そこには狐もおりまして-②
「じゃあ、左近くん、とお呼びしますね」
「うん、これからは左近くんと呼べ! 孤舟の嫁御!」
カラッとした無邪気な笑顔に、う、と胸が痛んだ。
騙したつもりはないのだが、訂正はしておかなければならない。
「そのことなのですが……実は私、嫁に来たわけではなくてですね」
「そうなのか? なら、何しに来た。……また、左近や孤舟を打ちに来たのか」
え、と聞き返す前に、ぐ、と左近の空気が変わっていた。
まっすぐこちらを見据える大きな黒目が、きゅう、と一回り小さくなった気がする。
毛を逆立てた獣のような瞳だ。
緊張に喉が締まって二の句を継げずにいると
「おはよう、左近」
と、孤舟の声が割り込んだ。
左近の空気が、ふ、と緩まる。
「おはよう、孤舟!」
「桃子さんも、おはようございます」
「お、おはようございます」
縁側をふわりと浮きながらやってくる孤舟に、慌てて頭を下げる。
孤舟は桃子と左近の間に入り、硬質な音を立てて縁側に降り立つと、
「左近、あまり桃子さんを困らせてはいけないよ。この方は陰陽師のいざこざに巻き込まれて、ここまでやって来られた、言わば不遇な客人だ。極力近づいてはいけないし、詮索も無用。事が解決すれば、すぐにお帰りになる」
と言いつける。
「打ちに来たのではないのか」
あどけない声が訊くと、孤舟は「違うよ」と首を振る。左近は
「ならいい」
と、ふいとそっぽを向いて土を駆けて行ってしまった。
打つ……って、打つ? どういう意味?
孤舟を打つような人が、ここには来るのだろうか。
なんとなく孤舟を見れず、左近の去ったほうを眺めていると
「すみません、桃子さん。驚いたでしょう」
と、孤舟のほうから声をかけられる。
「いえ、そんな」
「あの子は俺の世話役として、ずっとここで暮らしているのですが、少し、その、変わっているのです」
「ずっと、ですか?」
「ええ。……申し訳ない、これ以上はご容赦を。あなたのことを信用していないわけではないのですが」
言葉を濁され、はたと口を抑える。
そうだった。私の見たもの聞いたもの、全部あの男に筒抜けなのだったわ。
あの後、孤舟が前脚を一つ前に突き出しながら
「術を解くのに必要なので、これは俺が預かりますね」
と言って、腕輪を持った己を宙に浮かせてどこかに持って行った。陶器の身は土でできているから、土の陰陽師である孤舟にとって、動かすのは簡単らしい。
時間がかかる、と言われたのだから、今日すぐに腕輪と縁が切れるわけもなし。
桃子は姿勢を正し、今一度頭を下げる。
「こちらこそ、申し訳ありません。軽率でした。今後は生活に必要なこと以外は、なるべく詮索しないよう気を配ります」
孤舟は少しホッとしたように、「すみません」と謝った。
「ところで腕輪ですが、昨夜、少しだけ術が解けました」
「え、もうですか?」
「本当に、少しですがね。行動制限の範囲が、わずかですが広がったと思います。この家の周りくらいなら自由に散策できるかと」
「まだ家に帰っていただけるほどではないんですが」と孤舟はすまなそうに言うが、十分である。
桃子は再度頭を下げて礼を言い、そういえば、と気になっていたことを聞いた。
「この山って、いったいどの山なんでしょう? すごい勢いで飛ばされて来たものですから、自分ではイマイチ分かっていなくて」
「ここは犬山の山頂です」
良かった、知っている山だった。
全然知らない山だったら、たとえ術を解いてもらっても、どうやって帰っていいか分からないところだった。
「桃子さんが来たほうの斜面を下れば、すぐに狐山町に出られますよ」
「良かった……犬山は三つの山の中では一番低い山ですし、帰る時にも日をまたがず済みそうで安心しました」
見知った山の名前に心の底からホッとしている桃子に、孤舟は静かに
「……そうですね。帰る場所があるのは良いことだ」
と返した。後半の言葉は小さ過ぎて、桃子の耳には入らなかった。




