一人の少女
光はうっすらとした文字を照らしてくれます。文字ひとつとして流し読まずに、丁寧にゆったりとページをめくります。四百八十九ページ目を読みました。四百九十ページ目を読みましょう。ビリッと壊れてしまいました。
破れたページを凝視すると、新書なのに古本に見られる黄ばみが浮かんでいます。シミまであります。それにページに文字がありません。どうやら薄れて消えてしまったようです。
切り離された断片から本体に目を向けました。悲しいことに全てのページからも文字は消えています。本の文字はとうのむかしに消えていたのでしょう。代わりに何百と繰りかえし読み、克明に脳に刻まれた文字を読んでいたのです。
本を読むために文字をまぶたに浮かび上がらせます。しかし、浮かび上がりません。もうこの本を読むことはできないのです。
この本の物語を愛していました。全体が極めて秀逸であり、前半に配置した伏線を後半でしっかりと回収し、全体がキチンとまとめられていました。読めば読むほど物語が深まり、気がついたら日が沈んでいたことも少なくありません。
とくに好きだった場面は、そう、あの……本当に素晴らしい作品でした。優柔不断なわたしでは抜きだして語れません。
この物語はわたしの友人が丹精込めて作り上げてくれたものです。証拠に表紙の裏に彼の名前が書かれていました。サル……とにかく人徳のあるほこれる友人がいたのです。
思い出の品です。たとえ、機能を失おうとも大切に保管しておきましょう。薄暗い部屋のすみに本を運ぼうと立ち上がりました。わたしの服の袖の一部がポロポロと崩れました。驚きました。
服を改めると、ちょっとした運動や雨風で完全に機能しなくなるほどに痛んでいます。本を運ぶだけで真っ裸になるでしょう。
この洞窟は天井に丸々とした穴があり、そこから光が入ってきます。しかし、雨や風は見えない壁に遮られているのか入ってこれません。本をこのまま放置しても問題ないでしょう。
町からも遠く離れています。そっとひとりで過ごすのに本当に最適な場所で、わたしの家と言っても過言ではありません。
じつはともに住んでいる家族がいます。しかし、人ではありません。小さな可愛らしい小鳥さんです。伝書鳩が愛玩用に交配させられた種で、とても人に懐きやすいです。わたしのもとか、この家に必ず戻ってきます。今はどうやら出かけているみたいです。ミミズを食べているのでしょう。
町へと本を買いに行くつもりです。彼も連れていきましょう。満腹で気分良く帰ってきたら、飼い主がおらずに困ってしまうはずです。ピィピィと寂しくて泣いてしまうでしょう。彼に申し訳が立ちません。
彼の泣く姿を見てみたい醜悪な気持ちがあります。可愛い子ほどいじめてしまいたくなるものです。そこまで非道ではありません。待つとしましょう。
彼は帰ってきませんでした。本の虫に愛想を尽かしてしまったのでしょう。仕方ありません。彼を忘れて外に出ましょう。賢い彼のことです。つがいを見つけて生を謳歌しているはずです。
と、金のネックレスを忘れるところでした。誰に貰ったのかは覚えていません。しかし、とても大切です。出かける際は首元に下げます。ネックレスを拾うときに、パキッと白い枝のようなものを踏み潰しました。
洞窟の外にはうつくしい森が広がっています。動植物がお互いに作用し合い、命と死の歪みのない循環が構築されています。わたしはそれが大好きです。早く見たいと、ウキウキとした気持ちが胸にあふれます。
ですが、そのような感情を抱いているときは大体ロクな目に遭いません。今回も例外ではありませんでした。洞窟の外はさびしい風景に変わっていました。
生いしげる草花の影はありません。また力強く根をはり、圧倒されてしまいそうな生命力をもっていた木々は、老人の手のようにしおれています。
それらを支えていた肥沃な土地は、乾燥してめくれています。もはや森とは言えず砂漠のようです。森が砂漠になるとは珍しい現象です。
これはこれで命の世界とは異なったおもむきがあります。しおれた木々が点々と存在する退廃的な光景は胸をくすぐります。しかし、殺風景に変わりはありません。
町の方角へのそのそと歩きます。退屈で仕方ありません。命の華やかさに触れられれば、想像力が掻き立てられますが、はてまで茶色一色ではなにを思えばよいのでしょうか。これだけで数時間も語れる詩人がいるのなら、尊敬のあまりに永遠の師と仰いでしまいます。
とても冴えた名案を思いつきました。楽しい思い出で退屈をまぎらわせるとしましょう。砂漠の思い出にしましょう。
……記憶がありません。おぼろげに残ってはいます。しかし、多くが白紙と差しつかえありません。故意に全てをわすれようとしていません。気がついたら細かい部分を忘れてしまいます。残るのは大雑把な記憶のみ。
本もそうです。貰いものと覚えていても、名前、内容、本の内部を忘れてしまいます。あまりにも長い年月がそうさせるのです。お気づきかもしれません。わたしは不死です。
老いず、死なずの不死です。たとえ、海の底で圧力につぶされたとしても。たとえ、溶岩のたぎる火口に放りこまれたとしても。たとえ、首を落とされても。たとえ、骨の芯まで焼かれようが死にません。
記憶はチャプチャプと器からごぼれます。普通ならば記憶がこぼれるまえに死ねます。あいにくとわたしは死ねません。わたしにはどれだけの友人がいたでしょうか。わかりません。人としての感情、想いも一緒に消えればどれだけしあわせなのでしょうか。想像すらもできません。
誤解しないでください。寂しいとは感じていません。友人がいたこと自体を忘れてしまうのですから。孤独にも苛まれていません。覚えている友人にそう勘違いされてしまったので、先に忠告しておきました。
……そうです！ わたしにはまだ覚えている友人がいました。不思議と彼女については多くを覚えています。
まず、彼女の名前はセカティア。こころの優しい奔放な普通の町娘でした。毎日ごく普通の茶色く硬いパンとスープにありつける、裕福でも貧しくもない家の生まれです。
容姿はごくごく普通でした。腰まで伸びた茶髪を後ろでまとめ、目の色も茶色。顔立ちも町を歩けば似たような人物がなんにんもいるていどです。
彼女と知り合ったのはたまたまでした。あの住み心地のよい洞窟を見つけられておらず、町の裏路地で浮浪者として寝泊まりしていたときです。近くから少女の泣き声が聞こえてきました。
声のする場所でセカティアはメソメソと泣いていました。弟が流行病に感染して死んでしまったのです。それを話す間もワンワンと泣き続けていました。当時からつねに暇でしたので、泣き終わるまでそばに寄りそいました。
同情ではありません。長い生のなかで彼女のような人間を大勢見てきました。しかし、彼女はほっておけなかったのです。
どうでしょう。わたしも、彼女も、お互いに親近感を抱いたのです。そこから交流は始まりました。
彼女との思い出はどれも楽しすぎて、本当に悩んでしまいます。編みものをお互いにプレゼントしたこと。高価な豚肉をふんだんにしようした豪勢な料理を味わったこと。広大な世界を旅したこと。その道中で荒々しい人々に捕まってしまったこと。
くだらない話から、お互いの胸に秘めておくべきものまで、本当に全てが輝かしい宝石のようです。また彼女が寝ぼけて、わたしを甘噛みしてきたことも幸福のひとつです。
魔法という力を教えたこともあります。うまく扱えず、水でびしょ濡れになったり、家が燃えかけてあわや大惨事に発展しかけたこともあります。
魔法が一般に漏れないように収拾に励みました。魔法は便利な反面、人を容易に殺せる危険な力です。あまりおおやけにして良いものではありません。
彼女も決して悪気があったわけではありません。そのたびに本当に具合が悪そうで、こちらまで申し訳なくなりました。
……そういえば、彼女と砂漠に来たことがあります。ふと思い出しました。歩き慣れない砂場に苦労していました。それに好奇心旺盛な子供のようにサボテンに触れて、痛い痛いと泣いていました。
夢中で彼女を起点としてよみがえる記憶を漁っていると、地面の穴から可愛らしい蛇さんが顔を出していました。
見えている部分から推測するに、全身の色はきっと赤みを帯びた茶色でまとまっているはずです。近づきますと引っ込んでしまいました。シャイな蛇さんです。
近づくと蛇さんは飛びかかってきました。驚くことにその全長はわたしの三倍近くもあり、ペロリと食べられてしまいました。
