山の上には熊がいて-③
「よく来たわね、桃子さん。さ、座って!」
奥で待ち構えていた乃明は綺麗な仕立ての着物を着ていた。道場の娘の桃子では滅多にお目にかかれない品だが、乃明がこのような着物を着ているのも珍しい。
「私、何かお邪魔してしまったかしら?」
勧められた椅子に腰掛けながら怖々聞くと、乃明は「ああ」と着物の裾をつまむ。
「さっきまで、この辺りを管轄する水の陰陽師様の潮家のご当主がいらしてたのよ。お前もご挨拶しなさい、と駆り出されただけ。今は暇よ。このまま出かけてもいいぐらい」
「水の陰陽師様が!? すごいことじゃない」
「別に大したことじゃないわよ。うちは酒蔵でしょう? 酒造りに質の良い水は欠かせないから、毎年春に水の調査にいらしていただくってだけ。地域保安の一環の、水質調査ね」
陰陽師とは、陰陽五行の力で異術を行う者の総称だ。
木、火、土、金、水をそれぞれ操るとされ、基本的には皆、内務省・中務寮に所属する国家公務員である。陰陽師の才は遺伝的なものが強く、只人と呼ばれる、力のない庶民には肩代わりできないことから、生まれついての公僕とも言われている。
彼らは家ごとに最も強い者を当主として立て、その能力と家の大きさに応じて国から管轄地——所轄を任せられる。そこを一族全体で保安するのが主な仕事だ。といっても、仕事内容は多岐に渡り、鉱山や地下水の探知・調査から、所轄における重大事の風水に占術、鬼の撃退・封印までと幅広い。
なので、特別な理由があればこうして個人宅にも赴く。しかし大抵の人間は生涯近く関わることはない、雲の上の存在だ。
少なくとも、ただの道場の娘の桃子には、町に鬼でも出なければ縁遠い。
「ははあ、すごい……ねえ、どんな方?」
「うーん。先代は素晴らしい方だったけど、今代はどこか鈍臭い方よ」
「ちょ、」
好奇心に負けて詮索したら、あんまりな言葉が返ってきて、言葉を失った。
「六年前、舘川の別荘地に二本角と呼ばれる鬼が出たのは、桃子さんも知ってるでしょ?」
「え、ええ。うちも、父様が助太刀に行くって言って、大変だったわ。まだ私が幼かったこともあって、母様が必死で止めていたけど」
「あそこを所轄していたのが潮家でね。被害は最小限で済んだらしいけど、華族が集まっているところに鬼が出たものだから、管理不行き届きだったんじゃないかと、政府に激しく糾弾されてね。その間に二本角を獲り逃したのもあって、責任を取れと言われて、当主替えの憂き目にあったのよ。きっと今のご当主は、自覚のないまま繰り上がってしまったんだと思うわ」
「そんなふうに言うものではないわ。陰陽師様は、私たち只人を守ってくださる立派な方なんだから」
「でも、さっきも酒蔵でつんのめって転びかけてたのよ?私、笑いをこらえ過ぎて息が止まるかと思っちゃった」
「乃明さん!」
桃子は思わずたしなめた。
乃明は使用人の持ってきた紅茶で唇を湿らせながら肩をすくめる。
「若武者殿は、相変わらず生真面目潔癖の優等生だこと」
「やめてちょうだいよ、その呼び方。それに、私が校長室に呼ばれたの忘れたの?」
うんざりして返すと、乃明はいたずらっぽく目を光らせた。
「あら、あれは向こうが悪いのよ。あなたは正義をほどこした。現に校長先生はお咎めなしであなたを放免したじゃない」
「そりゃそうだけど……」
「ま、いいわ。それで?用件はなんだったの?手紙には「不躾なお願い」とあったけれど、真面目な桃子さんが私にそんなことを頼むなんて、よっぽどでしょう?」
乃明の問いに、ハッと居住まいを正す。そうだった。楽しいお喋りにきたのではない。今回は本当に、ものすごく不躾なお願いをしにきたのだ。
「実は……」
桃子はおずおずと、結婚相手を探している旨を切り出した。
乃明は最初こそ面食らっていたものの、桃子の恥じ入る様子に黙って話を聞いてくれた。
桃子が話し終えると、「ははあ」と頷く。
「なるほど。町の中では、相手は見繕えないのね」
「そうなの。狐山町は鉱山地帯だから……」
小学校を卒業したら、狐山町のこどもは大体が、男子は鉱夫、女子はその手伝いになる。鉱夫に嫁ぐ妻も同様だ。水晶の出来を選別する目がなければ、貰い手はない。
昔から父の方針で剣ばかりして、ろくろく山にも入ったことのない桃子には、水晶の良し悪しなんてサッパリだ。それに、鉱夫の妻にしては、女学校を卒業した桃子はトウが立ち過ぎている。
だから桃子は慣れ親しんだ狐山町ではなく、主に三津川町で婿を探していた。
かと言って、そこに住んでいない身で縁を伝って行くのにも限界があり、今日、ついに友人の伝手に縋るため、恥を忍んで訪問したのだった。
「でも、結婚ねえ。私、あなたはご実家の道場を継ぐものだと思っていたけれど。それか、女性初の防人を目指す、とか。正義感の強いあなたにぴったりじゃなくって?あなたも、てっきりそのつもりだとばかり」
「それは……」
乃明のしみじみとした言に口ごもる。
地域の守り手を育てる道場の娘として、責任を放棄するのか、と責められている気になるが、乃明にそんな意図はない。
桃子の考え過ぎだ。
「なあに?」
「……母の、遺言なのよ。だからこれでいいの」
「ふぅん」と頷いた乃明は真実を見極めるように桃子を見据えたが、やがて「ま、いいわ」と切り上げた。
「この辺の若いので、お相手を探している人なんてたくさんいるでしょう。父様に話して、良い相手を見繕っておくように頼んどく」
と快く請け合ってくれた。持つべきものは気風のいい友人である。
「ありがとう! 天の助けよ」
「じゃあ、決まったら手紙を送るわ」
それからしばらくお互いの近況報告をし合って、午後には乃明と別れた。