③ピタとおにーちゃん。
「……っと、これでおしまいかな?」
ピタはそう言いながら熊肉に塩を振り、布で包んで網に載せました。こうして余分な水分や血を出して臭みを抜き、食べる時まで陶器の器に入れて保管します。食べる際には薄い塩水に浸して適度に塩抜きし、加熱して食べるそうです。柔らかく煮込んでシチューにするのがお勧めだそうですよ?
……と、氷室を閉ざす為に入り口に閂を掛けて、重石を置いてから身体を伸ばし、うーんと呻きながら顔をタオルで拭いたおにーちゃんが、外から家へと戻ってきました。
「ういぃ……疲れたぜ……それに氷室冷たいから背中が痛くなっちまった……」
扉を閉めて室内に入り、やっと一心地ついたおにーちゃん。コキコキと首を回しながら戻ってきた彼が一番最初にその異変に気付いたのは、他ならぬ【匂い】でした。
おにーちゃんとピタ、それにお母さんの三人は全員コボルト。血筋の濃い薄いと言った違いは有るにせよ、みんなお互いに【匂い】で認識し合っているのですが、今この瞬間、彼は今までと違う【匂い】を感じ取ったのです。
たとえばお母さんの場合は《毛皮と鉄、それと焦げた葉の微かな匂い》で認識してきました。家に居る時は狩りの際以外は持たなくても、長い放浪生活の中で鉄の矢尻と焚き火の匂い、それとたまーに吸ってる煙草の匂いは消えたりしません。
次に自分なら《濃い毛皮と薄い鉄、それと薄い鳥の羽毛の匂い》として覚えています。初めの二つは二人より濃いコボルトとしての特質と、良く使うナイフの匂い。そして後のは愛用の布団の匂いだったりします。そこら辺は長く嗅ぎ慣れた匂いだから、でしょうかね?
……しかし、ピタの匂いは今までなら《薄い毛皮と濃い薬草、それと薄い鳥の羽毛の匂い》だったのですが……それが、何か違う匂いが加わったように感じてしまうのです。何故か花畑を連想するような【甘く惹き付けられる匂い】がして、胸がギュッと締め付けられて堪らなくなったのでした。
(……おっかしいなぁ……まだ花は咲いてねぇし、ピタはずーっと家に居たし……それにしても、何なんだ?)
部屋の中にはお肉と塩の匂いが満ちていて、これに香辛料や野菜の匂いが混じれば直ぐにお腹にズシンと響く美味しそうなモノに感じられるんですが……今日は、全然感じ取れません。
首を捻りながら困惑していたおにーちゃんでしたが、フンフンと鼻歌を歌いながら最後の熊肉を仕上げていたピタが振り向いた瞬間、謎が解けました。
キラキラと輝く少し短い金色の髪の毛をフワリと回し、大きくて表情豊かな顔立ちにピッタリな大きな目、それに長い睫毛と髪の毛と同じ金色の瞳……いつもは子供だ何だと囃していた筈のピタだったのに、今日の彼女の髪は台所の窓から射し込む日の光に照らされて更に光輝き、まるで神の使いのように眩しかったのです。
「ん? おにーちゃん、どーしたのかな?」
「……んぁ!? い、いや別になんでもねーよ……」
少しだけ首を傾けながら、不思議そうにしているピタでしたが、彼女の顔をまともに見れなくなってしまったおにーちゃんは、気まずく感じながらテーブル脇の椅子に腰掛けました。
(フンフン、ンン~♪……あ、これにはスパイスを擦り込んでおこうかな?)
楽しそうに鼻歌を歌いながら、ピタは背伸びして棚から香辛料の箱を取り出し、瓶に詰まったスパイスを擂り鉢に入れてゴリゴリと粉にしています。でも、そんな仕草の一つ一つが何故か新鮮に見え、おにーちゃんは思わず見入ってしまうのです。
「……どーしたのかな? さっきからずーっとこっちばっかり見て……何かあったのかな?」
「いっ!? い、いや……あ、足の調子も良さそうで良かったなぁ、ってさ……あ、アハハハ……」
「うん? そう見えるかな? 確かに前よりしっかり力が入って動くようになったかも……かな?」
気付けば逆にピタに見つめられていて、慌てて話を継ごうと目にしたままの感想を言ったおにーちゃんでしたが、ピタはそんな気持ちを知ってか知らずか、機嫌良さげに尻尾を揺らしつつ動かし難かった左足を軸にして、少しだけふらつきながらもクルリと一回転して見せたのです。
「そ、そうみたいだな! あー、良かったなぁ~! うんうん、良かった良かった!! あ、アハハハァ……」
「……何だか、おにーちゃんいつもと違うんじゃないかな?」
手にしていたお玉で口元を隠しつつ、疑わしげにジーッとおにーちゃんを見つめるピタでしたが、そんな仕草の一つ一つがおにーちゃんには堪らなくて、胸が締め付けられるみたいに苦しくなったのです。
(……か、母さんが連れてきたお坊さんが言ってたな……『この子は魔力が多すぎて、身体を巡る気の流れが悪い。だから今は足が動かないけれど、大人になったら気の巡りが変わって治るかもしれない』って……つまり、ピタは【大人】になったって事なのか……?)
自分の異変から目を背けて、おにーちゃんは考えました。今まで妹として、子供だ何だと揶揄してきたピタでしたが、改めて見ると彼女は、サナギから羽根を伸ばしつつ身を現した蝶々のように美しく輝いて見えるのですから、不思議で仕方ありません。
しかし、本当はピタだけの変化ではなかったのですが……おにーちゃんがその事実に気付くのは、もう少しだけ後でした。
それに気付くまで暫し時間が掛かりましたが、ついさっきの熊肉が美味しそうなシチューになって、夕食に出てきた時だったのです……。