山の上には熊がいて-⑤
則爺と別れ、犬山のふもとまでひたすら歩いた。そこには神社に続く階段がある。毎年九月にはお稲荷様のお祭りがある、狐山神社である。
一段一段踏みしめるようにして上がり、桃子はすがるような気持ちで鈴を振って手を合わせた。
「どうかどうか、次の縁談こそ、つつがなくまとまりますように……! この際、どんな問題のある方でも構いません。とにかく私と、末長く添うてくださる方が現れますように!!」
声に出し、かつ気の済むまで念じ、ふ、と顔を上げる。そこには先ほどと変わらぬ拝殿があった。
その変わり映えのなさに、なんだか気がそがれる。信心がなければ、と思うものの、もう三度も駄目になっている事実がどうしても頭にちらつく。
「私の何がいけないんでしょう……」
則爺に投げかけた言葉をひとりごちるが、答えは分かっている。
全てだ。桃子の何もかもが、結婚するのに向いていない。
最近まで、女だてらに朝に夕、剣術に明け暮れていた男勝り。跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘。水晶の良し悪しも分からず、嫋やかでも、若くもなく、では特別な器量良しかと言えばそうでもなく、今はまだ珍しい女子高等教育を受けていて、妙に知恵があり、可愛げもない。文武両道で褒めそやされるのは男だけだ。
女として、妻として、娶りたい部分が一つもない。
——桃子、桃子、よく聞いて。
母の最期の言葉が思い出される。
——あなたは結婚をするのよ。なるべく早く。お父様があなたに道場を継がせる前に。
分かってるわ、母様。
あの日、病床で囁かれた母の最期の言葉。あの時、驚きで何も言えなかった代わりに、心の中で母の面影に答える。
今は前途多難で、なんなら既に三度も失敗してしまったけれど、次の縁談こそは纏めてみせますとも!!
弱気な己を奮い立たせ、握り拳を天に突き上げる。
「さあっ、切り替え切り替え! 次行くわよ!」
「もし」
「っきゃあ!!」
突然後ろから声を掛けられ、つんのめって転びそうになる。なんとか踏ん張って振り向くと、見慣れぬ男が立っていた。白い羽織に、カンカン帽を目深に被っているので、顔はよく見えない。
気配が全くなかったことに、桃子は怯えた。
まさか……鬼だろうか。
ゾッとして身じろぎもできずに立ち尽くしていると、男が、ふ、と笑う。
「まだ鬼は出ませんよ。逢魔が時には早い」
「あ、そう、そうです、よね……」
無闇な恐怖を見抜かれた気恥ずかしさに、はは、と笑い返す。こわばった体が瞬時にほぐれて、情けない気持ちもあった。
——この世界には、『鬼』と呼ばれる、人を喰う怪物がいる。
普段は人のふりをして暮らしているが、人より数段力が強く、不思議な妖術を使い、身体のどこかに角を持つ。
初めて公的に記録されて以来、日に日にその数を増やし、被害は甚大。街一つが壊滅に追いやられたこともある。只人では、束になっても敵わない相手だ。
鬼を屠ったり、封印できるのは、異術を行う陰陽師のみ。
しかし、人は百年に渡ってこの生き物と戦い続けているが、未だに殲滅の報はない。
だから只人は、夜は息を潜めて暮らしている。陽の光に弱い鬼は、夜に人を喰うから。
「申し訳ありません、鬼と間違えるだなんて失礼なことを。何かご用でしょうか」
「いや、なに。随分熱心に祈っておられるな、と思って」
か、と瞬時に頬が火照る。見られていたとは。
「あ、はは、これはお見苦しいところを」
「人生に絶望でも?」
「そ、うですね。少し、上手くいかないことが多くて」
「それは大変ですね。生きていたくないほど?」
「ええ、まあ……」
矢継ぎ早の問いかけにモゴモゴと返すと、ズズイと、男が人差し指を桃子の眼前に立てた。
「では、これは提案なのですが。一度、命を捨ててみるというのはいかがでしょう?」
「え?……ああ、そうですね。今日からまた、生まれ変わったつもりで……」
死んだつもりになって再挑戦してみよう、というような励ましの意味合いだと解釈して頷くと「いえいえ、そうではなくて」と男は首を振った。
「あなたには少し、地獄の様子を見てきていただきたいと思うのですよ」
「は、」
カシャン、音とともに、右手首に硬質な何かが巻きついた。はたと手を持ち上げて見ると、そこには金属の腕輪がある。
「は?」
「あなたはこれから私の目となり耳となり、地獄を見聞する。もしかしたら無礼な只人と断じられ、切り捨てられて死んでしまうかもしれないが、それならそれで都合が良い」
混乱のままに、とうとうと喋る男の顔と腕輪を交互に見る。
「どうせ絶望ばかりの人生だ。ここで殺されても惜しくはないでしょう?」
ニヤ、と男の口が三日月を描いた。とっさに背に手を回したが、そこにいつもある木刀はない。
しまった——!
「それでは、見知らぬ娘さん。良い働きを期待していますよ。——庚の転」
「待っ……!」
とっさに男の襟を掴もうとしたが、ぼうと浮かび上がった光の筋に阻まれた。パチンと弾かれたかと思えば、男が下に下に遠ざかる。いや、違う。
桃子が、宙に浮かび上がっているのだ。
足が宙を掻き、悲鳴が口をつく。見開いた目の先には、憎っくき男の姿。男の前には光の筋で描かれた五芒星が見えた。
「急急如律令」
聞こえた瞬間、身体が凄まじい速度で後ろに引かれる心地がした。眼下には木々が目まぐるしく過ぎ行き、まるで緑の川のようだ。
「っきゃああああああああ!」
そうして桃子は、絶叫を尾のように引き連れながら、山肌にみっしりと茂る木々の間に、一直線に落ちて行ったのだった。