第三章 その1
第三章 その1
始業式の校長の話というものは、大抵の場合、あまり印象に残らないものだと思うのだが。
しかしそれでも校長の中にはそのスピーチの内容を〈話のネタ本〉を使わず、わざわざ野菜の値段が高騰して急遽メニューを考え直さなければならなくなった栄養士ぐらいに一生懸命考えたりしている人もいるわけで。
それをいい加減な気持ちで聞くのはあまりよろしくないのではないかと思ったりもする。
けれど、この日の僕は校長が何を話したのか、まるで聞いていなかった。
何故か。
それはうちの校長の話の内容が、ドーナツの穴ぐらいに中身のないことことばかり言っていたので、真面目に何を話すのか考えた上でその内容だとしたら学校の長を名乗る資格はないと思えるようなものだったから――ではなく。
クラス替えにより同じクラスになったとある女子がずっと僕の様子を窺っているような感じがして、気になったからだ。
その女子というのは言うまでもなくあの女子である。
「こんにちは藤若君。まさか同じクラスになるなんてね」
「ああ。こんにちは河勝さん。久しぶりだね」
そう。
僕、藤若彩と、あの女子こと河勝隣は同じ二年七組になったのであった。
ついでにいうと僕の友人で同じ生物部に所属している古部香も同じクラスなのだが。
やつはホームルームが終わるとすぐに教室を出て行ったので今はいない。
何か別のクラスの様子を見に行くとか言っていたが……様子を見にって、他クラスに何を見に行くつもりだろうか? 謎だ。
まあ、香のことは気にしないことにするとしよう。
「久しぶりって。そもそもあたしと藤若君の接点って、あの件しかないんだからその言い方は変だと思うけど?」
「あ、ああ……そうだね」
河勝さんは先ほどの僕の挨拶に対して鋭い指摘をしてきた。
確かに、河勝さんからすれば今の僕の発言は妙な言い方だったかもしれない。
あの日から一ヶ月半近く、彼女のことを探していたのに見つけられなかった僕からすれば久しぶりという感覚だったのでついうっかり言ってしまったが……怪しまれただろうか?
「まあ、いいわ。そんなことはどうでも」
「うん。どうでもいいね。どうでも」
どうやら大して気にはしていないらしい。
なんだ。別に怪しんだわけではないのか。
……もしかして僕は河勝さんのことを気にしすぎているのだろうか?
僕は昨日生物室を覗いていた生徒を河勝さんではないかと想像したり、始業式の時に河勝さんがこっちを伺っているのではないかと思い込んだりしたが。
よく考えれば河勝さんは僕に正体がばれたなんて全く思っていないかもしれないわけで。
そうなると、そんな彼女を警戒するというのは馬鹿らしいというか何というか。
よし、あんまり河勝さんが僕を疑っているんじゃないかと意識するのはやめにしよう。
そう、僕は思ったのだが。
丁度そのタイミングで河勝さんが、
「実はあの日からあたし、藤若君にずっと聞きたいことがあったの」
と言いながら、いきなり僕の顔に顔を近づけて僕の目をのぞき込むようにしてきたので、結局、再び彼女のことを警戒せざるを得なくなってしまったのだった。
こ、これは。やっぱり僕のことを疑っているのか?
いや、その前に
河勝さんの顔が近い、近過ぎる。
「ちょ、ちょっと近いって河勝さん」
「あ、ごめん……じゃなくて質問したいんだけどいい?」
河勝さんは謝ったものの、後退せずに顔を近づけたまま質問をし始めようとする。
どうやら彼女の方から下がる気は、一方通行の道を逆走してきた相手に道を譲る気持ちくらいにないらしい。仕方がないので僕の方が後ろに下がる。
しかし、質問か。
果たして一体何を聞くつもりなのだろうか?
もしかして、僕が河勝さんの正体を知っているかどうかということをいきなり聞くつもりだろうか? だとしたら人の多いクラスのど真ん中なんてまずいと思うのだが。
「質問ってここで?」
「ん? 別にこれ人に聞かれちゃまずいことじゃないと思うんだけど」
「そ、そうなの?」
どうやら人に聞かれてもいいことらしい。
とすると、何を聞こうとしているのか、僕には「ラスト三行にどんでん返しが待っている」と帯に書かれた小説の内容ぐらいに想像ができないな。
でも多分、僕が河勝さんの正体を知っているかどうかを探るための質問に違いない。
と、僕は河勝さんの質問に身構えたのだが。
河勝さんは、
「うん。だって質問って藤若君って珈琲好き? っていうことだから」
という僕にとっては瓢箪から天馬が出るくらいに意外な質問をしてきた。
何故ここで珈琲が好きかを聞くのか? しかも、ずっと聞きたかったことなのか? もしかして、僕が何か別の言葉と珈琲を聞き間違えたのではないのか?
いくつもの疑問が頭に浮かんだ僕は、気がつけば特に意識せず河勝さんに「珈琲?」と聞き返していた。
「そ。珈琲。千のキスより素晴らしく、マスカットぶどう酒より甘い珈琲」
どうやら河勝さんの受け答えを見る限り、言っているのは珈琲の話で合っていたらしい。
しかし河勝さん、いきなり妙なことを言い出すものだ。というか、
「千のキスよりって。河勝さんってキス魔か何かなの?」
「何セクハラまがいなこと言ってんの? 例えに決まってるでしょ」
まあ、それは言われなくてもわかる。
ええと、河勝さんが言った言葉の引用元はバッハが作曲した――
「確か『コーヒー・カンタータ』の一節でしょう? 知ってるよ」
「え? 知っているの?」
僕が「コーヒー・カンタータ」を知っていたことが意外だったらしく、河勝さんは寿司屋のメニューに牛の第二胃のトマト煮込みを見つけた時みたいな表情を浮かべた。
河勝さん。相手が知らない前提で引用していたのか。
もしかして「何それ?」と聞かれたときに「実はこれは――」とでも説明して、自身の蘊蓄を披露しようとでも企てていたのだろうか?
だとしたら悪いことをしたかもしれない。
「友人が珈琲とか好きでね。詳しいんだ」
僕が珈琲やクラシック音楽に詳しいと思われて、そういう話題をされても困るので、何故僕が「コーヒーカンタータ」を知っていたかに関して一応明かしておく。
そういえば、この話が出たとき、他にもベートーヴェンが一杯の珈琲を飲むため毎回、ぴったり六十粒珈琲豆を数えていたこととかも香から聞かされたりしたな。後は――って、いや。
今はそんなことはどうでもいいか。
河勝さんは僕の友人が珈琲好きだら、僕がバッハの曲を知っていたことにはとりあえず納得したらしく、「ふうん」と頷き、そしてそれから、
「……で、藤若君はどうなのよ」
と再び訊ねてきた。
ああ、そうそう。河勝さんが変なことを言うから何を話していたか忘れそうになっていたけど、僕が珈琲が好きかって話だったな。
「僕ね。僕はまあ、美味しい珈琲は嫌いじゃないよ」
言ってから、僕はふと、今のは何か気障な言い回しになっているんじゃないかと思った。
不味い珈琲が好きという人はアルビノのカラスより珍しいだろうから普通に「珈琲が好き」と言ってもよかった気もするし。
ついつい余計なことまで言ってしまうのが僕なのだが、あまり面識のない女子にこの調子で話していると嫌われるんじゃないだろうか?
なんて、僕は心配していたのだが、河勝さんは特に別に気にはならなかったらしく、
「そう。なら大丈夫ね」
とさっきまでとは変わらぬ様子で言ってきた。
一体、何が大丈夫なのだろうか?
「大丈夫?」
「藤若君」
「何?」
僕が話がどんどん予期せぬ方向に進んでいるので、次に河勝さんが何を言うのか、意外性が売りの映画の展開ぐらいに、全く想像できずにいると、河勝さんは僕をびしっと、先端から怪光線でも放出されそうな勢いで指でさして、
「この前のお礼がしたいから明日の放課後、一緒に喫茶店に行きましょう」
と言った。
ポーズと口調から見ると「行きましょう」より「来なさい」いや、下手をしたら「来やがれ」とでも本当は言いたかったのではないかと思えるその様子に僕は多少圧されながらも、
「え? お礼?」
と河勝さんに訊ねた。
一体、僕に何のお礼だというのだろうか? 思い当たる節がないのだが。
「だから、この前保健室に行くのに付き添ってくれたお礼」
ああ、なるほど。しかし。
「いや、でもあれは……」
どう考えても僕が余計なことをしたというか。結果的に僕はいなくてもよかったというか。
大体、なんで一ヶ月以上も経ってからなんだろう? 同じクラスになったから?
「いいから。行くの? 行かないの?」
いきなりお礼と言われて、戸惑っている僕に河勝さんは強い口調で言う。
「ええと……」
突然、女子からお茶に誘われたというこの状況。
非常に怪しい。
大体、あの程度のことへのお礼ならもっと安く、例えば校内に設置されている自販機とかで済ませてもいい気がするし。
いちいち、喫茶店まで一緒に行くということに対して河勝さんが何か何も企んでいない可能性は、路地裏にある建物の会員制バーに集まった黒服サングラスの連中が悪だくみを話し合わないくらいに低いだろう。
とはいえ、誘いを断るのはそれはそれで悪い気がする。
第一、仮に河勝さんが僕の見間違いではなくソキウスだったとしたら、これはつまり、自分の好みの女性と二人でお茶を楽しむ機会なわけで。
それを蔑ろにしては一人の男子として、後々後悔する可能性が高い気もする。
よし、こうなったら。
「行こうかな。折角だし」
僕は覚悟を決めて、河勝さんの誘いを受けることにした。
すると河勝さんは嬉しそうな顔をしながら、
「よし、それじゃあ決まりね。というわけで明日の放課後は開けておいてね」
と言い、そしてそう約束をするが早いか、
「じゃあ、あたし他のクラスになっちゃった友達に用事があるから」
と断ってこの場を離れ、教室から出て行った。
「何だったんだ? 一体……」
河勝さん。今まで全く会うことがなかったと思ったら、同じクラスになった途端に喫茶店に誘ってくるとは。彼女は果たして何を考えているのか。
非常に気になるところだが――
ま、それを考えるのは後にするか。
もうこんな時間だし、いつまでも用事のない教室にいても意味がないだろう。
そう思ったので、僕は部室である生物室に向かうことにしたのだった。
(続く)