みんなで仲良く暮らしてる-⑬
夜、左手の傷が疼くような気がして眠れず、夜風に当たろうと縁側に出ると、そこには孤舟がいた。
「孤舟様? 何をなさっているんですか?」
「ああ、少し考え事を。そちらは?」
「私も、そんなところです」
近くまで行くと、孤舟が横にずれてくれたので、そっと隣に腰掛ける。孤舟は何も言わずに山を眺めている。
完全な丸に近い月はいつもより数段明るく、孤舟の陶器の凹凸までもがよく見える。夜に行き合ったことはなかったので物珍しく見つめていると、ふと孤舟の前脚に覚えのない汚れがあることに気づいた。何かしら、と考えていると、すぐに己の血だと思い至る。
「孤舟様、その……」
「なにか?」
「そこ、汚れが。多分、私の血だと思います。拭ってもいいですか?」
「ああ、」と孤舟は今気づいた、というように声を出した。
しばらく汚れを床に擦り付けるなどしていたが、無理と分かるとそっと前脚を差し出してくる。
「すみません、お手数を……」
「いえ、元は私の不手際のせいですから」
乾いた血を着物の袖で拭う。ゴシゴシとひたすらに擦っていると、ようやく綺麗に取れた頃には、拭いた前脚だけが異様に美しくなってしまっていた。思わず手を止める。
「取れましたか?」
「はい。あの、でも……」
孤舟は首をかしげ、己の前脚に目を落とす。そして拭かれたところとそうでないところの差に、「ああ」と妙に得心のいった声を出す。
「申し訳ありません、私が不用意に拭いたりしたばっかりに。孤舟様が良ければ、このまま全身拭いてしまっても良いでしょうか……?」
「お気になさらず。どうせ誰も見やしません」
「私は見るし、気になります!」
再び座り込もうとする前脚を掴んで、「失礼します!」と膝に乗せてしまう。
「も、桃子さん!」
「動かないでください!」
慌てて降りようとするのを一喝して抱え込み、がっちりと固定して拭き始める。孤舟はうんうん唸って逃げようとしたが、やがて観念したように桃子の膝に身体を預けた。
それに合わせ、逃げられないよう少々乱暴に汚れを拭っていたのを、ゆっくり丁寧に拭くように切り替える。
頭のてっぺん、首元の複雑な凹み、お腹、足の裏、と拭き上げながら思う。
この方は、自分では身体を拭けもしないのだわ。
それは単純に、人に頼めば解決するとか、そういう問題ではなかった。
だってこれは孤舟自身が、自分の汚れを気にしなければ、人には頼めない。
孤舟は自分の汚れが気にならないのだ。
自分が置かれた環境を、不遇を、孤舟は気に留めていない。心地よく、楽しく暮らすことに頓着していない。穴だらけのあばら屋に、そのまま住まっていたところからも、それは明白だった。
その姿はまるで、自分はこのくらいの存在だ、これがお似合いだからこれで良いのだ、と自分を諦めているように桃子には見えた。
——誰も信じないことです。
記憶の中の孤舟が言った。
あなたは一体、どんな人生を送ってきたの?
そんなになるまで、どうして誰もあなたに声をかけなかったの?
あなたはずっと優しいのに。私を助けてくれたのに。こんなに寂しい人なのに。
どうして?
「孤舟様」
「……はい」
「私、山を下りても、拭きに来ますから」
「は、」
「必ずここに来て、あなたの汚れを拭いますから。絶対に」
桃子は膝に乗せた小さな陶器の熊に向けて、強い決意でもって告げた。孤舟は少し身じろぎした後、そのことに関しては何も返さずに
「この間はすみませんでした」
と言った。




