「断罪3:沈黙の聖職者」
座の間には重苦しい空気が漂っていた。高い天井から吊るされた燭台の炎がゆらめき、壁に映る影は不安を煽るように震えている。
民や臣下たちが左右に列をなし、誰もが固唾を呑んで私の一挙手一投足を注視していた。
私の前に差し出されたのは、一通の陳情と共に届けられた小さな聖印と、涙に濡れた青いリボンであった。
文字は震え、筆は滲んでいる。
娘が神殿に参ったまま帰らない――母の悲痛な叫びが、そこには確かに刻まれていた。
冷たい指先でリボンを撫でると、湿り気がまだ残っていた。母の涙の温もりがわずかに伝わり、胸の奥にかつての自分の記憶がよぎる。
花冠を編み、愛を信じていた少女の面影。
しかし、私はすぐにその感傷を打ち消した。愛も祈りも裏切りに変わる――この国でそれを知らぬ者などいない。
私はゆるやかに手紙を置き、玉座の下へ視線を移す。紫の法衣をまとった神殿の司祭側近が一歩進み出て、薄く笑みを浮かべ、冷ややかな声で言い放った。
「娘は奉仕に入っているだけ。神の務めにある身を、俗世の法が裁けるはずがない」
その言葉に廷臣の間にざわめきが走る。
神を盾にした傲慢な否定。
だが信仰を恐れる人々の心を惑わせるには十分だった。囁き声が波のように広がり、誰もが互いの顔を見交わしていた。
私は立ち上がった。
金の糸の衣の裾が石床を擦り、広間に低い音を響かせる。
燭台の炎が揺らぎ、影がさらに大きく壁を這った。目元だけを優しく緩めながら、声は冷たく鋭く、空気を切り裂いた。
「真実は、神の沈黙よりも雄弁だ。――確かめよう」
その一言に座の間は息を呑むように静まり返った。祈るように胸に手を当てる者、恐怖に小声を漏らす者――すべての視線が私に縛られていた。
私は片手を掲げ、女官長セラフィナに視線を送る。
「神殿を調べよ。隠されたものを暴き出すのだ」
「御意にございます、陛下」
セラフィナは一礼し、冷徹な光を瞳に宿す。その声音は澄み渡り、容赦なく侍従たちに命を飛ばした。
彼女の言葉一つで、広間に鋭い気配が走る。 人々は息を呑み、その姿に恐怖と畏敬を覚えた。
私は続けて近衛兵長ガレスを見据える。その眼差しは鋼のように冷たく、揺るぎなかった。
「ガレス、神殿を封鎖せよ。一片の祈りも逃がしてはならぬ」
「御命に従う」
その言葉は地を揺るがすように低く、重く広間へ響いた。ガレスは即座に片膝を折り、鉄の籠手を胸に当てる。鋼の鎧が一斉に打ち鳴らされ、近衛兵団が重々しく動き出す。その音が石造りの天井に反響し、座の間全体を震わせた。緊張の糸はさらに張り詰め、誰一人として声を発することができなかった。
私の掌に残された青いリボンは、母の涙を吸ったまま冷たく震えていた。それはただの布切れではない。失われた娘の無念、神を名乗る者の欺瞞、そしてこれから燃やし尽くすべき真実の前触れであった。
■
神殿の回廊は静まり返っていた。
香の甘い匂いと蝋の焦げる匂いが混ざり合い、石の壁に灯る燭火が細長い影を落としている。
私は重々しい扉を押し開き、冷たい空気の流れに一歩を踏み入れた。
鎧をまとった近衛兵たちの靴音が、厳粛な場を一層重苦しくしていた。
セラフィナが保管庫の扉に手をかける。
蝶番には茶色く乾いた血痕がこびりついていた。きぃ、と鈍い音を立てて扉が開くと、内側には衣服が山のように積まれていた。
色褪せた布地には少女たちの名を縫い付けた跡があり、切り落とされた髪束が箱に押し込められている。血の滲んだ布切れは、抵抗の痕を雄弁に物語っていた。
セラフィナが帳簿を拾い上げ、整った声で読み上げる。
「花嫁候補……名が暗号で記され、消印の日付は失踪の日と符合いたします」
私はうなずき、さらに進むよう促した。
次に現れたのは地下への階段。
石の壁に冷気が染み、下るごとに湿り気が肌に張り付いてくる。祭壇の床石は不自然に新しく、隠し扉の痕がはっきりと残っていた。
ガレスが剣の鍔で石を叩き、低い音を響かせる。
「空洞だ」
兵が工具を運び込み、扉が軋む音と共に開かれた。そこには鎖に繋がれた小部屋があり、礼拝用の口枷が整然と並べられていた。鉄の内側には歯型が残り、少女たちが必死に祈りを封じられたまま沈黙を強いられていた証であった。
若い侍祭が膝をつき、怯えた声で吐露する。
「聖なる花嫁として浄めるのだと……私たちは扉番を命じられただけで……」
その言葉に群衆の間から恐怖と怒りの声が交じり合う。だが司祭は顔を紅潮させ、なおも反論した。
「神に捧ぐ清らかな誓いである! 女王に裁かれる謂れはない!」
信徒の一部が声を張り上げる。
「女王は神をも裁くのか!」
私は玉座のごとき静謐を纏い、ゆるやかにセラフィナへ顎を動かした。
彼女は帳簿を掲げ、広間に響き渡る声で再び読み上げる。数字と名前が次々に列挙され、群衆の耳に真実の重みが刻まれていく。恐怖と怒りが入り混じり、信徒たちの顔色は次第に青ざめていった。
私は静かに口を開いた。
「聖に名を借りた俗の欲――それが汝らの真名だ」
その言葉は刃のように響き渡り、沈黙の中で群衆の心を切り裂いた。怒号と嘆き、嗚咽と罵声が入り混じり、神殿は信仰ではなく罪の証明として人々の目に映し出されていた。
■
神殿の広間には、重く張り詰めた空気が漂っていた。燭火の揺らめきが石壁に影を歪ませ、群衆のざわめきは低く不気味な波のように広がっている。
神の名を利用し少女達を生贄にしていた首謀者。
鎖に縛られた司祭が中央に立たされ、鐘が三度鳴り響くと、場の全ての視線が彼へと注がれた。
司祭は震える手で聖典を掲げ、声を張り上げる。その言葉は必死でありながらも、どこか狂気を帯びていた。
「私は神に仕える者! 俗世の王に裁かれることなど断じてない!」
その叫びに信徒の一部が応じ、群衆へと声を投げかける。
広間の空気は一気に揺らぎ、祈る者、怒りに顔を紅潮させる者が入り混じった。
恐怖と狂信、怒号と嗚咽が渦巻き、場は混沌と化していく。
私は広間に設けらた玉座からその様子を静かに見下ろし、わずかに微笑んだ。群衆の動揺こそが、断罪の舞台をより鮮やかに彩るからだ。
その混乱を断ち切るように、ガレスが前へ進み出た。重厚な靴音が石畳に響くたび、広間は静まりを取り戻していく。彼が手にした拷問器具が燭火に照らされ、鉄の鉤や爪、舌を裂く鉄棒が鈍く光った。器具が打ち鳴らされる冷たい音に、群衆の喉が一斉に鳴る。息が詰まる気配が広間を覆った。
司祭の顔色は蒼白になり、必死に沈黙を守ろうとする。だが額から汗が流れ落ち、震える膝が彼の恐怖を隠しきれない。若い侍祭が震える声で告白した。
「娘たちは……花嫁と呼ばれていました。口枷を嵌められ、地下へと……私たちはただ、扉番を命じられただけで……」
その証言に群衆の中から悲鳴が上がり、怒号が重なった。信徒の目は揺れ、信仰と恐怖の間で引き裂かれている。私はゆるやかに立ち上がり、衣の裾が床を擦る音が静寂を支配した。
玉座のごとき威厳を纏い、私は声を低く広間に響かせた。
「骨と息は王国の領分。神を名乗ろうと、人を隠した時点で我が法に下る」
その一言に、司祭の肩が大きく震えた。だが彼はなおも口を閉ざし、沈黙に逃げ込もうとする。私は冷ややかに目を細め、決定的な言葉を落とした。
「沈黙の祈りしか口にせぬ者に、言葉は不要だ」
広間は深い静寂に包まれた。その静寂は、断罪の炎を迎える前の、最後の祈りに似ていた。
広場は夕暮れの赤に包まれていた。罪人は鉄の台座に鎖で縛られ、頭には「聖鐘の鉄仮面」が覆いかぶせられていた。神殿の鐘を溶かして鍛えられたその仮面は、沈黙を強いる冷酷な象徴だった。厚い鉄が顔を押し潰すように閉じられ、呻き声は外へと漏れることなく、低い金属音だけがくぐもって響いた。
ガレスの合図とともに兵が歯車を回し始める。仮面全体がきしみを上げながら徐々に締め付けを強め、司祭の頭蓋を容赦なく圧迫した。ぎりぎりと骨が悲鳴を上げる音が鉄越しに響き、広場に集まった群衆の背筋を凍らせる。司祭の体は痙攣し、両腕が鎖の中で無様に跳ね上がった。
その時、鉄台座の内部に仕込まれていた火薬と油が点火された。松明が差し込まれると導管に沿って炎が走り、内側から仮面を灼熱させる仕掛けだった。炎は唸りを上げ、赤々とした熱が鉄へ集中していく。やがて仮面は赤熱し、膨張する金属がさらに締め付けを強める。焦げた皮膚と血の匂いが立ちのぼり、鉄と肉の間から煙がくすぶるように溢れ出た。
歯茎が割れる鈍い音と血の泡立つ音がかすかに漏れ、呻きは届かず、代わりに低い鐘鳴りのような金属の震えが広場全体にこだました。その響きは祈りではなく、断罪そのものであった。
群衆の中から悲鳴と歓声が入り混じった声が上がる。
「これぞ正義の裁きだ!」
「神を欺いた罰が下った!」
恐怖と熱狂が交錯し、人々は拳を振り上げ、ある者は涙を流し、またある者は震える指で十字を切った。誰もがその残酷な光景を「正義」として焼き付けようとしていた。
ひとりの母が青いリボンを胸に抱きしめていた。涙に濡れた顔で娘の名を呼び、嗚咽を噛み殺しながら断罪の最期を見届ける。その小さな布切れは、奪われた命の最後の証であり、彼女の胸の上で震えていた。
私は一歩前に出て、群衆を見渡した。鐘音にも似た低い金属音に混じり、私の声は冷徹に広場を支配した。
「神を汚す者を罰することこそ、神への最初の敬意だ」
その言葉に群衆は一瞬沈黙し、次いで轟音のような歓声と祈りの声が巻き起こった。恐怖と歓喜の熱が入り混じり、空を震わせて昇っていった。
火の粉が空へと舞い、鐘楼の影を照らした。それはまるで逆さに吊るされた鐘が鳴っているかのように見えた。人々の瞳に映るのは慈悲深き女王ではなく、神すらも断罪する炎の女王――私、モルガーナの姿であった。
断罪の炎がまだ石畳を照らし、熱気と煙が広場を覆っていた。群衆は歓声と祈りを繰り返し、誰もが女王の裁きに酔いしれていた。鉄仮面の鐘音が耳の奥に残響し、炎はなおも罪の残骸を舐めている。
その熱狂の波の後ろ、群衆の影にひとりの青年が立っていた。旅装をまとい、外套の裾に煤をまとわせながらも、背筋は真っすぐに伸びていた。炎に照らされた横顔には、気品と哀愁が漂っている。頬の線は鋭く、瞳の奥に宿る光は、ただの流浪の者には似つかわしくなかった。
私は群衆を見下ろす位置から、その存在にふと気づいた。遠目に映るのは見知らぬ亡命者に過ぎない。だが、その輪郭の奥に、かつて私が花冠を信じて託した純粋な愛の残影が一瞬よぎった。胸の奥で、忘れ去ったはずの痛みと温もりが、炎に炙られるように揺らめいた。
青年は群衆と同じように炎を見つめていた。だがその瞳は歓喜や恐怖に濁ることなく、静かに火の粉の舞い上がる夜空を映していた。燃え上がる赤と金の中に、どこか未来を予兆するような光が宿っている。その眼差しに射抜かれた瞬間、私は心の奥に沈めたはずの何かを、確かに揺さぶられた。
群衆の喧騒の中で、彼だけが沈黙していた。その沈黙は弱さではなく、嵐の前に張り詰めた静寂のようだった。炎の轟きが夜空へ昇る中、彼の存在は不意に、新たな幕を告げていた。
――ルシアン=アルトリス。その名を私はまだ知らない。だがこの夜、炎の後ろ影に立つその青年こそ、次なる運命を切り開く予兆であった。




