や町人から奇異の目で見られた。

 「また新しい浪士が来た」

 「どうせ長くはもつまい」

 そんな囁きが背中に突き刺さる。京はすでに、血に濡れた刀を見慣れてしまった都だった。


 やがて彼らは、壬生の地に足を踏み入れる。

 瓦屋根の町家が並ぶ一角、八木家の屋敷を宿所にあてがわれた。ここから浪士組の物語が始まる。だが、まだ誰も知らなかった。この地で、彼らが「新選組」と呼ばれる日が来ることを。

 近藤は屋敷の縁側に立ち、夕闇に沈む京の空を見上げた。

 冷たい風が頬を撫でる。その風の向こうに、血と煙に覆われた未来が待っていることを、彼の胸はかすかに予感していた。


 京に到着した浪士組の一行を待っていたのは、華やかさよりも不穏さだった。

 御所の紫宸殿にほど近い町並みでは、早朝から辻斬りの噂が流れ、夕刻には寺社の塀に血の跡が乾いていた。道を歩けば、町人が袖を引き寄せ、女は子を抱きかかえて目を伏せる。浪士組が人々の平安を守るために召し出されたという触れの文言は、京の現実の前では虚ろに響いた。


 初めて八木家の屋敷に足を踏み入れたとき、近藤勇は胸の奥にずしりと重いものを覚えた。

 藁葺き屋根の下に広がる広間は、質素ながらも広い。ここを拠点として浪士組が日々の務めを果たすのだと考えれば、感慨深さよりも責務の大きさが胸を圧迫した。

 「ここが、我らの屯所か」

 勇が呟くと、隣にいた土方歳三が低く答えた。

 「一時の宿に過ぎんさ。だが、ここでどう振る舞うかで、俺たちの未来は決まる」


 土方の眼差しは鋭かった。江戸から京までの道中、彼は一度たりとも緊張を解かなかった。浪士組が幕府に利用されるだけの駒で終わるのか、それとも己の剣で道を切り開くのか。歳三は常にその境を思い描いていた。

 沖田総司は、そんな副長の固さを和らげるように明るい声で言った。

 「でも、広いですよ。道場に比べたら、いくらでも稽古ができます」

 言葉は軽いが、瞳の奥には闘志が宿っていた。京で剣を振るう日を、若き総司は待ち望んでいたのである。


 やがて夜が更け、京の町が闇に沈むと、浪士組の者たちは寄り集まり、燈火の下で盃を交わした。旅の疲れを癒やすための酒は、同時に結束を確かめる儀でもあった。だが、その席にも静かな緊張が漂っていた。

 「江戸を出るときは胸が高鳴ったが……京はやはり怖ろしいところだな」

 井上源三郎が杯を置き、溜息まじりに呟く。四十を越えた彼は一行の年長者であり、誰よりも仲間を見守る目を持っていた。

 「怖ろしいからこそ、俺たちの剣が役に立つ」

 勇は力強く言った。「農家の倅でも、ここで名を上げれば武士と肩を並べられる。幕府に仕えることができれば、先祖に顔向けできる」

 その言葉に、皆の胸に熱が広がった。だが同時に、山南敬助が冷静に言葉を添える。

 「しかし、幕府そのものが揺れている。誰のために剣を振るうのか、常に自問せねばならないでしょう」


 沈黙が落ちる。

 永倉新八が笑いで破った。

 「難しいことはいい。俺はただ、腕っぷしで世に名を残したい。それだけだ」

 原田左之助も声を張る。

 「俺もだ。槍の冴えを京の奴らに見せつけてやる!」

 陽気な言葉に広間の空気が少し緩む。だが土方だけは笑わず、燈火の影に険しい表情を沈めていた。


 翌日、浪士組は御所の警護に当たることを命じられた。

 まだ正式な任ではない。だが、武装した浪士の一団が御所の周囲に立つだけで、町人の視線は大きく変わった。恐怖と期待。どちらともつかぬ目で見られることに、隊士たちは戸惑いながらも胸を張った。

 「俺たちの役目は、これからだ」

 勇の声が響く。

 だが、すでに浪士組の内部には派閥の影が見え始めていた。水戸派の芹沢鴨とその一党は、豪放磊落な態度で他を圧倒しようとし、近藤一派との軋轢を生んだ。まだ芽吹いたばかりの不和。それはやがて大きな火種となる。


 その夜、土方は一人、屋敷の庭に出て月を仰いだ。

 京の月は江戸と同じ姿をしていながら、なぜか血の色を帯びて見えた。

 「ここでは、ただ剣を振るえばよいというものではない」

 心の中で呟く。

 剣は人を斬る。だが斬った先に何を残すのか。恐怖か、畏怖か、あるいは希望か。答えを持たぬまま、彼は柄に手を添えた。

 背後から声がした。沖田だった。

 「副長、眠れないんですか」

 「眠るには、まだ刀を抜き足りん」

 冗談めかして返すと、沖田は小さく笑った。

 「でも、僕らはきっとやれますよ。誰よりも稽古してきたじゃないですか。剣は嘘をつきません」

 歳三はしばし黙り、やがて小さく頷いた。

 「そうだな。嘘をつかぬ剣で、この京を生き抜こう」


 こうして浪士組は京に根を下ろした。

 その旗はまだ仮のものであり、名も定まってはいなかった。だが、近藤勇を中心に集った若者たちの胸には、一つの火が灯っていた。

 己の剣を世に示す。

 それは夢であり、野心であり、そして運命の始まりだった。


 数日後、町奉行所からの呼び出しがあった。浪士組の存在が、幕府の正式な命令のもとに組み込まれようとしていた。

 その知らせを受け、勇は仲間を集めて言った。

 「いよいよ俺たちは、幕府の旗の下で戦うことになる。だが、江戸を出るときに誓ったことを忘れるな。武士の誇りを持ち、誠を尽くす。それが俺たちの道だ」

 燈火の中、全員がうなずいた。

 彼らの胸に刻まれた言葉は、まだ形を持たぬ。だがやがて、それは一文字の旗に集約される――「誠」という字に。


 その夜、山南がひとり筆をとり、日記の冒頭にこう記した。

 「文久三年、浪士組として京に入る。これより始まりなり。剣を以て道を立てんとす。だが、剣は常に人を傷つける。誠に悖ることなきよう、心せねばならぬ」


 静かな筆致は、やがて歴史の渦に呑み込まれる。

 だが、その一行に込められた願いは、確かに未来へと残っていくのだった。

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