上
ロヴィスタは祖母から、シキビルドで毎年同じ時期に花を咲かせる魔樹の話をいつも眩しい思いで聞いていた。木全体が薄い紫色の花でいっぱいになり、あっという間に散ってしまうという。
(それはどんなに美しく儚いのだろう)
ついにその花を見ることができたその日、ロヴィスタは花の下で言われた。
「こんなに綺麗な黒い髪は初めて見ました」
そう言う少年はとても澄んだ青い目をしていて、声変わりもしていないその声は高く清らかだった。七つ年下の彼の純粋さは、汚濁にまみれた世界で生きるロヴィスタには、息が止まるほど眩しく、今でもなお心が震える。
ロヴィスタが生まれた家は古くから商いを営む特権階級で、ウーメンハンではそれなりに影響力のある一族だった。小国シキビルドとの取引は、これまでの何倍も利益が膨れ上がっていた。闇で行っていた人身売買と依存性の高い薬がシキビルド王により合法となったためだ。そんな時に事件は起こる。
──国家の転覆を狙っているという罪で一族が捕縛され処刑されたのだ。
ロヴィスタは学生で学校にいたため免れた。免れたが、行く当てがない。ウーメンハンに帰国すれば家族と同様捕縛され処刑されるだけだ。
そんな時だ。復讐しないかー? と軽い感じで誘われる。ロヴィスタの祖母の実家であるワイルーン家の惣領ケトレストからだった。学校を卒業したものの全く行く当てのなかった彼女は、シキビルドに亡命し諜報員として生きることを決めた。
色素の薄い人間が多いシキビルドで、ロヴィスタの黒い髪はとても目立った。
(この髪では諜報員は無理だなー。染めるか)
念願だったシキビルドの魔樹の花を見ながら、ロヴィスタはそう思っていた。
薄い紫色の花びらが次々と散り、空を舞う。木には葉も実もなく花だけだ。木全体が薄い紫色に霞んで見える。この古木はワイルーン家の庭に一本だけ立っていた。
ロヴィスタは夢ごこちで木を見上げ、舞う花びらを手の平で捕まえた。彼女は上手くいったと、にやけていた。
その時、高く清らかな声が彼女の耳に届く。
「こんにちは。ロヴィスタですか?」
そう言う少年の赤茶色のくせ毛は、風でフワフワ揺れている。惣領ケトレストの息子スリンケットだ。ロヴィスタは大きく頷いた。彼は頬を赤く染めながら言った。
「こんなに綺麗な黒い髪は初めて見ました」
彼の青く澄んだ目が、ロヴィスタを見つめた。彼女の心は囚われてしまう。
(すっごく可愛い。とっても可愛い)
彼女はにやけそうな顔に気合を入れて、落ち着きのある大人の女性に見えるよう上品に微笑む。
「私の国では黒い髪は一般的なんですよ」
「そうなのですか? ではみんなあなたのように綺麗なのですね」
そうにっこり笑うスリンケットに、ロヴィスタはもう一度打ち震える。彼に仕えるのは悪くない。いや大歓迎。そういう邪念を必死に隠して、ロヴィスタは彼に優しく微笑んだ。
シキビルドの子供たちは色素が薄く顔立ちが良いので商品価値が高い。ワイルーン家は人身売買、特に性奴隷で莫大な利益を上げていた。ロヴィスタを誘ったケトレストという御仁は、その家の惣領だ。
(でも、このおじさんは嫌いじゃない)
そうロヴィスタは思っていた。彼は自分の国が本当に大好きだ。シキビルドの王は人身売買と依存性の強い薬の売買を合法化し、民を犠牲にして税収を増やす人間だ。その王とケトレストは結託して世界中で売買を行っている。しかし、その裏で彼はせっせと追い落とすための証拠固めと王の協力関係にある人間を洗い出しをしていた。
ケトレストが王を欺いていることはロヴィスタ以外誰も知らない。だから息子のスリンケットも、自分の父が人身売買で利益を上げることを心底楽しんでいる卑しい人間だと思っている。二人の親子関係は最悪だった。
「スリンケット。学校が始まるな。準備はどうだ?」
「……」
ケトレストは食事中に、今年から寄宿学校へ向かう自分の息子に声をかけるが、スリンケットは目も合わせず小さく頷くだけだった。
(旦那様ー!! いろいろ失敗してます)
ロヴィスタは心の中の大騒ぎを隠しながら、澄ました顔で二人の給仕をしていた。二人の席が離れ過ぎなのだ。長い机の端っこと端っこに座って、心が伝わるわけがない。
(まあ……仕方ないか)
ロヴィスタは小さく息を吐いた。
寒々しいまま食事は終わる。ロヴィスタは片づけを終え、スリンケットの部屋へ向かった。
スリンケットは疲れた顔で、寝台に横たわっていた。ロヴィスタは小さく笑い、彼に声をかけた。
「若。お疲れですね」
「疲れたよ。ロヴィ」
スリンケットはむくっと起き上がり、不服そうにロヴィスタの顔を見た。
「ロヴィが言うから、久しぶりに父上と食事したけど、意味あったの?」
「ありますよ。旦那様は若が学校に行ってしまうのを寂しく思っています」
「とてもそうは思えない。父上が僕の事何て言ってるか知ってるんだよ?」
スリンケットは頬を膨らませて、ロヴィスタに抗議する。そんな姿も彼女にはとても可愛い。優しく微笑みながら、静かに言う。
「口に出すことがすべて本当の事とは限りませんから」
「……それは分かっている」
スリンケットは少し目線を下げ、呟くように言った。ロヴィスタは彼の仕草に目尻が下がってしまう。彼女はすぐに顔を元に戻し落ち着いた顔で言う。
「能力のこと、決して外には漏らさぬようお気を付けください」
スリンケットは緊張した表情になり頷いた。彼には強い能力が宿っている。真実を見通す能力だ。ケトレストが彼と距離をとるのは、王を欺いているという真実を見抜かれないためだった。
十一歳になると特権階級の子女は寄宿学校へ行く。
入学のお祝いは家族から耳飾りや指輪が贈られるのが普通だ。単に装飾品というわけでなく音声伝達相互システムという通信魔法機械の素材になる。一生身に着けるものなので、親がその時に用意できる一番良いものを贈る。
「若」
ロヴィスタの声にスリンケットが顔を上げる。彼女は手の平よりもさらに小さな木箱を、彼の手に渡す。
「こちらを学校にお持ちください。旦那様よりご入学のお祝いです」
スリンケットは問うようにロヴィスタを見つめる。彼女が頷くの見ると彼は箱を開けた。中身は一つだけ。薄い紫色の石がはめられた小さな耳装身具だった。この石には苦しみを安らげる作用がある。彼は何か感じたのかじっと見つめていた。ロヴィスタは言う。
「亡きお母様の石を、旦那様にお借りして私が作りました」
いくつかあった石の中から薄紫色を選んだ理由は、完全に彼女の趣味である。
(私が好きな魔樹の花の色なんだ。ふふふ。これぞ側人の特権。男の子には暗い色が選ばれがちだけど、私の若に暗い色は似合わないよー)
ロヴィスタは、赤茶色の髪と青い目のスリンケットにとても似合うと思ったのだ。ずっと彼女をじっと見ていたスリンケットに気づき、彼女は締まりのない顔に気合を入れる。
スリンケットは戸惑ったように言う。
「これ、どうやって……」
「耳に穴をあけて、ここの金具を通して止めます」
スリンケットは手に乗せた装身具を見つめたまま固まっている。ロヴィスタは首を傾げる。そして少し考えて、自分の頬を指で弾きながら言った。
「穴開けるの怖いですか?」
スリンケットの肩がピクリと動く。ロヴィスタは気楽な口調で言う。
「音声伝達相互システム作る講義で、みんなでワイワイ開けるから大丈夫ですよ~」
「ロヴィに開けてもらったらダメ?」
スリンケットは彼女に涙目で言った。それを見たロヴィスタの茶色の目が光を放つ。彼女の中で何かが爆発した。
(いいんですか────!! 若に初めて穴を開ける女になってしまって!!)
彼女の妄想は暴走を始める。ロヴィスタは自分のいかがわしい顔が彼に見えないようにするため、急ぎ部屋の扉へ向かいながらスリンケットに言った。
「旦那様の了解もらって、穴開ける器具借りてきますね──!!」
「旦那様────!! 私、若の初めての女になります」
ロヴィスタは一応扉を開ける合図はした。でもほぼ同じタイミングで扉を開け、完全に閉めた瞬間、ケトレストに言い放っていた。ケトレストは不意打ちと彼女の言葉に、あんぐり口を開けたままだ。息の粗い彼女を見ながら、小さく息を吐いた。
「何がどうなって、そうなった」
「私に若の耳に穴を開ける許可を!!」
「……そういう意味ね」
ケトレストが顔をポリポリ掻きながら言う。その間にもロヴィスタは彼の引き出しを物色して、穴を開ける器具を見つけ、よっしゃ! と呟いている。ケトレストは言う。
「まあ、いいんだけどさ……」
「許可を頂きありがとうございます」
ロヴィスタは丁寧に挨拶をしたあと、手早く部屋を後にする。
「あっ。おい……」
バタンと扉は閉められた。
スリンケットは大人しく椅子に座り、ロヴィスタが用意するのを待っている。彼女は鏡を彼に持たせながら言う。
「耳のどの辺がよろしいでしょうか」
スリンケットは耳の上の方を指さす。彼はあまり目立たないようにしたいようだ。ロヴィスタは妄想暴走中につき、心の中でにんまりしていた。
(好きですよ。そういうの。本当に着けてるかどうかは、髪をかき上げないと分からない……)
ロヴィスタは位置の確認をして、器具を作動させた。
カチン
あっさりと終わる。終わったのだが、ロヴィスタはなぜか体がもぞもぞした。男女のアレコレを思わせる感覚だ。
(こ、これはヤバい)
ロヴィスタは片手で顔を押さえ、スリンケットの視界から消える努力をする。どうやっても顔が赤らんでくるのだ。
スリンケットは鏡で穴の位置を見ながら、そんなに痛くは無いなと呟いていた。彼の耳に穴が塞がらないよう器具が付いている。側人の仕事をしなければならない、とロヴィスタは踏ん張る。
「後からじわじわ痛みが来るんですよ。しばらく触らないようにしてください」
「まだ耳飾り付けたらダメ?」
スリンケットが上目遣いで彼女を見上げる。こんなことすら、彼女の気持ちを高ぶらせる。
「はい。……落ち着いた頃に来ますので、それまで部屋でお待ちください」
落ち着いた頃というのは、もちろん痛みがではない。ロヴィスタがということだ。猛烈な勢いでロヴィスタは片付けると部屋を出て、自室に避難する。ロヴィスタはようやく気付いた。
(これ、やっちゃいけないやつだ)
スリンケットとは距離的には離れているのに、まだ側にいるように感じられる。顔のほてりは治まらない。潔い彼女はこの幸せをしばし味わうことに決めた。
ケトレストは、パートンハド家の話をよくする。同じくシキビルド王に対抗している家で共に戦う同志だからだ。でもそれ以上に気になって気になってしょうがないのが一番の理由だと、ロヴィスタは思っている。そんなケトレストの話に今日も話に付き合う。
ケトレストは元気にパートンハド家の息子の悪口を言った。
「アナトーリーは何をやってる?! 国外に逃げたり帰ってきたり、何がしたいのか分からん」
ロヴィスタは美味しい食事をパクパク食べながら言う。
「理由があるんじゃないですか? 姉のルリアンナ様のお考えだと思いますよ?」
ケトレストはむむっと顔をしかめる。
「私はルリアンナが好きではない。何を考えているのか分からん。やり方も王に似て陰湿になった。もうおかしくなってきているんじゃないかとも思う」
「そうですか? とてもいい手を打つじゃないですか。私は好きですよ。綺麗だし」
そう言いながらロヴィスタは自分のご飯をよそる。人払いをしているので、全部自分でやるしかない。ちなみに今、周りからは二人はいかがわしい事をしていると思われている。ロヴィスタは息子スリンケットの側人にして、その父ケトレストの愛人という肩書だからだ。
(でもこのおじさん。男女のアレコレが好きじゃないらしく、楽ちんです)
ロヴィスタはそう思いながら、ケトレストのお代わりもよそりながら言う。
「……それで惣領のご加減はいかがなんですか?」
「ノエルは悪くなるばかりだ。よく執務できるな、と思う」
ケトレストの口が急に重くなった。ノエルというのはパートンハド家の惣領ノエラントールのことで、ケトレストの大事な親友である。
(事実上シキビルドを支えてる人だから、倒れられると困るよ)
ロヴィスタは沈んだ気持ちで、食事の片付けに入る。ケトレストがまだ話したそうにしているのは、気づかないふりをする。そろそろ側人たちが様子を見に来る時間だ。ケトレストは家でも陰湿な欲深い男を演じている。こんなふざけた会話は盗聴防止の陣を引いていても、見られないにこしたことはない。
パートンハド家への訪問理由は主に情報交換だ。真正面から王と敵対している家なので、こっそりロヴィスタだけが向かう。今回はノエラントールの娘ルリアンナと会うことになった。父親によく似たさらさらの銀髪に青い目の美しい顔立ちの女性だ。
(相変わらず綺麗な方だけど、何か顔色が……)
ロヴィスタは少し心配しながら、打ち合わせを終える。すると、何の合図もなく黒髪の整った顔立ちの少女が部屋に入ってきた。彼女はロヴィスタを見て、そしてルリアンナを見て固まった。ルリアンナは責めるように名前を呼ぶ。
「ユーリ」
「し、失礼いたしました」
急いで出ようとする表情の硬い彼女に、ルリアンナはため息をついて名乗るように言う。黒髪の少女は姿勢を正し、見事な所作で挨拶をする。
「ユーリグゼナです。お話し中、大変失礼いたしました」
一連の様子をみて、ロヴィスタは息苦しくなる。
(ルリアンナ様、ちょっとピリピリし過ぎです……)
ロヴィスタはパートンハド家の様子が少し変わったように見えていた。ノエラントールの具合が本当に悪いのだろう、と彼女は推測する。挨拶した後、顔が強ばっていたユーリグゼナに声をかけた。
「私はロヴィスタ。ちょうど話は終わったところよ。あなたの髪も黒いのね。私と一緒だわ」
そうロヴィスタが言うとユーリグゼナは目を丸くして、自分の髪を見た後にっこり笑う。
(笑った顔がノエル様に似てる)
彼女の祖父を思い、ロヴィスタも微笑む。するとユーリグゼナは今度はロヴィスタをじっと見つめて呟くように言った。
「どうして靴下が片っぽなの?」
ロヴィスタはあまりの意味不明さに思わずあんぐり口を開ける。ルリアンナは鋭く言った。
「ユーリ。止めなさい」
ユーリグゼナはハッとした顔になり、徐々に目がジワリと潤んでくる。「ごめんなさい」と謝る声が震えている。ルリアンナは立ち上がり、娘とロヴィスタの間に入る。
「本当に申し訳ございません。能力がまだ不安定なのです。お許しください」
深くお詫びをするルリアンナに、ロヴィスタはかえって緊張が高まり、息が詰まりそうだ。
(だ、誰か助けて!! すっごくいたたまれないよう)
彼女が心の中で叫んだ時、また何の合図もなく扉が開かれる。小汚い男が二人入ってきた。
「ベルン。また扉の合図忘れてる!」
「ああ。ごめんごめん」
一人は黒髪黒目だ。緊張感の無い顔で謝る。この男がユーリグゼナと同じ黒い色合いなことにロヴィスタは気づいた。もう一人は薄い茶色のやわらかそうな髪に濃い紺色の目で、どこかで見た顔だった。
(アナトーリーだ……。相変わらず緩い顔してんなあ)
アナトーリーはノエラントールの末息子だ。これはさぞかしルリアンナも機嫌が悪くなるだろうと、ロヴィスタは思った。だが、ルリアンナを見ると予想と違い呆けた顔で二人を見ていた。そして、
(おっと?!)
ロヴィスタは思わず目を見開き見入ってしまう。黒髪の男がルリアンナに近づき、ひょいっと抱き上げてしまった。ルリアンナが一瞬ハッとした顔をして、小さな声で男に何か言った。
「また約束破ったね。寝る時間はきちんとって言ったのに」
黒髪の男は彼女を見つめながら、少しきつい表情で言う。でも声にはどこか労わるような温かなものが感じられる。
「……妻を休ませたい。失礼してもいいかな」
切なげにルリアンナを抱えた男がロヴィスタに許可を乞う。ロヴィスタは、こくこくと何度も頷いてしまった。二人はロヴィスタに会釈して部屋を出て行く。
(氷姫と言われたルリアンナ様があんな普通の男にねー)
ただ普通の男というわけでもなかった。彼が入ってきてから確実に空気が変わった。今までと違い居心地のいい優しい雰囲気になっていた。
ロヴィスタは部屋の隅でぼんやりしているアナトーリーを見て、眉間にしわを寄せる。彼の事は学生の頃から見知っている。
(一番役に立ってないのはこいつだな。とても三つ上とは思えん)
ロヴィスタはユーリグゼナの様子を伺う。少し頬が緩んだように見えるが、やはり表情が硬い。気になったロヴィスタは彼女に聞く。
「ルリアンナ様の事怖い?」
ユーリグゼナは頷く。彼女の素直な反応に、ちょっと笑ってロヴィスタは重ねて聞く。
「嫌い?」
「ううん。大好き」
「そっか」
ロヴィスタが笑って言うと、ユーリグゼナは、はにかみながら言った。
「母様が抱きしめてくれると、心がほわっとするの」
そう幸せそうに言うユーリグゼナのあどけない顔に、ロヴィスタは心が温かくなった。彼女は目尻を下げ優しく、そっか、とつぶやいた。
コンコンコン
今度は扉の合図があり、さっきの黒髪の男が戻ってきた。手に抱えていた弦楽器を椅子の上に置く。ロヴィスタの視線を感じてニッコリ笑う。そして膝をつくと両手を伸ばし、ユーリグゼナに優しく言った。
『悠里。ただいま』
それを聞くとユーリグゼナは途端に泣きそうな顔になった。走って男に飛びつく。男は彼女を受け留めぎゅっと抱きしめ、抱き上げた。二人はしばらくそうしていた。
ロヴィスタは心の中に生まれた疑問を言うかどうか悩み、唇を軽く噛んでいた。するとアナトーリーが言った。
「ベルン。言葉が……」
ベルンは娘を抱きしめ、目をつぶったたまま言う。
「大丈夫だよ。ロヴィちゃんは知ってるからね。僕がこの世界の人間じゃないって」
ロヴィスタはその言葉を聞いて、片方の頬が少しひきつる。
(ちゃん付けも、重要情報ただ漏れしそうな感じもちょっと……)
ベルンは娘の表情が明るくなったのを確認すると、彼女を腕から下ろす。そして引き気味のロヴィスタに何の戸惑いもなく言う。
「ロヴィちゃんは魔樹の花が好きだと聞きました」
「は、はい」
どこから聞いたのかと訝しんで、ロヴィスタの目が細くなる。
「ケトレストの息子さんに花の色の耳飾り贈るなんて、本当に素敵です」
嫌みなくさらりとベルンは言う。椅子に置いてあった弦楽器を手に取り、音をとりながらアナトーリーを見た。アナトーリーが思案顔になる。
「あんまりこの楽器に合わない」
「いいんだ。今できる一番の演奏なら。ロヴィちゃんが好きな魔樹に似た『さくら』の曲を弾こう。十曲」
「え?!」
目を見開くアナトーリーにベルンが黒い目を細めて言う。
「分かってるんだろう? 少し不在にした間に邸宅が酷い空気だ。できる事は全部やりたい」
アナトーリーは小さく笑い、了承の意味だろう、自分の楽器音合わせを始める。ロヴィスタは少し顔を歪めた。
(何だかよく分からないけど、私帰っちゃいけないんだろーな)
ロヴィスタの目にワイルーン家の机の上に書類が積まれている情景が浮かんでくる。思わず茶色の目を細めていると、ユーリグゼナが心配そうにロヴィスタを見ていた。ロヴィスタは自分の席の隣をポンポンと叩く。彼女は黒曜石のような黒い目をキラキラさせて隣に座った。
ロヴィスタが帰るときには夜になっていた。演奏のせいなのか、少し元気を取り戻したルリアンナとノエラントールも加わり、そのまま食事をする羽目になる。
ロヴィスタは帰路をたどりながら鼻歌を歌っていた。
(とても良かった。花の歌全部。特に……)
彼女は思い出しながら少し眠くなる。実は少々酒気帯びである。
(何だか、若に会いたくなる。学校上手くやって……るんだろうな。若は。人付き合い上手いし)
この後一年でパートンハド家は事実上終わる。惣領のノエラントールが処刑され、ベルンとルリアンナは行方不明。すべて王が関与していた。アナトーリーは中規模国ペルテノーラへ亡命。ユーリグゼナが一人シキビルド国内に残される。
ノエラントールの処刑の報告を受けたケトレストの嘆きは凄まじかった。ロヴィスタも他人事ではない、と感じる。
(ワイルーン家だけが無事なわけがない)
ノエラントールの処刑は事実上、シキビルド王のなぶり殺しだった。ケトレストは怒りが治まらない。
「あの王はすぐにでも殺しておくべきだった……」
「旦那様。落ち着いてください。若の事を考えてください。今、シキビルド国内の治安が一気に悪くなっています。若を学校にできるだけ長く滞在させましょう。側人も腕利きのものを手配してください。それに……。若の秘密が漏れないようにどうか」
ロヴィスタはケトレストに深く頭を下げる。それを見てケトレストは大きなため息をつき、ロヴィスタの頭を撫でた。
「……分かってる。スリンケットの能力は強すぎる。まだ12歳で俺の力を遥かに凌ぐ真実を見通す目など、悪用されるか消されるかのどちらかだ。今本人はどう思ってるんだ」
「気づいています。黙っていた方が良いことも分かっています。若は賢いので。でもどのような状況下なのか説明が必要です」
ロヴィスタの目線で意図したことに気づいたケトレストは、目をそらす。
「無理だ」
「なぜですか。人身売買のことも旦那様が把握しているから抑えられているんだって、全部説明すればいいじゃないですか」
「いやだ」
「なんなんですか……」
「説明しても、事実は変わらん。優しいあいつが悩むくらいなら、俺が悪者でいい。能力はもうあいつの方が上だ。嘘がつけない」
ケトレストの言い分にロヴィスタは深くため息をつく。
(まったくこのおじさんは……。確かにその通り。でも私は若が父親を勘違いして憎んでいたことに、傷つくと思うんだけど)
彼女なりの想いがあるように、ケトレストにも想いがあるのだ。ロヴィスタは強く願い、迷いながらもとうとう口にしようとしていることがあった。
「あと、その……。お願いがあります」
ロヴィスタは下を向きながら言う。いつもの様子と違うことに気づいたケトレストは、じっと彼女を見る。
「何だ?」
「若の『先達の妙技』のお相手に立候補いたします!!」
「はあ?!」
ケトレストは呆れた声を出した。先達の妙技とはつまり夜伽の方法の伝授である。王や惣領は必須。他でも特権階級は男の跡継ぎを中心に13歳、14歳くらいから学び始める。婚姻の際、失敗することは相手に失礼になると考えられているためだ。
「あいつ学びたいと思ってないと思うぞ」
「そうでしょうね」
「なぜ学ばせたいと思うんだ?」
ロヴィスタは拳を固く握り、真っ直ぐにケトレストを見た。
「家の中で性が商品になってる環境です。多分、若は自分の性にも否定的だと思います。私は若にはまっすぐ育ってもらいたいのです!!」
ケトレストは真剣なロヴィスタの様子を見て少し笑った。
「あいつが良いって言ったら許可する」
「分かりました。若がもし了承してくださいましたら、妙技の確認をお願いしたく……」
妙技の確認とは、子供に教える手ほどきを具体的に行い、親に確認してもらうということだった。
「まてまて。それはちょっと……」
「? なんですか?」
食い気味に話をまとめようとしたロヴィスタだったが、ケトレストは押しとどめる。
「実地の確認はいい。紙に書いて渡す」
「は?」
ケトレストはロヴィスタから目を逸らし、控え気味の声で言った。
「俺、ちょん切っちゃったんだよ」
「へ?!」
「だからあいつに言っといて。俺切っちゃってできないから、ロヴィスタが愛人なんて事実無根だって」
「何でそんなこと、私が若に言わないといけないんですかー!!」
ロヴィスタは涙目になる。絶対にそんな説明をスリンケットにしたくない。いや出来ない。そう思う彼女は、ケトレストが殴りたくなり手に力がこもる。勢いが止まらないロヴィスタは言う。
「そもそもなんで、そんな男らしいことしちゃったんですか?」
「男じゃなくなった話なんだが、意味わかってるか?」
「分かってますよ。もしかして贖罪のような気持ちですか」
家業になってしまった人身売買。売買する薬。それらは確実に性的暴力を生み出し人々を苦しめ続けている。ロヴィスタの率直な質問を、ケトレストはきちんと受け止め言う。
「……ああ。そうだよ」
「自虐」
「その通り。別に誰一人助けられないけど、何かちょっと楽になった」
「……やっぱり旦那様、男らしいです!」
「あっそ」
中編に続きます。