第1話 夏の終わりの朝
蝉の鳴き声が、朝の静けさを切り裂いていた。七月末、夏休み直前の高校は、どこか浮足立った空気に満ちている。
東京都郊外の住宅街。古びた一軒家が並ぶ道を、檜垣秀明は幼馴染の黒井鈴音と並んで歩いていた。
秀明は、肩に掛けた鞄の重さに少し眉を寄せ、隣の鈴音をちらりと見た。彼女は軽やかなステップで歩き、ショートカットの黒髪が朝陽に揺れている。制服のスカートがひらりと舞い、彼女の活発さがそのまま形になったようだ。
「ねえ、秀明、夏休みってさ、なんか切なくない?」
鈴音が突然口を開いた。彼女の声には、どこか芝居がかった響きがある。
「切ないって……別に普通だろ。いつも通りじゃん」
秀明はそっけなく答えた。考え事に没頭する癖のある彼にとって、鈴音の唐突な話題は少し面倒だった。
「うそ、秀明ってほんと無感動な男! 夏休みだよ? 青春のキラキラした時間が始まるんだよ!」
鈴音は大げさに両手を広げ、くるりとその場で一回転。道端の電柱に軽く肩をぶつけ、「あいたっ」と小さく声を上げた。
秀明は小さくため息をついた。
「キラキラって……お前、いつもそんな感じだろ。毎日が夏休みみたいなもんだ」
「むっ、失礼な! 私はね、ちゃんとメリハリつけてるの! ほら、今日は終業式。明日から学校がないなんて、ちょっと寂しいじゃん?」
鈴音は唇を尖らせ、秀明の肩を軽く叩いた。彼女の明るさは、秀明の慎重で内向的な性格とは正反対だった。それでも、隣の家に住む幼馴染として、毎朝こうやって登校するのは、もう何年も変わらない習慣だ。
二人は坂を登り切り、校門が見える場所までやってきた。校庭では、野球部の朝練の掛け声が響いている。
「そういや、秀明、夏休みの予定は?」
鈴音がふと真面目な顔で尋ねてきた。
「予定って……特にないよ。家で本読んだり、ゲームしたりするだけだろ」
「えー、つまんなーい! 秀明、もっと青春しようよ! 海とか! 花火とか! ほら、香椎んとこでバーベキューとかさ!」
「香椎?」
秀明の眉が少し上がった。香椎俊。クラスメイトで、陽気で人懐っこい、いわゆる「陽キャ」の代表格だ。なぜか俺のことを気に入っていているのか、よく絡んでくる。
「いや、俺、そういうのあんまり……」
「はいはい、わかった。秀明の『一人が好き』病ね。でもさ、たまには出ておいでよ。香椎、秀明のこと絶対誘うって言ってたし」
鈴音はにやりと笑い、校門をくぐった。秀明は少し肩をすくめ、彼女の後を追った。
校舎の中は、終業式を控えたざわめきで満ちていた。廊下を歩く生徒たちの声、教室から漏れる笑い声。秀明はそんな喧騒を少し遠くに感じながら、教室へと向かった。
終業式は体育館で行われた。校長の長編スピーチと、生徒会長の気の抜けた挨拶が続き、秀明はぼんやりと天井の梁を眺めていた。隣に座る鈴音は、こっそりスマホで何かを見ている。
「秀明、校長の話、毎年同じだよね」
鈴音が小声で囁いた。
「まあな。去年も一昨年も、だいたい同じこと言ってた気がする」
秀明は小さく笑った。鈴音のこういう小さな悪戯っぽさが、嫌いじゃなかった。
終業式が終わり、教室に戻ると、クラスは一気に解放感に包まれた。生徒たちは三々五々、夏休みの計画を話し合ったり、帰り支度を始めたりしている。
「おーし、秀明! やっと夏だぜ!」
背後から突然、陽気な声が響いた。振り返ると、香椎俊がにやにやと笑いながら近づいてくる。短く刈り込んだ髪と、制服の第一ボタンを外したラフな姿が、彼らしい。
「夏休み、どっか遊びに行こうぜ! お前、いつも家に籠もってるだろ? もったいねえよ!」
俊の声は、教室のざわめきを軽く超える大きさだ。秀明は少し気まずそうに目を逸らした。
「いや、俺、別に……家でいいかなって」
「は? ダメダメ! 青春は外でするもんだろ! な、黒井もそう思うよな?」
俊は鈴音の方を振り返り、同意を求めるように笑った。鈴音は肩をすくめ、いたずらっぽく目を細めた。
「まあ、秀明は放っとくとほんとに引きこもるからね。香椎、頑張って引っ張り出してよ」
「お前までそんなこと言うのかよ……」
秀明は軽く頭を振った。俊と鈴音のコンビは、時折こうやって秀明を「外の世界」に引きずり出そうとする。だが、秀明にとって、一人で本を読んだり、考え事にふけったりする時間の方が、よほど心地よかった。
「よし、決まり! 秀明、予定入れとけよ。俺、トイレ行ってくるから、すぐ戻るぜ!」
俊はそう言い残し、教室を飛び出していった。
「ったく、あいつ、いつもああだな」
秀明は小さく呟き、机に置いた鞄を引き寄せた。鈴音はそんな秀明を横目で見ながら、くすくすと笑っている。
「秀明、香椎のこと嫌いじゃないでしょ? ほら、ちょっとくらい一緒に遊んでもいいじゃん」
「嫌いじゃないけど……まあ、考えとくよ」
秀明は曖昧に答えた。鈴音は満足そうに頷き、窓の外に目をやった。
その瞬間、秀明のポケットの中で、スマホが軽く振動した。
「ん?」
ポケットからスマホを取り出すと、画面に奇妙な通知が表示されていた。
『ゲームを開始します』
シンプルな白い背景に、黒い文字。まるで古いRPGのような、素朴なデザインだ。
「なんだ、これ……アプリ?」
秀明が画面をタップしようとした瞬間、スマホが突然光を放った。
「うわっ!?」
思わず目を閉じた秀明の耳に、低く、威厳のある声が響いた。
「我は地球を管理する神なり。そうだなセトスとでも名乗ろう」
声は、スマホからではなく、直接頭の中に響いているようだった。秀明は慌てて目を開けた。
スマホの画面には、黒いローブをまとった人影が映っている。顔は見えないが、その声は紛れもなく、先ほどのものだ。
「我がゲームを、今ここに開始する。人間どもよ、生き残るがいい」
「は……? ゲーム? 何だよ、これ」
秀明は混乱したまま画面を見つめた。だが、次の瞬間、教室の空気が一変した。
外から、けたたましい叫び声が響いてきたのだ。
「な、なんだ!?」
鈴音が窓に駆け寄り、カーテンを引いた。校庭には、信じられない光景が広がっていた。
緑色の皮膚を持つ小柄な生物――ゴブリンだ。鋭い牙を剥き出し、粗末な棍棒を振り回している。その向こうには、巨大な猪のような姿のオークが、地面を踏み鳴らしていた。
「嘘……だろ? なにあれ!?」
鈴音の声が震えた。教室の中も、悲鳴と混乱の声で埋め尽くされる。生徒たちは窓に殺到し、校庭の異変を目の当たりにしていた。
その時、秀明の手が突然熱を帯びた
。
「うっ……!?」
見ると、彼の手には、どこからともなく現れた分厚い本が握られていた。白い表紙に、一切の装飾がない。まるで新品のノートのような本だ。
「これ、なんだ……?」
同時に、鈴音の手にも変化が起きていた。彼女の手には、赤く輝く剣が握られている。刃には、炎のような光が揺らめいていた。
「秀明、これ……!」
鈴音が剣を掲げ、驚いた顔で秀明を見た。
スマホの画面が再び光り、セトスの声が響く。
「人間どもに告ぐ。そなたらの手にあるは、神器なり。それを手に、ゲームに挑むがいい。最初の試練、チュートリアルクエストを今ここに課す」
画面に、クエストの内容が表示された。
【チュートリアルクエスト】
内容:街に現れたモンスターを、一人一体倒せ
制限時間:20分
報酬:ショップ内通貨200シェル
失敗:死亡、またはゲームからの永久追放
「モンスターを……倒す?」
秀明は呆然と呟いた。だが、セトスの声は冷酷に続いた。
「時間は待たぬ。さあ、始めなさい」
画面が暗転し、スマホには新たなアプリが表示されていた。ゲーム専用アプリ。アイコンをタップすると、秀明のステータスや神器の情報、さらにはマップやショップ機能が現れた。