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宮廷

 ――自由になりたい、ただそれだけのために生きてきた。


 大津孝希は空港のソファーに腰掛け、窓の外を眺めていた。星がまたたく透き通った空を背景に、搭乗予定の飛行機が燃料補給を終え、飛び立つのを待っている。

 使い古した手帳の、タスクリストのページを開く。いくつかの項目も項目が並び、横にチェックがついている。最後の一行だけ未達成で残っていた。出発、とだけ書かれた行にペンをあて、しばし考える。迷った末、チェックをつけた。あと十分あるが、もう達成したに等しいだろう。

 時刻も座席も行先も覚えているのに、胸中の不安を振り払うためだけにチケットを見た。まちがいない、十分後だ。十分後に、孝希はこの国から出る。自由に世界を旅する。

 どうにも現実味がない。三十の男が口にするには恥ずかしい、夢見がちな言葉。

 だが孝希は一歩一歩積み重ねてここまで来た。だから、これは紛れもない現実だ。

 リストの一番上を見る。‘ここから逃げる‘。涙をこらえながら殴り書きした最初の一歩。あのときはその一文がすべてで、そのあとの人生なんて考えてなかった。

 高校でどれだけいい成績を出しても、すぐに自立するのは難しい。だから一番手っ取り早い方法として、自衛隊に入った。そのときはそれだけで満足していた。けれど生活が落ち着くと、自分は親の奴隷から組織の奴隷に変わったに過ぎないのだと気づいた。自由になったのではなく、主人を変えただけ。こんなのは自分が欲していたものじゃない。

 ‘力をつける‘。悩みながらも、整った字体で書かれた二行目。その下にはさらに細かいリストが付け加えられる。筋トレや格闘に関することが多い。何をすべきか手探りする時期が続いたのち、つまらない事実に気づいた。結局、大事なのは金なのだと。

 それからは最終的な目標に達するための具体的で、地道な道のりが続く。資産作り、ポートフォリオの条件、海外へ行く準備、国内の拠点の確保などなど。

二階建ての安いアパートを借り、家賃は配当金のみでカバー。現金で三年分の旅費と生活費、旅の計画、英語だけでは不安だったので中国語とスペイン語の修得。孝希は言語系の才能がないのでずいぶん苦労した。挫けそうになるたび、自由になるという目的を思い出して乗り越えてきた。レンジャーだの格闘指導官だの、きつめの教育に行くと覚えたことが脳みそから抜け落ちてしまうのでこれまた絶望したが、そのたびに這い上がり、結局12年もかかってしまった。

 今、ようやく望んでいたものが手に入る。

 アナウンスが響いた。荷物をまとめ、立ち上がる。

 強烈なめまい。

 バランスを崩してその場に倒れる。

 気が抜けて疲れが出たのかと思ったのも束の間、激痛。

 胸を抑え、苦悶の表情。息ができないのだ。

 何が起きているのかなど理解できない。それでも死という文字が脳裏にチラつく。

 苦悶の表情は、すぐに絶望へと変わった。

 どうして今なんだ。子供のころからずっと、死にたいと思っていた。生まれてきたことを後悔していた。それでも死ぬのは怖いから、仕方なく生きてきた。産まれなければよかった。産まれなければ、死におびえることもなく、生の苦しみに耐える必要もない。

 それでも希望があった。がんばれば、いつかきっと自由になれるのだという希望。それだけを頼りに生きてきた。たったひとつの希望が、手の届くところまで来ている。なのに、なぜ今。

 群衆のどよめき。空港の職員が駆け寄り、大津の体を揺さぶる。大津は霞がかかった意識の中、自分を助けようとしてくれる人影を見た。

 助ける価値のある人間じゃありませんよ。そう言おうとして、口が動かないことに気づいた。

 支離滅裂だ。死ぬのは嫌だと言いながら、人の助けは拒絶する。けれど、それがきっと自分なのだろう。どうしようもなく、大津孝希はそういう人間なのだ。

 一度も生まれてきたことに自信を持てず、‘いつかきっと‘だけを信じ、結局なにもつかむことができない。みじめな、失敗作。

大津孝希は、そういう人間だ。

 徐々に思考も麻痺してくる。かすかに残った聴覚が、意味のない雑音だけを伝えてくる。

 やがて、静寂。そして意識さえ消え去った。


 薄明かりが見えた。

 虚空に散らばってしまった自己が澱のごとくゆっくりと沈んでいき、怒りと後悔と絶望とをよすがとし、凝り固まって、目が覚めた。

 視界が滲む。何も鮮明でない。大きいものと強い光だけが見える。近くから赤子の泣き声が聞こえる。

 ぬっと、目の前に顔が出た。だれかはわからない。ぼんやりと輪郭だけが見える。たぶん、女性。

 女性は孝希の両足をつかんだ。ものすごい力。最近スクワットが百二十キロを超えて喜んでいたというのに、まるで赤子の足をひねるように扱う。

 ていうか雑だった。膝が引っこ抜けそうな力で引かれる。

「おんぎゃあ、おんぎゃあ!!」

 痛い痛い、やめろババア!

 そう言おうとするも、喉の筋肉は動き方を忘れ、舌もまるで動かない。

 ようやく目が慣れてくる。石造りの部屋。燭台にはろうそくが揺れている。ベッドの上には孝希と三十代前後の女性。ベッドの周りを女中のような恰好の人が囲んでいる。

 そして孝希自身は、赤ん坊だった。赤子のように扱われるのも当然だろう。ぶよぶよと膨れる肢体は醜く、力強さのかけらもない。高校までの勉強漬けだったときよりも頼りなく、弱弱しい体。

 呆然としていると、女はまたも乱雑に孝希の足を引く。股を広げてじっと覗き込むと、ふうと安堵の息。興味を失ったように持っていた赤ん坊を投げ捨て、ぐったりと横になる。

 いってえな、クソババア、などと言うことはできないが、内心では舌打ち。

 取り囲んでいた女中の二人がベッドに駆け寄ってきた。ひとりは孝希を抱き上げ、もうひとりはババアに付き添う。クソババアは女中に汗を拭かれ、水を一杯。居住まいをただすとそれなりに美人だ。黒い髪はろうそくの光を反射しながら肩にかかり、背はすらりと高い。服も高級品だろう。女中たちの服と比べると物のよさがわかる。

 クソババアは女中と何事かやり取り。耳を澄ますも、二人の声は拾えない。まるで知らない言語。

 孝希はここまでの状況を整理する。赤ん坊の体、母親と思しきクソバババア、知らない言語。

 どうやら生まれ変わったらしい。

 驚愕よりなにより先に孝希の胸を満たしたのは、絶望

 肉体改造だけじゃない。身に着けた技術、知識、積み上げた資産。すべて無駄になった。この世界で英語を話せたところでなんの意味もない。

 無駄だった。その事実がゆっくりと体中を満たしていく。世界はいつだって人の作為をあざわらう。積み上げた努力を、偶然の一撃で完膚なきまでに破壊する。

 なんのために三十年も生きたんだ。やりきれない思いばかりがこみ上げてくる。

 突然、体がぐいと揺れた。そのせいで沈んでいた思考が途切れる。

 それまで視界に入っていなかったが、部屋にはもうひとりいた。小さな少女。まっすぐの黒髪、陶器のように白くつややかな肌、愛らしい顔立ち。

 少女は女中から孝希をひったくる。生まれて早々女難が続くなあ、と諦めにも似た心地でいると、以外にもその手つきは優しい。

 少女は孝希の顔を見ると、嬉しそうに笑った。強く、けれど痛くない絶妙な力加減で抱きしめる。孝希がうっとうしいと思って力なくパンチするも、ただ空をかいただけ。

 少女はぐりぐりと顔を押し付けてくる。孝希の意思など関係ない、かわいくて仕方がないかのように、まるで自分が親なのだとでも主張するかのように。

 少女は頬ずりをやめ、母親のほうに体を向ける。さみしそうな目。孝希を見下ろすと、そっと頭をなでる。そんなことしてもクソババに対する恨みは忘れないからな、反抗心が沸きあがってくるが、頭をさすられているとどうしようもなく心地よくて、眠気を誘われる。どうやら思考回路まで赤子になってしまったようだ。

 少女はまたうれしそうな顔をして、孝希を抱き上げる。頬には羊水がべったりとついていた。顔が汚れたことなど気にせず、少女はただ孝希だけを見ている。

「ルイーザ」

 それが、孝希が新しい世界で聞きとれた、はじめての音。ゆっくりと語り聞かせるように耳朶をくすぐり、最後まであった意識の霞を払って、孝希の脳裏に浸透していく。

「ルイーザ! ルイーザ・ユーグ!」

 それから、自分のことを指さす。

「エマ。えーま。エマ・ユーグ」

 どうやら名前らしい。そのあとに続く言葉はやはり理解できないが、なんとなく、「お姉ちゃん」と言っているような気がした。


 ルイーザの二度目の人生はそれほど悪いものではなかった。

 母親はちょっとあれだが、父親は申し分ない。無気力で無関心。妻と子には一切不干渉。それでいて養ってはくれるのだからなんとも有難い存在だ。一日五度の礼拝で感謝を表しちゃうくらいにはありがたい。不干渉とは無害ということであり、前世では二人だった敵が今世ではひとりになったのだから、ルイーザとしては非常にいい家庭だと言える。二人が相手では前門の虎後門の狼って感じで逃げ道をふさがれて大変だが、ひとりなら適当に立ち回っておけばダメージはない。基本的には親と関わらずに過ごしている。

 今も王宮の図書館でひとり、本を読んでいた。

 王宮、そう、王宮である。

 ルイーザは王族だった。ていうか王子だ。誇り高きボルジア国の王子。ベジータと違って王太子ではないが、スーパーエリートであることに変わりはない。

 ユーグ朝五代国王、デオクレス・ユーグの第二王子。

正直、王族という地位自体はどうでもいい。むしろ煩わしさすら感じる。しかしこの図書館はよかった。

王宮内には図書館が二つある。ひとつは貴族や役人も使える大図書館。ルイーザがいるのは王族専用の図書館だ。基本的には人がいないので引きこもるには超快適。ルイーザはだいたいここにいる。というか、この世界でここ以外の場所を見た記憶がほとんどない。ちなみに地球とは違う、異世界である。まあ、どうでもいい。本のほうが大事。

 本に囲まれた理想の暮らし。理想的ともいえる環境だが、画竜点睛は欠いた。ルイーザにとって無視できない大問題がある。それは今もルイーザの椅子をがったんがったん揺らしていた。

「ねー。ルイーザー。遊ぼうよー。暇だよー、さみしいよー」

「……ちっ」

「舌打ち!? お姉ちゃん、ルイーザをそんな子に育てた覚えはありません」

「何の用だよ」

「遊ぼ」

「遊ばないが?」

「なんで!?」

 ガビーン、と驚くのはルイーザの姉、エマ・ユーグ。同じ妃から生まれた同腹の姉であり、ルイーザの平穏を脅かす存在。

「なんでってお前」

「あ、何読んでんの?」

 40歳のおじさんが全力でガキを泣かそうと言葉のナイフを用意するも、エマはそれより先にルイーザの読んでいた本に興味を移す。

「おー。バートル語。え、9歳で二か国語話者!? 天才、結婚しよ」

「たわけ」

「鉄の諸性質、ね。著者はニコロ・ディック」

 ふむふむとうなずき、カッと目を見開いた。

「9歳児の読む本じゃねえ!」

 心は40歳児なもんで。ルイーザは喉まで出かかったセリフを飲み込む。

「これ、面白い?」

 ちょっと心配そうに尋ねられた。勉強ばかりしていると将来ぼっちになるわよ、とでも言わんばかりだ。ご名答、ルイーザは前世で友達も恋人もいなかった、いわゆるぼっちである。別に悲しくなんてない。自分で選んだ道だ。ぼっちでロックな生き方を選んだんだ。

「面白いから読んでるんですよ。いろんな鉄の種類、用途。錬成法や加工の仕方とかの鍛冶屋的な知識だけじゃなくて、それらの性質を生み出す原因まで考察してる」

 よくもまあ顕微鏡すらない時代にアルファ鉄とガンマ鉄の違いに気づいたものだ。熱した後に急冷すると鉄を構成する粒子の配列が変わるために硬度が変わる、なんて普通思いつかない。天才はどこの世界にもいるものである。

「あー、たしかにめっちゃ細かく書いてたよねー。細かい表と数字ばっかで新種の眠り薬かと思ったわ」

「読んだことあんのかよ」

「まあね。ていうかルイーザ、科学は嫌いって言ってなかったっけ?」

「万物の根本は水だとか火だとか、そういうなんら正確な予測を立てられない作為的で曖昧な理論が嫌いなんですよ、俺は」

「ほんっと、9歳とは思えない口ぶりだねー。もしかしてルイーザ、人生二度目だったりする?」

 ルイーザは眉根をぴくりと動かす。冗談のつもりなのだろうが、適当な返しが思いつかなかった。

 別に隠しているわけじゃない。ただ、根掘り葉掘り聞かれるのが面倒なだけ。

 信じてくれなきゃそれでいい。というか、信じてくれない可能性のほうが高い。頭がおかしくなったと思われるか、子供の妄想と一蹴されるか。ここは中世ヨーロッパと違い多神教の国なのでとんちんかんなことを言っても魔女狩りされることはないだろう。それでも言わないほうが無難だ。

「……別に、背伸びしてるだけです」

「ほんと、大人びてるなあ」

 エマは笑うと、いとおしそうにルイーザの頭をなでる。

「ええい、やめろ、うっとうしい!」

「いいじゃーん。かわいい弟とのスキンシップさせてよー」

「キッショ」

 振り払おうとすると、がしっと抱えられ「うりうりー」となでくちゃにされる。

「学問を探求すべき場で何をされているのですかな、エマ殿下、ルイーザ殿下」

 冷ややかな声音。

 見れば、教師のバラックが歩いてきていた。その後ろには王太子のタルクィス。エマとルイーザにとっては異母兄にあたる。

「授業をはじめたいのですが、よろしいですかな?」

「はーい、ごめんなさーい。あ、お兄様もごきげんよう」

 エマはてへっと舌を出すと、ルイーザの耳元に寄せる。

「じゃ、がんばってね」

 キスされた。

 ルイーザは袖で頬を拭きながら恨めしそうに見上げると、姉は両手の指先を合わせながら「ごめんごめん」と逃げ去っていく。

 王太子は机の上を薙ぎ払う。ルイーザの読んでいた本がくるくると回りながら滑り、床に落ちた。

「蛮族の書など広げるな、阿呆が」

 とげとげしい口調。ルイーザからひとつ離れた席に座る。

 ガキか、言おうとして、ガキだったわと自分で納得。相手はまだまだ思春期。クソガキムーブしちゃうお年頃なのだ。無視するのが一番。

 教師が二人の向かいに立ち、授業の準備をはじめる。ルイーザも机の下から教材を取り出した。

「やはり卑賎の血に高等な教育は馴染まんらしいな。蛮族の書ばかり読む」

 タルクィスがイーザの髪を引っ張った。

 タルクィスは美しい金髪がご自慢だった。タルクィスの母は大貴族で金髪。そのせいか、金髪碧眼が優れた人間の証なのだという優生学じみた考えを持っている。

 対するルイーザの母は黒髪。もとは王城に努める女中だったが、あるとき王の寵愛を得て妃となった。エマもルイーザも母と同じ黒髪である。

「では殿下。遺伝の法則について説明していただけますか?」

 教師が授業の方向へと会話を誘導する。知識を披露する機会と見たタルクィスは勢いよく食いついた。

「生殖質は親の体内から情報を集め、それを子に受け渡す。情報とは骨の長さといった外見の性質から、頭の良さ、王者としての資質といった優れた特徴もすべて含んでいる」

「では金髪なら必ず青い目になるのはなぜでしょうか」

「金色の髪や青い目といった情報は王者の資質に付随する性質ゆえ、必ず一緒に伝わる」

「お見事でございます」

 金髪の遺伝子と碧眼の遺伝子が同じ染色体上にあるからだよ、ルイーザは内心思うも、口をつぐむ。メンデルの法則すら発見されていない世界で染色体の話なんてしたところで無意味。

遺伝だけじゃない、ほかの科学知識もそうだ。基礎研究の進んでいないこの世界では、何を言ったところでそれを裏付けるデータがない。メンデル自身、10年以上も実験を行ってデータを集め、それでも当時の人たちからは受け入れられず、研究をやめた。

 ルイーザひとりが声高にこの世界の科学の誤謬を指摘したって嘲笑されるのがオチ。だから、反論しない。前世で学んだ内容は記憶の片隅に押し込める。

反論も弁論も討論も、共通認識がなければ成り立たない。

しょせん人と人とは理解しあえないのだから。


 授業が終わると、教師はさっさと退出していく。王太子もいつもなら一緒に出ていくのだが、どういうわけか今日は席から立たない。

 早くひとりにしてくれないかなー、本読みたいなー、とルイーザがそわそわしていると、椅子を蹴り飛ばされた。咄嗟のことなので簡単に吹き飛ばされる。反射的に体を丸めて受け身を取ったので怪我はない。武家の子供なみに六歳から格闘の錬成をはじめていた成果が出た。

 こっそり悦に入ってると、怒鳴り声。

「何をニヤニヤしてる! 貴様のそういうところが気に食わないんだ!」

「はあ。そうですか。どうもすみません」

「まるで自分が特別な場所から周囲の人間を睥睨するように、見下している。人を無視することが高潔さの証だとでも思ってるのか!? 俺は、王太子、次の王なんだよ! 俺がお前を見下すんだ。お前は立場をわきまえろ! 敬う態度を見せるなら許してやる!」

 いたいた、こういう面倒くさい上官。ルイーザは前世の老害のことを思い出しながら、目の前の兄を適当にあしらう。

「申し訳ありません。育ちが悪いもので」

「開き直るな!」

 どうすりゃいいんだよ。

「いいか、俺からすればお前は王族でも何でもない。王に取り入り、国家の財を食い物にする乞食から生まれた賎民だ。王位継承権も与えられていいはずがない、王宮にはいらない人間なんだよ! エマも、お前も、あの卑しい女も、王宮から出ていけ! お前らの居場所なんてないんだよ!!」

 家に居場所がないとか前世の俺かよ。なんて言ってもどうしようもない。かといって謝っても火に油を注ぐだけ。

 考えた末、ルイーザは黙っておくことにした。何を言っても怒らせることになるなら、黙って怒らせるほうが労力の消費がないぶん得だ。そのうち飽きてどっか行くだろ。

 ルイーザの思惑通り、タルクィスは烈火のごとく怒り、暴言を吐き散らすも、罵倒のボキャブラリーがなくなるにつれ勢いもなくなる。

「クソが!!」

 最後に王族とは思えない貧弱な語彙とともに平手打ちをくらわした。タルクィスは十八ながら体格がよく、力も強い。ルイーザは視界が白く飛んだ。本棚に激突して床に倒れる。

「せめて抵抗くらいしたらどうだ! 母親と同じだな。何かに寄生するだけで自分にはなんの力もない。親子仲良く国に寄生していろ。今に俺が王となってお前ら寄生虫にふさわしい罰をくれてやる」

 言い終えると、踵を返す。

 何を言われても無視するつもりだった。

それが最善手だ。だが最後の最後に、イラっと来た。今の母親が前世の母親と似ているせいもあるだろう。タルクィスの言葉は蓋をしていた記憶に穴をあけ、頭の中に嫌なものが満ちる。苦くて汚くて、自分という存在から切り離すことのできないもの。この世で一番嫌いな人間の血を引いているのだという事実。生まれ変わってなお切れない、血の呪い。

 ルイーザは体の調子を確かめながら立ち上がる。頬は痛むが、歯に異常はない。脳も揺れてない。なら大丈夫か。

「あいにくですが」

 軽蔑しきった声。タルクィスの嫌いそうな、憎悪も怒りも軽蔑で塗り固めた、他者を見下す声。

 タルクィスのプライドを逆なでする、高い場所から下民に語り聞かせる声。

「母親と仲良くしたことなんてないですよ。……親に甘えるしか能のない七光りの王太子と違ってね」

 タルクィスの理性が飛んだ。

 殴りかかってくる。ルイーザはさっと上半身をかがめ、がら空きになった相手のボディにフックを入れる。しかしまるで効いていない。タルクィスは攻撃を受けたことなどかまわずルイーザの脳天に拳を振り下ろす。

 バックステップでよけ、一度距離をとる。打撃が通らない。体重が倍以上あるのだから考えれば当然のことだ。戦い方を変えよう。

 タルクィスは懲りずにまた殴りかかってくる。ルイーザはつま先で地面を蹴り、入り身をして敵の拳をかわしながら前に出る。相手の息遣いすら感じられる距離。

 ルイーザはタルクィスの金的に膝蹴りを入れた。

「あがう!?」

 前かがみになった相手のみぞおちに肘打ち。さらに態勢が崩れる。まるで防御などできていない。とどめに顎へ掌底。

 だがやはりパワーが足りなかった。ダウンは取れず、タルクィスは暴れ回るようにして手足をばたつかせ、ルイーザを蹴ろうとする。

 超至近距離での回し蹴りだ、威力は乗っていない。ルイーザは肘で相手の内腿を押さえてガードし、一本足になったところで足をかけて転ばす。そのまま自分も一緒に倒れ、ヒールフックを極めた。

 ヒールフックは相手の膝を固定しながら、かかとを回す危険な技だ。少しでも力加減を間違えると一発で骨折するし、治りも遅い。ゆえに自衛隊の格闘訓練ではゆっくりかけるか、場合によっては禁止されている。

 それがまずかった。

 練習のときの癖が出た。

 ルイーザは極めたらすぐに相手の膝を壊さないよう、パッと両手を離した。当然、相手は自由を取り戻す。

 唐突に激痛から解放されたタルクィスは何が起こったかわからず、ルイーザもまた意識してやったことではないので思考が停止。

 空白の一瞬を制したのは激情家の兄だった。

 タルクィスはルイーザを蹴り飛ばす。ちっぽけなルイーザは吹き飛ばされ、壁に激突。頭を打って動けなくなる。

 タルクィスは猛獣のようにルイーザに飛び掛かり、首を絞めた。目は血走り、口の端からよだれが垂れている。

「殺してやる! 殺してやる! 殺す、殺す、殺す!!」

 ルイーザは相手の指を取ろうとするも、歯が立たない。徐々に意識が薄くなっていく。

 技術は磨いていたつもりだが、パワーが足りない。小さいうちは筋トレを控えようと思っていたが、やはりバルクも大きくすべきだ。

 トレーニング方法を少し変えよう。ここで絞殺されなかったらだけど。

 もはや得意の技術を使う余裕もない。ルイーザは無駄と知りつつ丸太のようなタルクィスの腕を叩き、足をばたつかせた。

「兄上、やりすぎです」

 後ろから声が響く。

 エマが拳を握りしめて立っていた。怒りを押し殺しながら、あくまで冷静にふるまう。ルイーザと目が合った。

「ごめん。手出すつもりなかったんだけど、さすがにね」

「邪魔だ、貴様も同じ乞食の子! 俺の前から消え失せろ!!」

「落ち着いてから話し合いましょう、兄上。まずは怒りを鎮めてください」

「黙れ!!」

 ルイーザを投げ飛ばし、今度はエマに襲い掛かる。

 エマは殴ってきた相手の腕を掴むと、後ろに引く。タルクィスは前につんのめりながらたたらを踏んだ。そこに足をかけ、投げ飛ばされる。

 タルクィスはものすごい勢いで転がっていき、壁に激突。上下ひっくり返った状態で頭から地面に突き刺さり、意識を失った。

 エマは「あ、やべ」みたいな顔をするも、すぐに「ま、大丈夫か。頑丈だし」と兄を見捨て、ルイーザのもとへ。

「大丈夫!?」

 ルイーザは何度かせき込み、姉を見上げる。頭をなでられた。

「よしよし。よくがんばったね。強いじゃん」

「……負けてただろうが。意味わからんし」

「九歳が十八歳に負けるのは当たり前でしょ。でも技量では圧倒してたし、最後動きがとまったのももう少し体が大きくなればカバーできてた程度の隙だよ」

「負けたことは変わらんだろ」

「でもルイーザ、たくさん練習してたでしょ。あの動きは一朝一夕でできるものじゃない」

「……だとしたらなんだよ」

「私、頑張り屋さんなルイーザのこと大好きだよ」

「るっせえきめえ」

 悪態をつくと、エマは「ごめんごめん」と片手で謝る。。

「……いつまで撫でてんだよ」

「私の希望としては、いつまでも?」

「うざい」

 むすっと頬を膨らませながら姉の手を払いのける。それから床に落ちていた本を手に取り、本棚に戻しはじめた。喧嘩のときにぶつかって落ちたものだ。

「何してるの?」

「見てわからんか。片付けだ」

「いい子すぎ。天使? 天使でしょ? 天使すぎ。結婚しよ」

「死ね」

 エマも隣に来て復旧作業を手伝う。

 淡々と作業しながら思う。自分は弱いと。

 前世でもそうだった。練習はする。筋トレも平日は毎日二時間やってた。ジムでも「よく基礎ができてる」とか「前より良くなってる」とか言われた。

 けれど、ルイーザは人に勝てたことがない。どれだけ練習しても、いざ人とぶつかると負けてしまう。

 努力など意味がない。大事なのは結果だ。

 だから、もし次同じことがあれば勝てるようにしなくちゃいけない。

 そう思いながらも負け続けている。兄にも、そして親にも、負けて、逃げ出しただけで、一度も自分の意思を守れたことはない。

 負けてばかりの、弱い人間。

だからルイーザは、自分が嫌いだ。


 バカ兄の始末はとどめをさした姉が買って出たので、ルイーザはひとり部屋に戻る。椅子に深く腰掛けた。このまま寝てしまいたいが、残念ながら今日は予定がある。

国賓の歓迎パーティだ。王族だとこういう仕事があるのでだるい。図書館という特典はあるが、一般人よりもずっと自由は制限されている。

「やっぱり出るしかないか」

 前世と同じように、家を出て自由になることを目指す。また同じことを繰り返すのは芸がないが、異世界旅というのはそそられる。

 となれば、まずは目標を明確にしないといけない。いつまでに旅立つか、それによって計画が変わってくる。

「十五歳かなー……」

 前世では十八で家を出た。同じことをするならせめて期限くらいは早めないと進歩がない。そうと決まれば武術の練習時間を増やさないと。せめてあの兄を圧倒できるくらいじゃなければこの世界で旅なんてできない。あとは馬術。金は王宮の中にいればどうとでもなる。言語はボルジア語とバートル語ができれば不自由はない。

 空想の翼をはためかせていると時間は矢のように過ぎ去っていく。ルイーザは濡らしたタオルで怪我をふくと、礼装に着替えてパーティ会場に向かった。


 王宮は5キロメートル四方の城壁に囲まれている。中の建物も堅牢な石造り。東西南北に面した城門にはそれぞれ中央に門があり、そこから伸びる道が敷地内を十字に区切っている。

 四つに区切られた地区のうち、南の二つが居住区。北の東側は兵舎、西側は貴族や役人の仕事場。

 パーティ会場は居住区の中にある。一階がだだっ広いホール。二階は吹き抜けとなり、壁沿いにぐるりと廊下がめぐっている。落下防止の手すりに寄り掛かると一階のホールに集まる人々を見渡せる。

 ホールの南側は一段高くなっており、王はそこへ登ると開幕の挨拶を行った。

「まずは我が王国に新たな友人ができたことを感謝したい。今宵の招待客であるイディリア族、エルロット族、バルドル族、ラデン族の諸君はバートル人でありながら、我が王国に賛意を示し、盟友となることを受け入れてくれた。バートル諸部族との間に交わされたプロヴィアの講和から十年という節目にふさわしい出来事である」

 挨拶は長々と続く。ボルジアの貴族はあくびを噛み殺しながら、身じろぎをこらえている。耐えかねた人々は視線だけを王に向け、隣の貴族と雑談をはじめた。声音は押さえているが、耳をすませばルイーザにも聞き取れた。

「蛮族相手に大げさな」「国内の盗賊団相手にも手こずっているのだ。外敵が減るのはうれしかろう」「それよそれ。プロヴィア戦役の英雄も老いたものだ」などなど、王を嘲笑する内容が多い。さんざんけなしておきながら顔には一切出さず、厳粛な空気を崩さないのはさすが貴族だ。場慣れしている。

 ボルジア貴族に比べれば、バートルの有力者たちのほうがよほど真面目に聞いている。

「この同盟が永久に続くよう、融和の神ルディアに祈りを」

 最後に短く祈りをささげると、奥にしつらえられた玉座に座る。代わりに前に出たのはルイーザ。今日はルイーザのデビュタントでもあるのだ。

 ルイーザもまた、挨拶を述べる。といっても、あらかじめ用意された原稿を読むだけなので思うところもない。大衆の前なのである程度は緊張するが、耐えられないほどじゃない。

 暗記した文面を口にしながら聴衆を見渡す。貴族たちの態度は先ほどと似たようなもの。ただ、雑談の声音はわずかに大きくなっている。

 部屋の奥に視線を向けると、バートル人たちが見えた。族長とそれに次ぐ地位の人々、子供もいる。次期族長の青年や、人質として連れてこられた子供たちだ。

 人質たちの中に、済ました顔の少女がいた。歳のころはルイーザより少し上だろうか。

柔らかな金髪を短く切り揃え、淡雪のような白い素肌が照度の落とされたホールの中で妖精のように浮かび上がっている。二次元に忠誠を誓ったルイーザですら思わず見とれてしまうほどの、芸術品じみた美しさだった。

やるじゃん、三次元。


挨拶を終えると、パーティがはじまる。バートル人たちはボルジア貴族と意思疎通をしようと試みるも、言語の壁に阻まれてうまくいかない。エマやルイーザのように進んで蛮族の言葉を覚えるボルジア貴族は少ないのだ。通訳は置かれているも、数が少なかった。

見かねたエマは群衆に飛び込み、バートル人たちに話しかける。族長たちはやっと会話のできる相手を見つけられたのがうれしいようで盛り上がっていた。

ルイーザもまた席を立つ。姉の真似をしようと思ったのではなく、退屈に耐えられなかったので逃げるだけだ。陰になっている場所を通って二階に上がり、適当な部屋にこもる。燭台に火を灯し、持ってきていた本を開いた。

 三十分ほど経ったころ、扉の開く音。

「……姉上、なんの用?」

 ため息交じりに振り向くと、エマではなく母親が立っていた。相当イライラした顔。マジでヒステリー5秒前。

 母親はずかずか歩いてくると、手を振り上げる。

 よけるか迷ったが、やめておいた。

 平手打ち。ルイーザの頬にじんわりとした痛みが広がる。

「何やってるの、こんなところで」

「何と申されましても。挨拶が終わりましたので、読書を」

「バカなこと言わないで!」

 ルイーザから本を取り上げると、狂ったようにページをむしり取る。ぐちゃぐちゃにしてから壁に投げつけた。

「さっきの挨拶はなに!? 全然貴族たちの注意をひけてなかったじゃない! あんなので将来やっていけるの!? いい、今の地位に満足してちゃだめよ、上を目指しなさい! 王太子を蹴落として王になるの。これはあなたのために言ってるのよ!! あなたのことが心配なの!! わかる!?」

 わかる、ルイーザには母親の感情が嫌というほどわかってしまう。

 タルクィスも言っていたが、母親は王個人から寵愛を受けて今の地位にいる。生まれは庶民なので貴族の後ろ盾もない。次の王が即位すればたちまち今持っているものをすべて失う。それだけでなく、嫉妬を買っていた貴族たちから復讐されることもありうるのだ。だからこそ、保身のためにはルイーザを王にするしかない。そうすれば王太后として今以上の権勢をふるうこともできる。

「なに、その態度は!? わかるかって聞いてるの! わかるっていいなさい!!」

 またもビンタ。ご丁寧に同じ場所だ。さすがに痛い。

 こういうときの対処法は知っている。とにかく相手の意に迎合することだ。同意し、同情し、なだめすかして落ち着ける。親のヒステリーなんてそうすればすぐに収まる。中学生まではそうしていた。けれど、高校に上がるころから、その行動に疑問を感じ始めた。

 なんで俺がこんなことしなくちゃいけないんだ。そう思うようになってしまった。

 親孝行こそ正しい道、なのだろう。けれど、ここまでしなければならないのか。ここまで自分の心をすり減らして、殺意も憎悪も押し殺して、上辺だけは笑みを絶やさず親のご機嫌取りをしなければならないのか。

 苦痛を訴えれば世間の大人たちから大バッシングを受ける。虐待されているわけでもなく、ネグレストなわけでもない。ちょっと反りが合わないだけで、産んでもらい育ててもらっている親に逆らうとは何事か、と。

 それはきっと正しい言葉なのだろう。

 だが、同時にルイーザは思う。くだらないと。

「わかりませんよ。ちっともわかりません。少しは論理的に話してくれないと」

 一度疑問を抱いてしまうと、もう無理なのだ。

 ‘いい子‘の演技を続けることは、できなかった。

 母親のヒステリーは爆発する。猿のようにわめき散らしながらルイーザを何度も何度もたたき、蹴り、突き飛ばした。首根っこを掴むと部屋を出て、手すりに顔を押し付ける。階下では参加者たちが優雅に踊っている。

「あれを見なさい! あそこにいる王妃、あの女は大貴族よ! 多くの貴族と繋がってる。けどあたしにはあなたしかいないのよ。あなたを愛してあげてるからこんなに厳しく言ってるのよ! あたしにはあなたしかいないの!! だからお母さんの言うことを聞きなさい!!」

 もう反論するのも面倒だった。猿相手に何を言っても無駄だ。

 なされるがままにしていると、階段を登ってくる音。

「ちょ、お母さん!? なにしてるの!?」

 姉の叫び声。ついで、駆け寄ってくる音。

「待って待って待って、お母さん。落ち着いてよ。どうしたの? 話聞くから」

「あなたも悪いのよ!! あなたが甘やかすからこんな自分勝手な人間に育ったの! あなたのせいですからね!!」

「やー、ごめんごめん。ルイーザかわいいからつい。これからは気をつけるね」

 しばしのやり取り。母親は「力を持った貴族たちに挨拶しに行かせなさい。あなたが責任もつのよ」と吐き捨て、その場を去っていった。

「大丈夫?」

 エマはしゃがんで視線を合わせる。ルイーザはしばし目を泳がせたのち、立ち上がった。服装をただし、手すりに寄り掛かって階下を眺める。エマも隣に立った。

「昼もこんなことありましたね」

「そうだねー。どう、ヒーローみたいでかっこいいでしょ?」

「まあ、それなりです」

「それなりかー」

 エマは笑いながら頬をかいた。

 ホールでは幾人もの貴族が踊っている。こういう機会にパイプを作り、権力争いでの優位を勝ち取るのだろう。そんなまだるっこいことルイーザの性格ではできないが。母親はそれを望んでいるらしい。

 姉の横顔をちらと見る。

「挨拶周りはしなくていいんですか?」

「したいの?」

「まったく」

「じゃあいいよ」

 とん、と肩をぶつけられた。ルイーザも力を込めてぶつかり返す。「いで」と姉はむくれ、すぐ笑顔になった。

 二人でパーティの様子を眺めていると、催しものがはじまった。王太子とバートル人の試合だ。バートル側は今回同盟した中で一番の有力部族であるイディリア族族長の息子。年はタルクィスと同じか、少し若いくらい。彼は人質ではないが、父親に付き添ってパーティに来ていた。

二人とも木剣を持って撃ち合う。体格はタルクィスのほうがわずかに大きい。だが、技量では明らかな差があった。

数合打ち合っただけでバートルの青年はタルクィスの実力を察したらしい。自分からは攻めず、適当に相手の攻撃をあしらうようになる。あしらう、というよりほとんど遊んでいるといっていい。試合にすらなっていなかった。

「どっちが勝つと思う?」

 わかりきったことを聞いてくる。

「バートルのほうでしょ。動きが全然違う。重心は安定してるし、足運びも正確ですばやい。うちの王太子は武器に振り回されて力任せに殴ってるだけ」

 異論の余地はないだろう。だがエマは「どうかなー」と笑う。

 タルクィスが気合いを発しながら剣を打ち下ろす。バートルの少年はそれを受け、つまらなそうな目で相手を一瞥すると、剣を落とした。さらに落ちた剣を拾おうとしてわざと大きな隙を作り、木剣の一撃を食らって降参した。

「八百長かよ……。いいのか、あれで」

「まあ、お兄様は喜んでるし。いいんじゃない?」

 試合を見ていた招待客たちも敢闘した二人に拍手を送っている。バートルの族長もまた、試合を終えた息子を労っていた。

 それでもルイーザの目には、本心から喜んでいるのは王太子だけに見えた。


 パーティはお開きとなり、会場をあとにする。

 廊下を歩きながら、ルイーザはふと疑問に思った。

「それにしても、普段は蛮族だと見下してるくせにやけに豪勢でしたね。それにバートルの部族は他にもたくさんありますし」

 バートルはボルジアの東に広がる地域と、そこに住む人々に対する名称だ。百以上の部族に分かれており、ひとつの国としてまとまっているわけではない。バートル人とは特定の人種でも、国に属する人間でもなく、バートル語を話し、バートルの神々を信じる人々の総称なのだ。そのうちのいくつかの部族と同盟しただけにしては張り切りすぎじゃないか。

「イディリア族は最有力部族で、しかもバートルのほぼ中央に位置してるからね。ここを押さえとけば安泰ってことでしょ。他の部族はおまけみたいなものだよ。それに今は盗賊の問題があるからね。他国とは外交で対処したいのさ」

「盗賊って、そんなヤバイっすか?」

「ルイーザ、もうちょっと国のことに興味持とうよ……」

 姉は呆れたように頭を振る。

「二個軍団を盗賊退治に投入して、撤退した」

 一個軍団はおおよそ五千人だ。二個軍団なら一万人もの正規兵を送ったことになる。

「相手の盗賊団は千人。フィルツって町の近くにある林の中にアジトを持ってる」

「じゃあアジト捨てて後方に下がって林内でゲリラ戦ですかね」

「あれ、知ってた?」

「いや、俺が盗賊のボスなら適当に散ったあと、軍団の隙見て攻撃仕掛けて、反撃態勢整う前に逃げてを繰り返すなって。まあ、地形にもよりますけど」

「よくわかってるじゃん。賢い賢い」

 頭をなでてくる。うっとうしいので振り払った。

「で、どうなったんですか?」

「撤退したよ。そのあとは手出ししてない。盗賊側にも被害は出たし、規模は減ったからね。国民には勝利したって報じてる」

 ルイーザは「うわー」と顔をしかめた。だるい気配しかしない。旅する時はその地方は避けよう。

 しばし歩き、エマが廊下を曲がるとルイーザは首を傾げる。

「姉上、部屋は向こうですけど」

「ちょっと寄り道」

「そうですか。おやすみなさい」

「あんたも来るのよ」

 さっさと部屋に戻ろうとするルイーザを、姉は引き止める。

「なんすか、眠いんですけど」

「まあまあ、すぐ終わるからさ」

 渋々ついていく。姉が立ち止まったのはバートル人に割り当てられた部屋のひとつ。

ノックすると、中からひとりの少年が出てきた。先ほどタルクィスと試合をした、イディリア族族長の息子だ。

「何か御用でしょうか」

「わざと負けたでしょ」

「なんの話だか」

「入れて」

 追求を受け流そうとする少年を無視して、姉はずかずかと部屋に入る。当然、ルイーザも一緒だ。中は広々としており、物も少ないので動いても問題ない。

 姉は壁にかけてあった作り物の剣を二振りとると、片方を少年に手渡す。

「あ、私はエマね。そこの世界一かわいい天使は弟のルイーザ。ルイーザのことは挨拶で知ってるか」

「……イディリア族の長、マルドゥスの息子、ヴェルトです」

「そっか。ヴェルトさんね。じゃ、行くよ」

 ゆるい言葉とともに、重い一撃をヴェルトの頭に振り下ろす。ヴェルトはそれを受けると、わずかに体軸を逸らして受け流し、距離をとった。

「なんのつもりです」

「やー。私こう見えて剣は得意だからさ。強い人見ると、ね?」

 説得は無駄だと悟ったのか、ヴェルトは諦めたように剣を構える。

 ろうそくの頼りない灯りの中はじまったのは、あまりに美しい試合。

 やはり先ほどは手を抜いていたのだろう。ヴェルトはエマの剣戟をさばき、隙を見れば打ち込む。二人はぴたりと息を合わせて舞い、軽やかに剣を振るう。

 何度目かの交錯の後、エマは足をとめた。

「ま、合わせてた私も悪いんだけどさ」

 ヴェルトはぴくりと頬を動かす。

「弟は口が硬いし、私もただ自分の力を確かめたいだけ。私をけちょんけちょんにしたって同盟に傷が入ることはないよ」

 言い終えると、ヴェルトの顔をまっすぐに見つめる。ヴェルトはしばし手の内で剣を弄んでから、深く息を吐き出した。

 次の一撃を、ルイーザの目では捉えられなかった。

 ヴェルトは雷のように動き、最初のお返しとばかり姉の頭を切る。エマは凄絶な笑みを浮かべてそれをかわすと、相手の剣の下を滑らせて腹を狙った。ヴェルトはわずかに剣を下ろしてそれを止めるが、同時に繰り出された蹴りを膝に食らう。膝を横から、足刀で踏み潰すようにした蹴りは体格差のあるヴェルトにも効いた。ヴェルトは顔をしかめるも、すぐに反撃に出る。それをエマはさばき、また距離をとる。

 二人は対峙しながら半径三メートルほどの円上を歩く。わずかに剣先を動かして相手の反応を見て、姉が一歩踏み込んだ。ヴェルトは突きを連続で繰り出すも、ジャブ程度の力加減だ。エマはそれらを弾き、相手の右側に踏み込みざま逆袈裟に切りあげる。ヴェルトは下がりながらスウェーでよけ、カウンターの一撃を放った。大ぶりしたあとの無防備なエマの腕に当たるかと見えた刹那、エマはさらに一歩踏み込み、相手の剣をくぐるようにして避ける。今度はヴェルトに隙ができた。剣を振り切ったばかりの脇下に、エマの剣が滑り込んだ。そのまま肩に沿って剣を回し、首元にそえた。

 ぴたりと、動きがとまった。思い出したように時間の流れが蘇る。二人とも汗だくになり、荒い息を吐いていた。

「やっぱり手抜いてた」

 エマは笑うと、模造刀を壁に戻す。「じゃあね」と手をひらひら振り、扉に向かった。

「行こ」

 姉に肩を叩かれ、ルイーザはようやく我に帰った。

 見惚れていた。二人の戦いに。神がかった技巧に。

 つい先ほど、王太子に勝てれば十分だと思ったばかりだ。

 けれど、井の中の蛙に過ぎなかった。

 あの二人のどちらかに、せめて一太刀。それくらいじゃないとだめだ。

 二人して部屋を出る。廊下を歩いていると、エマは嬉しそうに笑った。

「いやー、久々に本気出せたよ。楽しかった」

「……姉上、強いですね」

「お、お姉さまを尊敬する気になったかな?」

「それはないです」

「えー、なんでー」

 エマはさっきまでの鬼気迫る迫力はどこへやら、だらしなくルイーザに抱き着いてきた。払いのけると、「あう」と間抜けな声を出して離れる。それきり会話は途切れ、長い廊下に二人分の足音だけが響く。

 窓から差し込む月明かりの中、隣で歩く姉が、どうしようもなく遠い存在に見えた。

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