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土司孤舟-⑰

 


「! 桃子さん、下がって」

「わっ!」


 言うが早いか、孤舟は桃子を自分の後ろに素早く引き入れると、山の上を見る。

 木々の中からぬっと、赤い大きな手が伸びた。思っていた以上に大きく、爪の鋭さはまさしく獣のそれだ。桃子はとっさに刀に手をかけたが、孤舟がそれを制した。

 かき分けられた木がめきめきと音を立てて折れ、鋭い爪のついた手に潰され、引き千切られていく。


 その真ん中から、赤い肌の巨大な体躯の鬼が、ゆっくりとその全容を現した。


 大きな口の端は尖った耳の先端までを占め、その隙間から何本もの牙が覗いている。瞳は奈落のように黒々と大きく、額には天に届かんばかりの長い角が二本そびえている。


 ——孤舟。


 頭の中に直接響くような、何重にも重なって聞こえる声が、孤舟を呼んだ。身体が電流を流されたように震え、腹の底が冷えたが、桃子は目をそらさずに必死に顔を上げた。


 あれが、左近くん。


「……やあ、左近。随分派手にやってるじゃないか」


 ——陰陽師たちが下ろしてくれなかったのだ。オレは孤舟のところに行きたかったのに。


 孤舟の静かな声に、左近は不満を滲ませて応えた。


「そうか、俺にね。確かに、さっきまで君が降りようとしていたのは、あのあばら屋の方角だな。なら、話をしに来て正解だった。……俺はてっきり、左近は理性を失って暴れているのだとばかり思っていた。また人間に打たれて、苦しい思いをしたから、もう封印されるのは嫌だと。でも、違うんだね?」


 左近はゆっくりと頷く。鼻息がここまで届き、桃子は倒れそうになる。


「なら、どうしていきなりこんなことを? あの山の上で、俺たちはうまくやっていただろう?」


 左近はしばらく口をつぐみ、それから覚悟を決めたように


 ——孤舟。オレは良い子になれなかったのだ。


 と言った。悲しげな響きだった。


 ——オレの封印にはオマエの身体が使われている。だから、オレはオマエに身体を返してやりたいと思って、頑張っていたのに、無理だったのだ。オレは乱暴をして、人に血を流させた。オレは悪い子だったのだ。だからもう、こういう形でしか、オマエに身体を返してやれる方法がないのだ。


「そんなことありません! 左近くんはあの時、私を守ろうとしてくれて……!」


 気づけば口を挟んでいた。

 左近の瞳が桃子を見る。顔を向けられると少し怖い気がしたけれど、真っ黒な大きな瞳だけに集中すると、恐怖が徐々におさまっていく。

 左近の顔が、再び孤舟に向き直る。


 ——孤舟。まだ復讐がしたいか?。


 後ろから見た孤舟の肩が強張った。


 ——孤舟。オレは、オレ以外のものは全部憎かった。けれど、オマエのことは好きになった。オレを初めて友と呼び、名前をつけたオマエのことは。だから、他のことはどうでも良いのだ。孤舟。波間を孤独に漂う舟よ。オマエを孤独にした人間が、まだ憎いか? ヤツラはオマエを遠ざけて、ヤツラはオマエを傷つけた。オマエが戦うというのなら、オレはオマエの側につく。だが、オマエがもういいと言うのなら、オレも拳を下ろそう。


「……君に、そんなことはさせられないよ。俺は君に、何もしてやれないのに」


 ——孤舟。オレはそんなことは聞いてない。オレはオマエの友だ。オレは友を守る。何を置いても駆けつける。それがオレだ。オマエの友の左近だ。


 ふいに左近の手が伸びてくる。それは空中で一瞬、惑うように止まったが、ついに二人の前に降りてくる。

 鋭い爪を内側に隠すように折りたたむと、指の背で孤舟の胸に優しく触れた。すりすりと上下に動き、孤舟の体が揺れる。

 撫でているのだ。

 桃子は左近の顔を見上げる。大きな瞳がパチリと瞬いた。それは桃子のよく知っている左近で、もう、ちっとも怖くなかった。



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