そこには狐もおりまして-⑨
夕飯の頃にも、夜になっても、左近は姿を見せなかった。怒られるのが怖いのかもしれない。
しかし、
「大丈夫でしょうか、あんなに小さいのに」
と桃子が聞けば、孤舟は
「大丈夫です。山は彼の庭ですから。野犬が出ても、彼なら追い返せますよ」
「はあ」
案外頼もしいのね。ぼんやり思いながら桃子は頷いた。
左近のことを何も知らない桃子が、闇雲に心配していても仕方がないのかもしれない。与えられた真っ暗な部屋で横になり、ようやくそう自分を納得させた時、ふと顔に影がかかった。山は月が近く、町にいるより明るい気がする。
なに、と穴だらけの障子に目を向けると、逆光に人影が立っていた。心臓が止まるかと思った。叫ばなくて良かった。
「……左近くん?」
うるさく胸の内を叩く心臓を宥め、そっと呼びかけると、障子が静かに開いた。隙間から、左近の目がチラチラと光って覗いている。獣の目だ、と思う。
「おかえりなさい。少し、お話ししませんか」
左近は何も言わなかったが、辛抱強く待つと、やがて障子の隙間から中に入って来た。
桃子は起き上がると、左近を座らせ、自分も向かい合って座った。
「昼間はごめんなさい。できないことを、無理にさせてしまって」
「左近にできないことなんかない」
間髪入れずに飛んでくる反論に、なんだかおかしくなってくる。本当に、人間のこどものようだ。
「そうですね。でも、得意不得意は誰にでもあるものですよ。私も、苦手なことはあります。例えば、そうね……掃除は得意でも、山歩きは苦手です。小さい頃から、山にはあまり入ったことがなくて。だから、左近くんがご飯をとってきてくれなければ、飢え死んじゃうかもしれません」
ピク、と影が動く。暗がりにだんだん目が慣れてきて、まろい頬と、髪の境目が分かるようになった。
「……でも、人間なら誰でも、掃除ができるのだろう?」
左近は重たく口を開き、口惜しそうに呟いた。
「人間のすることがしたいのですか?」
負けず嫌いなのかしら、と問えば、小さな頭が、コクリと一つ弱々しく沈む。
「孤舟は人間だから。人間の真似をすれば、左近は良い子でいられるのだ。そうすれば、長く一緒にいられる」
強く胸を打たれ、涙が出そうになった。
そうか。この子は人間になりたいのだ。
友達と一緒の生き物に。
桃子は思わず、左近の膝で丸まる小さな手に触れた。左近は暗がりで大げさに肩を揺らし、桃子の手をじっと見つめたように見えたが、振りほどきはしなかった。
「孤舟様が、あなたに人間になれとおっしゃったの?」
「……ううん」
「なら、水拭きなどできなくても、一緒にいられますよ。ご友人なのでしょう?」
左近は何も言わない。桃子は続ける。
「あなたはしたいことをすればいいの。心の望むままに。人間のすることがしてみたいというのなら、そうしましょう。私も出来る限りお手伝いいたします。ただし、誰も傷つかない方法でね」
「誰も」
「ええ。左近くんの腕がなくなってしまったら、孤舟様も私も悲しいわ」
もう割れてはいない腕を、それでも労わるように撫でる。左近の腕は、夜の砂のようにひんやりとしていた。陶器でできた孤舟の手の温度に似ている。
不思議な場所だ、とつくづく思う。
陶器の熊と、狐の泥人形。
ここには土の体を持った優しい生き物が、寄り添い合って暮らしている。
「桃子」
初めて名を呼ばれたことに驚きつつ「はい」と返事をした。
「……驚かせてごめんなさい。人間のこと、また教えてくれるか?」
おずおずと差し出される問いに、桃子は感極まりながら、
「もちろんです」
と笑って見せた。こんな暗がりでも左近にはそれが見えたようで、彼もまた、笑った気配がした。




