オンボロの宿
太陽がすがたを一片としてあらわしていないころに、幸せな世界から追い出されました。不死になってから長時間の睡眠ができなくなりました。
それを不幸とは思っていません。ただ心地のよい睡眠の途中で、無理やり起こされたような中途半端さがぬぐえません。それにわずかな不快感があるぐらいです。
しかし、いまは夢心地のようです。偽物だと分かっていますが、ともに寝た、ともに過ごした時間の充実感、どうしようもない幸福感は失われません。
さて兵士さんが来るまで、カルアさんの隣でゆっくりと微睡んでいるとしましょう。夢と現実の境界線で、意識がふわふわとして、まるで水に揺蕩うような気分もひさしぶりです。それからほどなくしてカルアさんも目を覚ましました。
「……おはようございます。いい夢を見られましたか? わたしはいい夢を見られましたので、気分がとてもいいですよ。町をめぐることが楽しみすぎて、すこしだけ早く起きてしました。その間は退屈でした」
「おはよう。私はとても微妙よ。ひとつ言いたいことがあるの。離れてくれない? ベッドふたつあるのに、どうしてわざわざ私のベッドに入りこんでくるわけ?」
「それは、落ち着くからですね。べつにあなたを彼女の代替と見ているわけではありません。心が安らぐのです」
「あんたって本当にご先祖さまが大好きね。とっとと町に出るための準備をするわよ」
彼女はわたしよりもさきにベッドから降りました。窓の隙間からの不変の太陽の光を浴びながら、うーんと体を伸ばしています。あのように寝起きの体を伸ばすと、不思議と寝ぼけた気持ちもパッチリと消えるものです。気だるかったのに一日の気力もすっかりと湧いてきて、やる気に満ちあふれてします。ひさしぶりにわたしもやってみましょうか。こう、おなかをまえに出すように体を伸ばすのです。
カルモさんが簡素な朝食を運んできてくれました。今日のカルモさんはとても上機嫌でいいことがあったのでしょう。今日はわれわれとの別れだというのに、悲しくないのでしょうか。
そのことで泣くふりをしてみました。すると、あわてたようすにで、事情を説明してくれました。どうやら彼の従兄弟のパン屋の家庭に、あたらしい命が天より降ろされたようです。じつにめでたいお話。
雑談のたしとなるようなことで喜んでいると、勝手に思っていました。べつにかれを見下しているわけではありません。しかし、かれは本当にささいなことで大事のように喜ぶのです。
たとえば、昨日のことです。かれがわれわれに昼食を届けたあとで、かれも食堂へとむかいます。そこでパンのわずかな切れはしを料理人からもらったことを、それはもう今日の祝福すべきことと同じように嬉しそうに話すのです。
カルモさんは仕事にたいしてとても真摯であり、家族や友人、町の人々を命をかけて守る気合を持っていると断言できます。それに多くのものに、深い感謝の念を忘れない気持ちもあります。きっと出世するでしょう。
そして、われわれは無事に解放されました。牢の閉鎖感と薄暗さに、わたしも存外に嫌気を感じていたようです。世界がとてもひろく感じます。はてまでつづく青い空に乾杯です。
宿へと移動していますが、意外にもカルアさんが寄り道をしたいと言いません。あれほど解放を喜んでいましたので、てっきり屋台を冷やかして回ると思っていました。セカティアならわたしの予想どおりに、厳つい店主から買う気がないのならどこかに行けと怒鳴られていたでしょう。
貝殻に色を塗り、宝石とさえ思えるほどにキラキラと光る砂浜の砂をちらしたお土産品。こちらの大陸には存在しないであろう、赤やら黄色やらのいくつもの花弁が折り重なり、祈る手のようなかたちの花。セカティアと似た彼女なら絶対に気になっているはずです。
必然的に彼女は興味を我慢しています。わたしの考え過ぎなだけかもしれません。しかし、安全安心な旅を心がけるつもりです。もしかしたら、気分が落ちこんでいるのかもしれません。できるかぎり、取り除かなければなりません。病は気からです。
……しかし、最近を振り返っても変わったことはありませんでした。普通の朝をむかえ、変哲のない話をまじえながら朝食を食べて、ここにいます。それが牢獄だったことぐらいです。それよりもまえに原因を探っても、今に至る理由は見当たりません。乱暴な手ですが好奇心をくすぐってみましょう。
「カルアさん、あの鳥さんを知っていますか。あれは海鳥の一種で、海に面した陸地付近に生息しています。魚を主食としているんですよ。その狩猟方法はとてもユニークで、じつは空から行き良いよく、海に飛びこんで、われわれが銛でつくようにするどい嘴で掴むんですよ。彼らの集まる場所は魚群があるということで、海神のように豊漁の証にもなっているんですよ。ほら、あそこの屋台。木彫りの海鳥ですよ。しかも丁寧に羽の茶黒も再現されてますよ。ご利益がありそうですね。もし……」
「あんた」
さらに言葉を発そうとしましたら、とても強い怒気のこもった声に遮られました。彼女の髪が空中に揺らめいているような、悪魔の姿を連想させるほどの威圧感。
どれが彼女の堪忍袋の線だったのかわかりません。ですが、ひとついえるのは確実に知らず知らずのうちに、虎の尾を踏んだのだけはわかります。
「人が気になるとか、もっと見ていたいとかを宿のために我慢してるのに、ペラペラと意識が向きそうなことを話して。もしかしてだけど、カルモに紹介された宿に、確実に泊まれるなんても思ってないわよね」
つまり、宿を得るまでむやみやらたに時間を使ってはいられないということです。それもそうです。
宿を確保するまで寄り道しないというのは、至極当然の理由でした。そうとは知らずに、飢えた獣のまえに餌を吊るしてしまい、なんと謝ればいいのでしょうか。
「すみません。あなたの気質から、色々なものに興味を示すと思っていました。しかし、そのような素振りを見せなかったので、心配になってしまったのです。気に病むことがあったのではないのか、痛いところがあるのではないのかと、ただわたしにはその理由が皆目検討も尽きませんでした。無神経なことを申し訳ありません」
「なら、直接聞きなさいよ。べつに心配されたからと言って、カンカンと怒るわけでもない。むしろ遠回しに聞かれるとイライラとするから単刀直入に来なさい」
「ええ、わかりました。と、どうやらカルモさんから教わった宿はここのようですね。レンガの壁が一部かけていて、木材で補修したあとも見えますし、もともと立派なものを想像していたわけではありませんが、ここで大丈夫ですか?」
「雨風を凌げれば十分よ。あんたの無駄に整った見た目から、ちょっかいをかけてくるやつなんていないわよ」
町の端っこの少々年季が入った宿屋の扉を潜ります。なかは綺麗とは言えません。しかし、不衛生なわけではなく、昼過ぎあたりですが店内は賑わっていました。
ただその客はわたしに似た容姿のウカル。それに目のしたにくっきりとしたクマが浮かんでいて、髪の毛がボサボサで小刻みに体を震わせている注意が必要そうな女性。真っ昼間からお酒に潰れる男性。貧民街を思い出すようなものたちばかりです。
カルモさんのような良い人が、このような場所を紹介するとは、やはり牢のなかでも思ったとおり、わたしのような容姿のものは泊まれる場所が少ないのでしょう。
店主のニュースさんは、童話に出てくる魔女のような鋭いとんがり鼻に、白髪で骨と皮だけの怪しげな老婆でした。
話すと意外と気さくで、無事に一部屋借りることができました。料金はかなり安く感じられる額で、カクタスさんからいただいたお金を無駄遣いせずに使っていけば、この町で一ヶ月は稼ぎがなくと生活できそうです。
かれにお金を返さなければなりません。多少なり旅の途中で稼ぐことを意識しなければいけないでしょう。
「あんた。名前はなんと言う?」
「メルルと言います」
「メルル、そうかいどこかで聞いたような気がする名前だねぇ。まぁありきたりな名前だからかね。それでほかにも名前はないのかい? あんたのような容姿で神官の道に進まなかった連中は、大体複数の名前を使ってるもんだよ。ここ数年で使ったやつでも良いよ」
「ありません。わたしはここ数年間をこの名前ひとつでやっています」
「嘘は承知しないよ。そうかい。ならとっとと上にお行き。暴れたり喧嘩をしたりするんじゃないよ。見てのとおり、ここはオンボロなんだから、簡単に底が抜けちまう。修繕費を負担するってんなら話はべつだよ。ついでに建て替えさせてもらおうか」
そういえば、ウグルが出たときの話もされました。朝食以外の食事も宿が準備し、宿代も半額になるそうです。また料理は領主からお金が出るそうで、無駄に豪華なやつを期待するといいそうです。ただ代わりに部屋から出ることはできなくなります。これは見た目からの迫害を守るのと、ウグルではない証明になったりする処置でしょう。カルアさんは自由に出入りしていいそうです。
そのあいだの糞尿は桶にしろと言れました。わたしはなにを食べても出せません。牢と同じようにカルアさんに協力してもらいましょう。
指定された部屋に入ります。外装や客のようすから部屋の心配をしていましたが、かなり綺麗です。それに三人いても、十分に使えそうなほどに広々としています。ベッドの数がひとつしかない点は傷です。その分とても大きく作られています。眠る障害になりません。
とてもグレーゾーンなこともできるように作られているのでしょうか。そういう需要を満たす場所も必要でしょう。しかしそうなりますと、カルモさんが黙っているとも思えません。ただの深読みに過ぎないでしょう。
「色々と思うことはあるけど、旅は多少の融通が効かないことのあったほうが楽しいはず。早速、町の観光を始めるわよ」
今までは広大な自然の一端を楽しむのが中心でした。しかし、これからはその自然から生まれた、とても不思議な生きものを楽しむとしましょう。
読んでいただきありがとうございました。