異常的な彼の隣には、いつもあの子が座ってる。
エミリーがふと立ち寄った酒場で、彼らを見つけたのは偶然だった。
リオン──かつて自分が手に入れようとした男と、いつも彼の隣にいた冴えない雰囲気の少女、ミーシャ。
あの日と同じように、リオンはミーシャに甘えるように身を寄せていた。
その光景は、以前にも見たことがあった。
あの、少し酒に酔っていたあの時。
どうして、彼女なのか──。
どうにも冴えないその見た目も、どこか曖昧な態度も、当時のエミリーには理解できなかったし、正直、気に食わなかった。
なんであんなレベルの女が、あの美しい男の側にいることが許されているのだろうかと。
だからこそ、彼が彼女に擦り寄り、そして押し返される姿を見たとき、エミリーは思ったのだ。
嫌がるなら、あんたの代わりに私が彼の隣にいたっていいじゃない──と。
だから私は、彼女が席を外したその瞬間を見計らって、彼に声をかけた。
きっと、あれが運命の一歩だった。
近づけば近づくほど、彼は美しかった。
艶やかな髪、細く長い指、そして、あの切れ長の瞳。
その瞳が、真っ直ぐに私を貫いた。
なぜだか……じっくりと、内側を覗き込まれたような気がした。
そして彼が、ふと甘く微笑んだ。
──その瞬間、私は確信した。
これは“勝利”だと
ミーシャが席に戻ってきたのは、それからほんの数分後のことだった。
「──あら、リオン。もしかして……いい感じになったの?」
「実は……彼女の方から話しかけてきたんだ」
リオンは、困ったような笑顔を浮かべて答えた。
その顔は、どこか照れているような雰囲気を出して頬をかいていた。
ミーシャは「そっか」とだけ言って、席に荷物を置くこともせずに、そっと微笑んだ。
そしてすぐに言った。
「じゃあ、今日はもう解散かな。リオン、またね。」
あっさりと立ち去るその背中を見送りながら、エミリーは少しだけ首を傾げた。
──なんで、あんなにあっさりと立ち去れるの?
怒るでも、泣くでも、引き止めるでもなく、ただ静かにその場を去るその姿は、どこか拍子抜けだった。
けれど同時に、エミリーは心の中でほのかに笑っていた。
冴えないその女から、リオンを“奪い取った”という事実。美しく、甘く、どこか危ういその男を、自分が手に入れたという優越感が、胸の奥をくすぐった。
──勝ったのは、私だ。
そんな確信が、また静かに心を満たしていく。
そうして、私はこの美しく完璧な男と付き合えた。
けれど、私が夢見ていた“理想のリオン”は──
驚くほどあっけなく、崩れ落ちた。
リオンは、王子様のように手を差し伸べてはくれない。
私がヒールで転びかけた時も、
ただ「大丈夫?」と立ったまま言っただけだった。
むしろ、虫や蛇が出てくれば私の後ろに隠れるし、夜道を歩けば「怖いから先に行って」と、私を盾にするようなこともあった。
最初は、冗談かと思った。
でもそれは“本気”だった。
彼は、弱かった。
心も、行動も。どこまでも子供のようだった。
──こんなはずじゃなかった。
私は彼を、美しくて、賢くて、完璧で……
完璧な王子様だと思っていた。
けれど、実際に隣に立っていたのは、甘えたがりで、自己中心的で、……
……でも、どこか引っかかる。
それが“本当の彼”だとは、どうしても思えなかった。
たとえば、私が不機嫌そうにしているとき、
彼は何気ないふりをしながら、じっとこちらの表情をうかがっている。
まるで何かを観察しているように。
“何を見てるの?”と問いたくなるような、乾いた目だった。
ときおり、その視線がぞっとするほど冷たいことがあった。笑っているはずの顔なのに、目だけが笑っていない──
いや、それどころか、明確な“興味”だけが、そこにあった。
……まるで、私がどう反応するかを試しているみたいだった。
彼の「情けない姿」は、なんだか芝居がかっていた。
虫を怖がるにしても、怯えすぎていて、逆に不自然だった。
わざとらしい、と思った。
だけど、気づかないふりをした。
私を信じてくれてるから、無防備なんだ──そう自分に言い聞かせた。
きっと、私に甘えているだけなんだ。
それに、今さら引き返すなんて、プライドが許さなかった。こんな男を手放すのも惜しい。
それに──あの女。ミーシャ。
リオンは、よくその女の名を口にする。
「ミーシャは特別なんだ」
「ミーシャがいつも助けてくれる」
一言ひとことが、私の神経を逆なでする。
どうしてあんな冴えない女の名前を、こんなに何度も聞かなきゃいけないの?
彼の口から、あんな子の名前が出るたびに、
まるで自分が“仮の相手”にされているような気がした。
でも彼は、私を選んだのだから…
だから、私はあの女より上なんだ。
しかしあの夜。
私は、とうとう口にしてしまったのだ。
「あなたって……中身は本当に駄目なのね」
冗談のように、笑って言ったつもりだった。
けれど、リオンは……
その瞬間、まるで機械のように顔から表情が抜け落ちた。
さっきまで私に笑っていたその口元は、静かにまっすぐ結ばれ、あの切れ長の瞳は、冷たいガラスのように私を見据えた。
“見透かされた”ような感覚が、喉元を締めつけた。
そして、彼は低く、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、君もダメだね」
“も”。
その一文字が、耳に刺さった。
まるでそれは、
最初から私が“試されていた”証拠のように思えた。
なにかが終わった音がした。
背筋が、すっと冷たくなった。
何か言い返そうとしても、喉が動かなかった。
言葉を探す前に、リオンはゆっくりと立ち上がる。
私を見下ろすように立つその姿は、いつもの“甘えたリオン”ではなかった。
優しげな微笑みも、気だるげな仕草も、一切ない。
ただ静かに、ただ冷たく。
私を“観察し終えた”者の目をしていた。
「じゃあ、元気で」
それだけ言って、彼は背を向けた。
彼の背中は、軽やかだった。
悔しいほどに、何も背負っていなかった。
置いていかれたのは私だけで、
彼はもう、完全に“終わらせていた”。
港町のとある酒場で
酒を浴びる様に飲む美しい青年と、それをなだめて落ち着かせている女がいた。
「ミーシャ、ミーシャ…だって俺、また同じ理由で振られたんだよ」
「もう…理由が分かってるなら直しなさいよ」
「でもさでもさぁ…」
美しい見た目とは裏腹に、とても情けなく泣き喚く青年、リオンは頬を真っ赤にしながら泣きじゃくり、ミーシャの肩にぐずぐずと顔を埋めた。
そしていつも通り、失恋にて傷心中のリオンの背中を、ミーシャは呆れた様に優しく撫でていた。
背中を撫でながら、ミーシャは一度だけ、深いため息をついた。
それから静かに立ち上がり、「ちょっと、飲み物追加してくる」とだけ言って席を離れた。
そんな所に、フワフワと綺麗に巻いた髪をゆらし、綺麗な笑顔でリオンに近づく女がいた。
エミリーだった。
そんなエミリーを見てリオンは、
なんて丁度いい女なんだ。
そう、気分よく笑いかけた。
ミーシャが自分を慰め終わって、席から離れた瞬間。さらに、ここはミーシャの視界に入る空間。
そしておそらくミーシャは、この女と楽しく話す僕のことを、きっと遠くから見つめているのだろう。
そして彼女は思うんだ。
僕が新しく恋を始めたのだと。
「──あら、リオン。もしかして……いい感じになったの?」
そう言って、ミーシャは戻ってきた。
手には酒を持っていない。
きっとミーシャもこの女に気づいていて、わざと席を外したんだろう。
久しぶりに、ここまで完璧に働いてくれる女と会えた気がする。
「実は……彼女の方から話しかけてきたんだ」
そう言って、横目に女を見ると、
心底嬉しそうに笑みを浮かべていた。
まあ、よく働いてくれたんだ。
少し付き合ってやってもいいだろう。
「じゃあ、今日はもう解散かな。リオン、またね。」
ミーシャは唇を少し噛み締めて、別れを告げた。
その様子をよく観察して、僕も別れを告げる。
今日は凄く運がいい日だ。
さて。ここから僕は、“失恋を演じる”必要がある。
しばらくの間、この女と時間を過ごして──丁寧に、少しずつ関係を築くフリをする。
下準備としては、それで十分だ。
それに、愛しているフリは、案外簡単だ。
ほんの少し、目を細めて、優しく名前を呼べばいい。
そして、“僕の中”を見せる。
もしこの女が、ミーシャのような人間だったなら──
きっと、それすらも許してくれるだろう。
まあ、この女に限ってそんなことは無かったが。
ミーシャと過ごすためとはいえ、時間の無駄だった。
こいつと過ごす間はミーシャに会えないし、
世界は白黒で味気ない。
それでもこの無駄な時間の消費は、ミーシャとの時間にかけがえのない彩りを与えてくれるのだ。
それにしても、なんともしつこい女だ。
とはいえ、よく働いてはくれた。
性格、動作、言葉遣い。だいたい把握できた。
あとは、ほんの少し台本を整えればいい。
これで、すべてが整った。
三日ぶりに、ミーシャと会う。
目の下にうっすらとクマがあった。眠れていなかったのかもしれない。
本当は、その疲れた横顔をじっくり観察したいけど──
台無しにするわけにはいかない。
「ミーシャ……聞いてくれよ」
そう言って、彼女の小さな身体を、逃げ場がないように抱きしめた。照れているのか、少しの抵抗をしてくるけど、気にせずに強く抱きしめる。
だってミーシャは絶対に、僕と離れることは無いんだから。
だからそのまま目を閉じて、もっとミーシャに身体を預けた。いつものように僕の背中を撫でてくれることを疑わずに。
今日も彼は、あの時と同じように、彼女に擦り寄っていた。
かつての私なら、あの女の子を妬ましく思ったかもしれない。
けれど今は──違う。
ただひたすらに、あの子が哀れだった。
そして、そんなあの子を取り巻く“あの空気”が、何よりも恐ろしかった。
そして…
あの2人に、誰よりも強く視線を向ける存在に気がついた。
それは──かつての私だった。
その子は、彼女が彼を慰める前に近づき、彼女を遠ざけ、2人の間に割って入った。
そして彼の目は……
……そこまで見て、私は酒場を後にした。
きっと彼は、また誰かと、私との日々を繰り返すのだろう。
もしかしたらあの子は、あの場所で、ずっと、彼のそばにい続けるのかしら…
でも、それを私が知る必要は無い。
あの瞳の中にいるのが自分ではないと気づいたときの、あの吐き気を、
私は、もう味わいたくなかった。
私も彼も、そしてあの子も
きっとこの関係はもう引き返せない。
だけど、あの子もそれで良いのかもしれない。
それに、もしかしたら密かに彼女も狂ってるのかもしれない。
だって、酒場を出る時に
私は確かにあの子と目があったのだから。