旅へ
セカティアはよく日記をつけていました。彼女に孤独だと思われたことを覚えているでしょうか。記憶を過去に置いてきてしまう癖のことです。わたしがいつでも拾いに行けるようにと、日々を書き残してくれました。
しかし、彼女は教育を受けられる立場ではありませんでした。文字を読めません。ましてや書くことなどできるはずもありません。ひとつひとつを丁寧に教え、単語の綴りを覚えてもらうのには難儀しました。
紙はとても高価です。書くための本を買うのにもとても苦労しました。秘境のお宝を、それこそ身を削りながら集めました。
彼女との日々でさまざまな苦労をしましたが、千年のときでさえ、彼女との思い出を色褪せられませんでした。日記がなくとも、永遠に彼女の存在を忘れないと錯覚してしまいそうです。
わたしと神のほかに永遠など存在しません。セカティアも、不死とされるヘカティアさんも、カルアさんも、その痕跡の全てが世界から消え去ります。
……さて、カルアさんに返事を伝えましょう。しかし、思いと裏腹に三度も日はかくれました。いつわりなく言います。足がいまだに重たいです。むしろ全身に広がり、悪化しています。四肢や頭に鉛玉を垂らされています。
墓標を杖にして起き上がることはできます。しかし、杖を無くしたら立てなくなってしまいます。へたり込んでしまい、墓標にもたれかかっていました。本当に今更ながらセカティアの大きさを思い知りました。
「セカティア。やはりわたしは女々しいようです。はてしないほどの年月を生きたのに、心は幼い少女のまま。いえ、流石に言い過ぎかもしれません。あなたが恋しいです。あなたことが好きというわけではありませんよ。友人として恋しいのです。ただそれだけです」
「そういえば、あなたの好きなリコがそろそろ実る季節です。ほら、そこにも。あなたの墓標のちかくにあるということは、家族がはるか昔に植えてくれたものでしょう。まだわずかに青いですが、じきにオレンジ色ぽくなり、シャリシャリとした食感とみずみずしい甘い味わいを楽しめるようになります。あなたは少しだけ酸っぱさを感じるほうが好きと言っていましたね。わたしは甘さだけのほうが好きですよ。しかし、いまは少しだけ酸っぱいほうが好きかもしれません」
「日記をどこに隠していたのですか? 家中を探し回りました。屋根裏から床下まで。しかし、見つかりませんでしたよ。あなたが残してくれた思い出を置いていかなければならず、わずかに気持ちが落ちこんだものです」
返事は求めていません。わたしの言葉はお年寄りの独り言のようなものです。言葉はスラスラと次々に出ていきます。口達者な詩人のようにです。せっかくですから、詩人でも目指してみましょうか。
「空を彩る数多の星々よりも美しい君よ。川を渡り、華やかなる天の国に誘われし君よ。わたしはいつ川に辿り着けるのか、神に尋ねておくれ。そしてそこへ行けるのか、神に尋ねておくれ。そして願わくはわたしたちに刹那の安らぎを」
……詩人は向いていません。湧きあがる気恥ずかしさを隠さずにはいられません。誰かに聞かれていたら、それこそ身悶えずにはいられないでしょう。
さぁ、会いに行きましょう。わたしを置いて、旅に出てしまうかもしれません。日記による助言があっても彼女の旅はそう長くは持たないでしょう。
経験のない知識だけでは世界は渡れないのです。知識があればかしこく動けるかもしれません。ですが、経験がなくては想定外の事態に対処できません。多少なりそれぞれの地理になれるまでは、ガイドを必要とします。
人は経験を共有し、お互いに学びます。それこそが人の獲得した武器とも言えるでしょう。ですので、彼女は道半ばで倒れてしまう。
墓標はとても強い引力をもっています。すべてのものが、地面に貼りつけられているように、わたしも墓標に貼りつけにされています。
人はこの力にあらがい、おのれの力で立ちあがり自身の望む場所に行けるのだと、わたしは知っています。過去、多くの偉人とされる人物は進んでいました。彼らを見習わねばなりません。
それでも離れられません。本当にわかっています。脳はここから立ち去りたいと叫んでいます。
足が進むことを拒絶します。本当に離れたくないのです。もういっそのこと、ここでひそやかに過ごしていましょう。ここの居心地は案外悪くありません。優しい木々が雨風や日の光から守ってくれます。動物たちも悪さをしません。多少虫たちが悪戯をしてきますが、皆いい子です。静かに目を閉じましょう。
木々たちは雨風を凌いでくれます。しかし、荒波を起こすほどのとても大きな嵐は彼らの力では凌げず、わたしの場所まで通してしまいます。大地を抱くものたちに妨げられても挫けることを知らない嵐。
「なかなか返事を持ってこないから、衛兵に捕まったんじゃないかって心配してたのに、こんなところで何してるの!」
嵐は大きなリュックを背負い、カンカンと怒りを露わにしています。その姿、どうしてもセカティアと被ってしまいます。かつての彼女も、わたしが約束を破ったり、自分の身を傷つけたり、本当に些細な出来事でカンカンと怒りを露わにしたものです。
「こんなところというものではありませんよ。ここは墓場。あなたの目のまえにご先祖さまがいるんですよ。しかも日記を書いた人物が」
「知ってるわよ! そんなのは。日記に古い墓場について書いてあったから調べたのよ。ねぇ、だからこそあなたはここでなにをしているの? ご先祖さまの墓のまえでなにをしようというの?」
彼女の瞳は堅牢な芯があるように、とてもまっすぐです。弟の死から立ち直ったセカティアも同様の瞳をしていました。やはり彼女をセカティアと重ねてしまいます。
「なにもしようとしていません。言ってしまえば、無気力なのです。足は鉛がついたように重く、心は彼女の墓標に貼りつけられ、ゆいいつの自由である理性はすでに説得を諦めています。答えを返さずに、惰性に身を委ねるわたしに失望しましたか?」
間違いなく失望するでしょう。好奇心のままに進む彼女と、惰性で歩みを止めるわたしが対等なわけがありません。ましてや尊敬することなどありはしないでしょう。ことあるごとに止まるわたしを尊敬すると言ってくれたのはセカティアだけです。
「失望してない。私はあなたをまったくもって知らない。ご先祖さまの日記にある姿のあなたしか知らない。でもわかったこともあるの。あなたは不死だけど紛れもなくひとで、私たちとおなじ」
「その理由は、人を愛し、また悲しむことができるからですか?」
セカティアからも似たようなことを言われました。わたしは誰よりも人らしい人であると。不死の怪物ではないと。化けもの、化けものと罵られることが多く、またそれに慣れてしまっていました。なのでそう言われたときは、なかなか混乱したものです。
彼女の考えはわたしの混乱をひどく深めるばかりでした。しかし、今では案外的を射ていると思っています。ですから、わたしは自分の大切な部分を守るために、この墓標にいたのです。
「あなたは本当にセカティアのようですね。初めて会ったときの耳たぶを触る仕草から、その奔放さに、考えかたまで。あなたを見ているとわたしの大事な部分が侵食されそうです」
「そんなに似てるんだ。私とご先祖さまは。あなたの記憶を蝕むほどに。だから私が夢を語ったときに、あなたは怖じけたように後退りしていたのね。自分のなかのご先祖さまの夢が私の夢とすり替わる予感がして」
彼女がセカティアと似ていなければ、このような状態に陥ることはありませんでした。今頃にふたりで野生動物を狩り、食べていたでしょう。
しかし、彼女はあまりにも似ているのです。思い出の存在がセカティアなのか、カルアさんなのか、分からなくなってしまうほどに。
わけがわからないと思われるかもしれません。じきにわからなくなるのです。いまはもちろん大丈夫です。将来、その保証はあるのでしょうか。
たとえば、幼いころの知り合いに双子がいるとします。兄と弟は基本的におなじ行動を好むものとします。二十歳ぐらいになって、この二人を思い出したとき、はたして区別はつきますか。まったくもって差別点の少ない人間の区別はつくのでしょうか。
カルアさんの影響で、セカティアを失うことを恐れています。この感覚は若さとともに無くしたと思っていました。
「なら、あなたのために日記を残してあげる。白紙の本を買って、ご先祖さまのようにあなたのための本を作ってあげる。ご先祖さまの日記も複製してあげる。そうすれば混ざらないでしょ」
「ですが、その本もいつかは朽ちます。混ざってしまいます。わたしの永久の時のまえでは、どのようなものも朽ちてしまいます。そして、あなたがたとの記憶も朽ちるのです」
「なら、私の子供が日記をまた複製する。そして、その子供が、またその子供が。わたしたち一族があなたの記憶を繋げてあげる。ほら見て、千年近くもたったのに私は朽ちずにあなたのまえにいる。だから繋いでいけば朽ちない」
「ですが、紙などをずっと得られる保証はありません。それに子孫にそのような枷をつけるのは気が引けます」
「紙を得られないのなら作ればいい。インクも作ればいい。これから旅に出るのだからそこで学べばいいの。それに子供たちは日記を枷とは思わない。だって楽しい世界の旅を読みながら、少しずつ書いていくだけじゃない。私からしたら苦痛でもなんでもない。それにご先祖さまもそういうのが好きだったんじゃない? きっと一族特有のものよ。……もう、まどろっこしいのは嫌い! ほら行く」
セカティアのときも、こうでした。親御さんが心配すると、諦めるように説得しました。結局は強引に引きずられて旅に出たのです。
正直、抵抗せずに引きずられていますが、日記の件などについて納得していません。
「離してください。わたしはどこにも行きたくないのです。泣きますよ」
「私には案内人がいるの。それじゃあ、まずは海に行くわよ。商人が見せてくれた珊瑚なんていう石を見に行くわよ」
「あれでも彼らは生きものですよ。あと海は南の方角です。我々の進んでいる方角とは反対にあります」
「やっぱりあなたが必要ね。なにごとも先人の知恵があれば怖くないわ!」
まだ納得していません。ですが、彼女になにを言っても意味はないでしょう。時代の流れに身を任せるように流されましょう。それに、彼女のことが心配で仕方ありません。
セカティア、今回の旅はとても波乱に満ちていそうです。わたしも日記をつけるとしましょう。そう今日は記念すべき旅の出発日であること。彼女が太陽に一直線に進み、ずっと引きずられたことをひとまず大地に刻んでおきましょう。
これで一章の終わりです。二章の投稿は明後日から始めたいと思います。その至らぬ点が多いと思いますが、読んでいただきありがとうございます。
リコの実をリカの実と書いていました。不注意でした、申し訳ありません。