そこには狐もおりまして-⑤
「じゃあ、今日はもう箒がけは終わったので、水拭きから一緒にやってみましょうか!」
左近の新しい挑戦を応援するつもりで、桃子は瓶のあるところに左近を連れて行った。
「まずは手拭いを水で濡らします。それができたらこうして捻って固く絞る」
「水……」
「? はい、水拭きですから」
振り返って左近を見ると、硬い表情で桃子の手元をじっと見つめている。さっきまでのやる気は見る影もなかった。
「左近くん、どうかしました?」
「……水は、苦手だ」
「あら。少し触れるのも、だめですか?」
思いがけず、つい重ねて聞いてしまった。左近は何も言わず、口を引き結んでいる。
桃子は考え、
「なら、今日は私が絞るところまでやりましょう。さっき見せたように、この手拭いで拭くだけなら、」
「いや、やる」
「でも、」
「人間は、それをやるんだろ。なら、左近にだってできる! きっと、ちょっとなら平気だ!」
左近は桃子の手から手拭いをひったくると、瓶に近づく。
そうしてしばらく瓶の上に手拭いを捧げ持ち、やがて気合いを入れ直すかのように深呼吸してから、えいや! と勢いよく瓶に手を肘まで突っ込んだ。
水面が大きく揺れ、辺りに飛沫が散る。
「ほら見ろ! 左近だってできるぞ!」
「まあ! すごいです、左近くん!」
「そうだろう、もっと言え!」
「さすが! すごい! 天才!」
固唾を呑んで見守っていた桃子は、思わず拍手を送った。ここぞとばかりに大げさに褒めると、左近は得意満面で腕を瓶から引き上げる。
そして前触れなく
「あ」
水を被った左近の腕が落ちた。
しまった、というような、この場面にはおよそ似つかわしくない呑気な声とともに。
肘から下、手拭いを掴んだ形のまま、ぽっきりと地面に墜落したそれを見て、
「……っいやあああああああ!!」
一拍の思考停止の後に、桃子の絶叫が山頂に響き渡った。もしかしたら麓の狐山町の実家まで届いたかもしれない。
とにかく、あらん限りの叫びだった。
「どうしたんですか!? 何か問題でも……あーらら」
すぐさま奥からすっ飛んできた孤舟が、膝から崩れ落ちた桃子と腕のない左近を見て、諦念の滲んだ声を出す。まるでいたずらがバレた、こどものような声だった。
「すまん、孤舟。取れてしまった」
「そうだね、見れば分かるよ。さて、どうしようかな……」
「すみませんすみませんすみません! 私、まさかこんなことになると思ってなくて、一緒にやってみたら楽しいかもって、それだけで、水が苦手って、きっと水を顔につけるのが苦手とか、そういう、そういう類のことだと思っていて、まさか、まさか……腕が取れちゃうなんてぇぇぇっ!!」
呑気な二人と反対に、一人号泣する桃子に、孤舟は「まあ、落ち着いて」と声をかけるが、落ち着けるわけがない。
桃子は膝立ちになり、本来ならば左近の腕のあっただろう宙を、何度も撫でさするように手のひらを動かす。
「ごめんね、左近くん、痛いわよね。私、取り返しのつかないことをしてしまった」
「別に痛くないぞ」
「どうしよう、ごめんなさい、まさか左近くんが病気だったなんて」
「大丈夫だ、すぐ治る」
「そんな、治るわけない、ああ、どうしよう」
「いや、大丈夫です。本当に治りますよ。元の通りに」
「はあ?」
孤舟が左近の後を継いでそんなことを言うので、桃子は思わず、恩人にガン付け、
「何を馬鹿なことを言ってるんです! 今まで自由に使えていた手がなくなるっていうのは、本当に本当に大変なことなんですよ! 分かってますか!?」
「え? はあ……す、すみません」
「あなたもこの子の主人なら、もっと真剣に考えてください!」
と大喝してしまった。
だってそうだろう。一度取れた腕が元通りに付くぐらいだったら、父はまだ防人を続けている。たとえ縫って、形は綺麗にくっ付いたとしても、肘から折れてしまったものが元のとおりに動くはずがないのだ。
しかもこんな、地面に落ちて粉々に砕けてしまった腕、果たして縫えるかどうかすら……。と、そこまで考えて、猛烈な違和感にじっと落ちた腕を見る。
粉々だった。
まるで豆腐を乱雑に切ったように。
桃子は顔を上げて、左近の着物の袖口を見た。
腕が取れたのだから、血で赤黒く染まっていなくてはおかしい。しかしそこに、血の痕はなかった。
さらに視線を上げ、左近の顔を覗き込んだ。痛がる様子の微塵もない、平常通りの大きな瞳がそこにはあった。




